【20】

江東区、K幼稚園。

蘆田光(あしだひかる)は園の職員室で主任教諭の富田良子(とみたよしこ)、友人の篠崎渚(しのざきなぎさ)とこれから先の行動方針について話し合っていた。少し離れた席では、光を付け回すストーカーの沢渡裕(さわたりゆたか)が持ち込んだパソコンの画面を覗き込んでいる。

三人であれこれと話し合って見たものの、結論はまったく出なかった。最も妥当な方法としては、園から2km程の距離にある光たちのマンションに避難して、政府の救援を待つことだろう。しかし園からマンションまでの道が、来た時のように安全という保証がどこにもない。路上に突然現れたあの突起物は次々と増殖しているようだからだ。かと言って、ここに留まって救援を待つことも出来なかった。1時間程前に園の近くで米軍の戦闘機が墜落したことが、緊急のニュース速報として流れて来た。その際に送電線が切れたらしく、園舎内が停電していたからだ。園内は照明もエアコンも切れていて、薄暗い上に真夏の暑さが充満していた。このまま留まっていると、大人はともかく二人の園児たちは確実に熱中症に掛かると思われた。

「やっぱり私たちのマンションまで移動した方がいいんじゃないかな?ここでじっとしているより」

「光さん、それは考え物ですよ」

光が何度目かの提案をした時、離れた席にいた沢渡が話に割り込んで来た。

「何で?」

「今ネットニュースで確認したんですが、この周辺ではあれの増殖がかなり進んでるようです。多分、僕たちのように取り残されている人がいて、ネットで情報を流しているんだと思うんですけど。道路だけじゃなく、建物の中でも突起物が現れている所があるそうです。そういう意味では、この建物も危険なんですが」

「そういうのって、デマなんじゃないの?」

「一概にすべてデマとは言い切れないですね。実物の写真入りで、結構信憑性の高そうな情報も相当数ありますから」

光が疑問を呈すると、沢渡は即座に否定する。

――こいつ、普段と違って、妙にはきはきしてやがるな。

光は変に感心しながら、沢渡に反論する。

「だったら尚のこと、じっとしてるのは拙いだろう」

「そうなんですが、闇雲にマンションに向かうのは危険だと思います。それに…」

沢渡はそこで口籠った。

「何だよ。はっきり言えよ」

「さっき撃墜された米軍機なんですけど。あのことで突起物と言うか、あの水流に対するアメリカの危険度認識が上がってると思うんですよね」

「また攻撃してくるってこと?」

それまで黙っていた渚が横から訊ねる。富田は三人の会話を、固唾を飲んで聞いているようだ。

「そうです。自国のジェット機を撃墜されて、あの国が黙っている筈がないんですよ。次は爆撃か、下手をすると核攻撃…」

「阿呆か?何映画みたいな話してるんだよ。そんなこと日本政府が許すわけないだろう!」

「だとしたら、さっきのジェット機の攻撃だって政府が止める筈じゃないですか。多分アメリカは、自国の危機を回避するのためなら、有無を言わさず実行しますよ」

「自国の利益って、お前。日本の東京の江東区の話だろうが。何でそれがアメリカの危機になるわけ?」

「あれ、放っておくと、無限に増殖するんじゃないですかね。だから今のうちに叩いて置くというのは、十分考えられると思います」

「つまり、あれがアメリカまで到達する前に潰そうって魂胆ということか。あり得るかも知れんな」

渚が肯定的に言ったので、光は言葉を失った。するとそれまで黙っていた富田が、三人に向かって、切迫した口調で言った。

「この方が言われるようなことが起きるのかどうか分からないけど、やっぱりこのまま園にいるのは危険だと思うわ。この暑さじゃ、もう子供たちが持たないかも知れない。申し訳ないけど、やっぱり蘆田先生のマンションに避難した方がいいんじゃないかしら」

「富田先生でしたか?それもかなりリスクが高いと思います。まず光さんたちのマンションが停電していない保証がないこと。それに政府の救援がいつ来るか分からない状況であること。政府の救援が来る前に、あの突起物の増殖が広がれば、建物の中でも安全と言えなくなるし、帰って逃げ場を失ってしまいます」

「お前そうやって冷静に言うけど、それってどこ行っても無駄だってことじゃないか」光が詰問調で言うと、沢渡は「実は」と言って話し始めた。

「さっきこの周辺の下水道の配置図を、ネットで調べて見たんですよ。するとこの園の近くの下水道事務所の敷地内に、かなり大きめの下水道の入口があって、そこから地下鉄の線路まで辿りつける可能性があることが分かったんです」

「下水道って、お前何言っているの?」

「ですから、下水道から地下鉄を辿って、中央区の方に脱出出来るんじゃないかということです」

何か言おうとする光を遮って渚が訊いた。

「下水道に降りるのはいいけど、そこにあれがいない保証はどこにある?」

「同じくネットで見たんですが、地下鉄の線路を歩いて、隅田川を超えて避難した人が結構いるようなんです。つまり地下鉄の線路には、あの突起物はなかったんです。あくまで可能性の問題ですが、あの突起物は地下に向かっては出ていないかも知れないんです」

光と渚は顔を見合わせた。沢渡の推測だけで、危険を冒す難しい判断は出来ないからだ。その時、それまで三人の会話を黙って聞いていた富田が、意を決した様な表情で言った。

「蘆田先生、この方の仰る方法で脱出しましょう」

「富田先生…」

「このままだと、子供たちが持たないと思う。救助を待っていたら命に関わるわ」

「でも、うちのマンションに逃げ込むという手も…」

「先生のマンションは、地下鉄とは反対方面だったわよね?一旦そこに逃げ込んだとしても、また出なくならなくなった時、今より危険度が増すと思うの。そうなるよりも、今のうちに、確実に安全な場所に逃げた方がいいと思う」

富田の真剣な眼差しに押され、光は黙り込んでしまった。渚は顎に手をやり、じっと考え込んでいる。

「光さん、急がないと下水道の入り口に近づけなくなる可能性があります」

沢渡の言葉に、光は意を決して渚を見た。

「あんたの危険探知機はどうなの?」

渚が光に問う。

「微妙、だな」

「そうか。じゃあ、賭けだね」

「確かにそうだけど、このままどこかに引き籠って二進も三進も行かなくなるのは、性に合わない。それなら、こいつの言うことに乗った方がましかなと思う」

渚はにやりと笑うと、勢いよく立ち上がった。

「それじゃあ、早速行動に移るとしますか。ストーカー、あんたしっかり案内できるんだろうね?」

渚の言葉に、沢渡はコクコクと頷いた。それを確認すると、渚は光たちに向かって言った。

「取りあえずあたしは、こいつと偵察に行ってくるわ。あんたはその間に逃げる準備しといてくれる?」

「了解。気をつけろよ」

この辺りの二人の呼吸はぴったりだ。

職員室を出た渚は、沢渡を従えて園の裏口に出た。外の様子を慎重に窺う渚に、

「僕が来た時はまだ、この付近にあの突起物は見当たりませんでした」

と沢渡が告げる。無言で肯いた渚は素早く裏門に近づくと、門外の様子を確かめる。幸い突起物はまだこの周辺に達していないようだ。渚は後について来た沢渡に確認した。

「その下水道の入り口ってのはどっち?」

「門を右に出て、運河沿いに東に行ったところです。下水道の配置図を見る限り、そこから南に向かうと東西線の線路まで出れる筈です」

「下水道の入り口までは、上を通らにゃならん訳か。この先の状況は分からんが、愚図愚図しているうちに手遅れにならんとも限らんな」

「ですので僕がこの先の様子を偵察して来ます。渚さんは戻って皆さんを、グフッ」

そこまで言った時、渚のボディーブローが沢渡の鳩尾辺りに炸裂した。

「あたしの名前を気安く呼ぶんじゃねえ」

そう言い捨てると、渚は園内に引き返そうとした。その後姿に向かって、

「出来たらブランケットを水浸しにして、羽織れるようにしてくれませんか。人数分」

と、沢渡は咽て苦しそうな声を上げた。振り返った渚は、「何で?」と短く問う。

「あれは多分、熱に反応している様なんです。だから体の表面温度を下げれば、狙われる確率が下がるんじゃないかと」

沢渡の返事に肯いた渚は、職員室に向かった。そして待機していた光と富田に、手短に状況を説明する。

「確かお昼寝用の、予備のタオルケットがあったわ。あれを使いましょう。ブランケットだと重すぎるし」

そう言い残して職員室を出た富田は、タオルケットを両手一杯に抱えて戻って来た。光は富田からタオルケットを受け取ると、渚を促してトイレに向う。そして洗面台に手分けしてタオルケットを浸けると、

「水浸しにした方がいいんだよね?」

と渚に念を押す。渚が頷くのを確認した光は、蛇口を捻り、勢いよくタオルケットに水を掛けた。それを渚に手渡す。濡れたタオルケットを光から受け取った渚は、辟易とした顔で言った。

「だー!気持ち悪いな。重いし。これを頭から被ると思うと、うんざりするな。やっぱ、行くの止めようか」

「うだうだ言ってんと、ちゃんと持てよ。はい、次」

光はボトボトと雫を垂らすタオルケットを、次から次へと手渡した。全員分を水に浸し終えると、二人で手分けして職員室に持ち帰る。そして水や懐中電灯など、必要なものを詰めたリュックを背負うと、

「これ結構重いんで、羽織るのは出てからにしましょう」

と言って富田を促した。彼女の言葉に肯いた富田は、

「萌香ちゃん、優太君、今から出かけるから。荷物は後から取りに来るから、置いて行きましょうね」

と、島田姉弟に優しく声を掛けた。優太は不安そうに姉を見上げたが、萌香は気丈に口を結んで立ち上がると、弟を促して立たせる。

――根性ありそうだな。

光は幼い園児の健気さに思わず微笑んだ。


***

光と渚が先導し、富田が園児二人を後から守るようにして裏門まで来ると、右手に見えるビルの角から沢渡が顔を覗かせ、手招きしているのが見えた。光たちは急ぎ足で沢渡の所まで移動する。沢渡は近づいて来た光に説明した。

「ここを真直ぐ行くと、地図上は一番近道なんですが、この2本先の道路にあの突起物が生えてるみたいなので、左から運河沿いに迂回して方がいいと思います。でも…」

「でも何だ?」

「それでも一度は、突起物のある道路を横断しなければなりません」

「マジか?じゃあ一旦引き返した方がいいかも…」

光が言いかけた時、渚が肩を叩いた。光が振り向くと、渚が背後を指さして言った。

「引き返すのは無理そうだ。あれが生えて来てる」

渚の指差す方を見ると、確かに園の裏門辺りの車道から黒い物が突き出していた。それは見る間に伸び始め、更に手前の道路から新たな突起物が顔を出した。光が振り向いて渚を見ると、

「あっちからも来るぞ」

と言って道路の反対方向を指差した。光がその方向を見ると、同じように黒い突起物が道路を突き破り、伸び始める。

「挟み撃ちか。兎に角こっちに進むしかないな」

光は一瞬で決断すると、全員を促して運河を目指した。

「僕が先に行って様子を確認します」

沢渡はそう言い残して走り出した。彼の後を追った一行が運河の近くまで辿り着くと、北側に黒煙が上がっていた。その付近の建物も大きく崩れ、所々で火災が発生しているようだ。

「あそこに米軍のジェット戦闘機が墜落したようですね」

沢渡が誰にともなく呟いた。光はその悲惨な光景に一瞬見入ってしまった。子供たちは怯えて富田にしがみついている。

「急ぎましょう。そしてここからは、その濡らしたタオルケットを被った方がいいと思います」

沢渡の言葉に我に返った光と渚は持っていたタオルケットを富田と沢渡に手渡し、島田姉弟にも被せようとした。しかしそれまで不安を押し殺して耐えていた園児たちが、ずぶ濡れのタオルケットを被るのを嫌がり泣き出してしまった。

「蘆田先生、この子たちは私が宥めるから」

すっかり困惑してしまった光に言うと、富田はその場にしゃがみ込んで園児たちを優しく諭し始める。

「これ、濡れてるから嫌だねえ。でもね、今日はとっても暑いから、これを被るとひんやりして気持ちいいよ。先生を見て。涼しそうでしょ?」

涙目で見上げる子供たちに笑顔を向けながら、富田は自分用のタオルケットを羽織って見せた。園児たちは富田と光を交互に見上げると、まず姉の萌香が羽織って見せる。

「冷たーい。でも気持ちいい」

それを見た弟の優太も、意を決したように自分の分を頭から被った。

「本当だ。冷たくて気持ちいい」

その様子を見た富田は、もう大丈夫――という風に光に肯いた。

「じゃあ、ここからは建物の間を慎重に進みましょう」

そう言って全員を促した沢渡は、今度も自分が先行して様子を見る積りらしく、先に進もうとした。すると渚が、

「ちょっと待って。あたしも行くわ。あんたたちは子供ら連れて、後から来て」

と言って、速足でビルの間の道を沢渡と連れだって歩いて行った。二人は国道と交差する付近まで行くと、そこで立ち止まり何か話し合っている。光と富田が園児を連れて二人の所にたどり着くと、

「拙いかも知れん。近くの国道にあれが突き出してるわ」

と、渚が渋い表情で言った。国道の方を見ると、確かに三色斑の突起物が江東区役所前の車道の舗装を割って飛び出している。

「下水道の入り口ってどこにある?」

光が沢渡に確かめた。

「あそこに見える橋を渡った向こう側に見える、グレーの建物の敷地内にある筈です」

沢渡が光に答えたその瞬間、運河の向こう側で水柱が噴き上げて、戦闘機が墜落した場所の方に向かって行った。そして今度はフィルムの逆回しのように元の場所に戻って行った。建物にさえぎられてよく見えなかったが、墜落現場の炎に反応したようだ。運河の向こう側でも突起物が増え始めたかのかも知れない。

その一部始終を見ていた光は、少し考えた末に言った。

「こっち側にいても、すぐに逃げ場がなくなりそうだな。毛布を被って、一気に橋の上を突っ切るしかないか」

「それしかないかも知れんが、相当やばそうだぞ」

渚が光の言葉に即座に反応する。

「運任せだけどしゃあんめえ。子供らは、あたしとあんたで一人ずつ背負って行こう」

光が言うと、渚はやれやれという表情で軽く頷いた。

「という訳で富田先生。私とこいつで子供らを背負いますんで、先生は後から付いて来て下さい。ストーカー、お前もな」

「大丈夫かしら。蘆田先生はともかく、お友達の方は随分と細身でらっしゃるけど」

富田が心配そうに言うと、光は即座に返した。

「こいつはこう見えて、空手で鍛えてるんで、全然大丈夫です。それより子供たちを背中に括り付けた方が安全なんですけど…」

すると横から渚が、

「あたしが黒帯持ってきたから、それ使おう」

と言って、リュックの中から2本の帯を引っ張り出した。

「あんた何で、そんなもん持って来てる訳?しかも2本も」

「そんなもんはないだろう。帯は空手家の命だ。1本は一昨日買ったばかりだったから、両方持って来たんだよ。新しい方はあんたに使わせてやるから感謝しろよ」

渚は恩着せがましく言って、少し踏ん反り返る仕草をした。光は何か言い返そうかと思ったが、そんなことをしている場合でないと思い返して帯を受け取る。その様子を見ていた富田が噴き出しそうになっていた。光はしゃがみ込むと、姉弟に向かって諭すように言った。

「今から光先生とこのお姉ちゃんが、萌香ちゃんと優太君をおんぶするから。二人とも大人しくしてられるかな?」

弟の優太は半べそをかいていたが、姉の萌香はしっかりとした目で頷いた。光は二人に向かって微笑み掛けると、弟の方に背を向けた。優太は一瞬竦むような仕草をしたが、姉に促されて光の背につかまった。すかさず渚が帯を器用に巻き付け、襷掛けに光の背に固定する。次に渚がしゃがむと姉の萌香がその背に負ぶさった。それを渚が帯でしっかりと固定する。二人は立ち上がると、濡らしたタオルケットを頭からすっぽりと羽織った。そして富田に向かって、

「それじゃあ、まずあそこに見える橋まで一気に走りましょう。私とこいつが先に行くんで、先生たちは遅れずに付いて来て下さい」

と言うと、先頭に立って運河の護岸沿いを走り始めた。それに渚、富田と沢渡の順に続く。光が橋まで10m余りの距離まで近づいた時、背後で大きな音がして国道から突き出した突起物から水流が噴き上がった。

光たちは驚いて立ち止まる。背中から優太が、音に怯えてすすり泣く声がした。水流はこちらに向かって来なかったが、このままどこかに隠れずに先に進んでいいものか判断がつかない。光が迷っていると、背後から沢渡の声がした。

「光さん、これを持って行って下さい」

そう言いながら沢渡は、丸い金属製の物を、前を歩く富田に差し出した。

「何それ?」

「コンパスです。下水道に入ったら、まっすぐ南に向かって下さい」

「お前、何言ってるの?」

「僕ちょっと行って、あれの注意を逸らせてきます。その隙に橋の向こう側まで走って下さい」

「ちょっと待て。注意を逸らすって、どうすんだよ?」

「それは考えがありますから。僕のことは気にせず、先に進んで下さいね。僕は何とでもしますから」

そう言って引き攣った笑いを浮かべた沢渡は、踵を返して反対方向に走って行く。光がそれを止めようとすると、後に立った渚が押し止める。

「今から全員で戻っても仕方ない。兎に角そこの建物の陰で様子を見よう」

その眼がいつになく真剣だったので、驚いた光はそれ以上何も言うことが出来なかった。気づけば噴き上げていた水流は、いつの間にか引っ込んだようだ。光が後方に目を向けると、タオルケットで全身を覆った小柄な沢渡が、100m程先にあるコンビニに入って行くのが見えた。やがて彼は両手にボトルの様な物を幾つも抱えて出て来たと思うと、それを道に転がし、手に残った一本の中身をその上に注いでいる。次に雑誌の様なものを取り出して火を点けると、それをボトルの方に投げ、一目散にコンビニに逃げ戻って行った。

光たちが固唾を飲むようにして事の成り行きを見守っていると、車道の上に火の手が上がるのが見えた。続いて後方の国道から水流が噴き出し、路上に上がった炎目掛けて襲いかかって行く。

「行くよ!」

一瞬で決断した光は、渚と富田に声を掛けると、ダッシュで橋に向かった。背中に子供を背負ったまま走るのはバランスが悪かったが、鍛え上げた足腰で何とか乗り切る。光は橋を渡り始める時、一瞬だけ後方を確認する。渚は遅れず付いて来ている。富田も時折よろけながら付いて来ているようだ。次の瞬間光は再びダッシュで前方に進むと、橋の上を一気に駆け抜け、右前方の建物の門内に駆け込んだ。そして門の脇にある小さな建物の扉を開け中に滑り込む。次の瞬間渚が駆け込んで来る。少し遅れて富田も息を切らしながら辿り着いた。さすがの光と渚も息が上がってしまっていた。

光は暫く呼吸を整えると、

「優太君、大丈夫かな?」

と背中に負った園児に訊いた。

背中から「大丈夫」というか細い返事が返って来る。渚の肩越しに萌香を見ると、しっかりとした目でこちらを見ていたので、光は少し安心した。光は扉を開けて周囲の様子を確認する。敷地内の見える範囲に突起物は見えなかった。門の方にも目を向けたが、沢渡が追ってくる様子はない。光は少し躊躇したが、ここでじっとしているのは危険だと思い直し、渚たちを促して先に進むことにした。

下水道局の敷地内は静まり返っていた。

――おそらく職員全員が避難した後なんだろうな。

光がそう思った時、

「あんたら、そこで何してるんだね?」

と低く抑えた声が掛かった。驚いて声の方を見ると、建物のガラス張りの玄関の中から誰かが手招きしている。光と渚は互いを見て頷きあうと、富田と子供たちを促してそちらに向かった。建物の中に入ると、ここはまだ空調が利いていて、生き返るような気分に包まる。

中にいた中年の男は広田というここの職員だと名乗った。広田は困ったような表情で、「昨晩は当直の当番で、朝起き出したらこんな状況だったんだよ。まったく運が悪いやね。よりによって、こんな日に当直なんてよ」

と、ぼそぼそと自分の事情を話した。光たちも広田に自分たちの事情を話すと、この敷地内に下水道に通じる入口がないか訊いた。彼は少し俯いて少しの間考え込んでいたが、やがて顔を上げると、

「入口はあることにはあるし、確かにあんた方の言うように地下鉄の方に通じてはいるんだが、行くのはどうかと思うよ。何があるか分からんでしょう。中にあれがいない保証はないし。むしろいると考えた方がいいんじゃないかな。それよりもここで、私と一緒に救助を待った方がいいんじゃないの?」

と、更に困ったような表情で言った。どうやらそれが広田の地顔らしい。

しかし光は、強い意志を込めて言った。

「広田さん、ここもいつまで安全か分かりませんよ。現に直ぐ近くまであれが迫って来ています。確かに下水道の中が安全かどうかは分かりませんが、それはここにいても同じだと思います。建物の中にいても決して安全とは言えないし、むしろ逃げ場を失う可能性が高いと思います。だから私たちはどうしても地下道に入りたいんです。入口を教えてもらえませんか?」

広田は光の勢いに気圧されるように沈黙したが、やがて諦めたように首を振ると、

「分かったよ。入口はここの裏手にある。でもちょっと待ってて」

と言うと、右足を少し引きずりながら玄関脇の部屋に入って行った。そして部屋から出て来た広田は、

「案内するからついておいで」

と言い、玄関から出て行った。光も皆を促して後に続く。広田について裏手に回ると鉄の扉がついたコンクリート製の四角い建物があった。

「ここ、鍵が掛かってるんだよ」

そう言って扉の鍵を開けた広田は、鉄製の扉を開けて光たちを誘った。

「この階段を降りると下水道があるよ。あまり明るくないから足元に気を付けてね。それからこれ持って行くといいよ」

そう言いながら広田は手に持ったレジ袋を光に手渡す。中を見ると冷えた水のペットボトルが入っていた。

「ありがとうございます。でも広田さんも一緒に来た方がいいですよ」

そう言って光は困り顔の中年男を誘ったが、彼は首を横に振って言った。

「俺は止めとくわ。御覧の通り、俺、足が悪いんだわ。一緒に行っても足手まといになるし。ここで待ってるから、救助隊呼んで来てよ」

「そんな」

光は更に言い募ろうとしたが、広田は掌を彼女に向けて拒絶した。そして、

「さあ、はやく行って。子供たちをよろしくね」

と、困り顔に照れ笑いを乗せて光たちに言う。それでも躊躇する光を、渚が「行こう」と言って強く促した。光も諦めて広田に礼を述べると、優太の手を引いて扉の中に入って行った。渚も萌香の手を引いて続く。最後に富田が広田に向かって深々と頭を下げ、中に入って行った。

「念のために扉は閉めとくよ。鍵は開けとくから」

薄暗い階段を降りる光たちの背後から、広田の声がした。


***

コンクリート製の階段を下ると、かなり大きな下水管に行き当たった。中は大人が立っても十分な余裕のある高さだった。足元には下水が溜まった水路を挟んで、両側にコンクリート製の通路が通っている。通路の幅は1mくらいあり、歩くのに支障はなさそうだった。

光は一旦その場で立ち止まり、荷物から懐中電灯を取り出すと、沢渡にもらった羅針盤を照らした。通路の先は南の方向に続いているようだ。光は渚と富田と短く打ち合わせをし、今度は渚が先頭、光と富田が子供たちの手を引いて進むことにした。先頭を行く渚は懐中電灯で先を照らしながら、ゆっくりと歩を進めて行く。子供たちに合わせるという意味合いもあるが、慎重に先の様子を確認しながら歩いているのだろうと光は思った。こういう時に渚の超人的な観察力は何よりも頼りになるのだ。

下水道の中は薄暗く歩きやすいとは言えなかったが、水が流れてるため外部に比べると気温が低いのが有り難かった。管内の異臭にも慣れ、あまり気にならなくなっている。沢渡の推察した通り、地下にはあの突起物が出ていないようだった。沢渡の卑屈そうな笑顔が浮かんだので、光は慌ててそれを打ち消した。今は小柄なストーカーのことを気にしている場合ではない。子供たちの体力を考え、時折休憩を入れながら進んだので、5人の歩みは中々はかどらなかった。大人の光でもかなり疲労が蓄積しているのに、幼い姉弟は健気にも文句一つ言わずに黙々と歩いている。

――この子たちを何としても助けないと。

その様子を見て、光の中にムクムクと使命感が湧き上がって来た。

どれくらいの距離を進んだだろうか。先頭の渚が突然足を止めると、懐中電灯の灯を左の壁の方に向けた。そして光と富田に振り返ると、

「多分あそこが、ストーカーが言ってた、地下鉄に繋がってる脇道じゃないかな」

と灯を少し揺らしながら言った。

光たちが見ると、確かにその部分が壁の切れ目になっていて奥に繋がっている。そこから下水管が分岐しているようだ。ようやく希望が見えて来たと思った光は、「よしっ」と呟いて進もうとしたが、渚が慌ててそれを止める。

「ちょっと待て。あの切れ目の向こう側にヤバいもんが見える」

そう言いながら渚は、分岐の5mほど先の壁を照らした。光たちがいる場所から、少し距離があるのではっきりとは見えないが、壁から何かが突き出しているようだ。

光と富田は、まさか――という表情で渚を見た。

「多分間違いないと思う」

渚は深刻な表情で頷いた。

「くそっ。せっかくここまで来たのに」

光は舌打ちする。すると富田が、彼女に向かって強い意志を込めた口調で言った。

「タオルケットを被って何とかあの分岐に逃げ込みましょう。元の場所に戻っても、さっきみたいにあれが増殖していたら、逃げようがないわ」

「確かにさっきの場所から外に出ても、それ以上行く当てもないしね」

渚が同調する。

「そうするしかないか。このままここでじっとしている訳にもいかないし。子供らも体力が持たないだろうし」

光はそう独り言ちると、決心したように二人を見て頷く。

「じゃあ、先ずは向こう側に渡ってから、あの分岐に近づこう。しかしこの下水って、どのくらいの深さがあるんだろう?」

すると渚が少し先の水面を懐中電灯の灯を照らしながら言った。

「あそこから向こう側に渡れんじゃねえ?」

確かにそこには飛び石の様なものがあり、その上を渡って行けそうだ。

光は頷くと、先頭に立って進んだ。コンクリート製の飛び石を伝って、向こう側に渡る。渚も富田も遅れずに付いて来ていた。それを確認した光は、ゆっくりとした足取りで下水管の分岐に向かって進んだ。分岐まで数メートルの所まで進んだ時、背後の富田が、

「蘆田先生、ここからは私が先頭で行くわ」

と、強い口調で言った。顔には必死な表情を浮かべている。それに気圧されたように光は先頭を富田に譲った。渚と光の横を通り抜けながら富田は二人の園児たちに、「大丈夫だよ」と声を掛ける。幼い姉弟はその言葉に健気に頷いていた。富田を先頭に数歩進んだ時、前方で何か崩れる音が響いた。咄嗟に懐中電灯の灯を向けると、分岐の向こう側にあった突起物が、壁を突き破って成長しているのが見えた。

「やばい!」

思わず光が叫んだ時、富田が振り向いて言った。

「蘆田先生、子供たちをお願いね」

そしてその場から飛び降りると、膝まである下水をザブザブと掻き分けるようにして向こう側に渡り、前方に駆け出した。それを呆然と見送る光に向かって、富田の叱咤が飛んだ。

「何してるの!早く行きなさい!」

その声に弾かれたように、光と渚は分岐に向かって走り出した。その瞬間。突起物の先から水流が噴き出し、全速力で前を通過して行く富田に向かって襲い掛かって行った。その間に光は分岐点に駆け込むことが出来た。全力で走りながら横目で見た富田の顔は、安堵の笑みを浮かべていた。

「止まらずにそのまま行け!」

後から分岐に駆け込んで来た渚が光を叱咤する。

二人は三十メートル程走ったところで漸く立ち止まった。普段鍛えているとは言え、さすがに二人とも息が上がっている。光は背中に負ぶった萌香に向かって、「大丈夫?」と声を掛けると、帯を外して下に降ろした。渚もそれに倣って弟の優太を下に降ろす。萌香は不安そうな表情で、「富田先生は?」と訊く。優太も泣きそうな顔をしている。光は一瞬答えに詰まったが、すぐに表情を和らげて言った。

「富田先生はね、後から来ることになったの。先に行っててと仰ってたから、ちょっとここで休憩したら、先に進もうか。二人とも歩けるかな?」

子供たちは状況が呑み込めていない様子だったが、半泣きの表情を浮かべながら頷いた。立ち上がった光は、厳しい表情で渚を見た。その胸にやり場のない怒りが、抑えようもなく込み上げて来る。

「富田先生も、ストーカーも…」

あまりの怒りで、後の言葉が続かない。光のその様子を見ていた渚が静かに言った。

「今はこの子らを外に出すのが先決だ。その後のことは…」

その表情は、これまでに見たことのない程険しいものだった。光同様、胸中の怒りを抑え切れないのだろう。光は決意を込めた表情で渚に頷き返した。

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