【08】
江東区東陽町Hストア店内。
玉木富子(たまきとみこ)は清掃具とトイレ備品を乗せた手押し車を押しながら、次の清掃場所へと向かっていた。富子と肩を並べて歩く同僚の岡本が、頻りに彼女に話しかけてくる。岡本が富子の相棒になって以来、毎日繰り返されている光景だった。富子が清掃のパートに出るようになったのは、5年前に夫の勇が長年勤めた警視庁を勇退した直後からだった。それまでは家にいて、細々と手職だった和服の裁縫の請負仕事をしていたのだ。
外に出て仕事をするようになったのは、収入が年金と勇が嘱託として務めている警備会社からの僅かな俸給だけになったので、少しでも家計の足しにしようという目的もあった。その頃になると裁縫の請負仕事が徐々に減っていたのも理由の一つだった。しかしそれよりも、警察を辞めて毎日のように家にいる勇と、四六時中顔を合わせていなければならない状況が、少し鬱陶しくなったというのが一番の動機だったかも知れない。
刑事だった勇の日常生活はかなり不規則で、家にいる時間もおそらく世間一般の会社員と比べると随分と少なかったはずだ。勇が突然刑事部に配属され、それまでの交番勤務や機動隊勤務の時と比べると、家を空ける時間がそれまでより極端に短くなった時、正直言って富子はかなり不安だった。その頃は娘の絵海もまだ幼かったので、出来ればもう少し家族と一緒にいる時間を増やしてほしいと思っていた。それには勇も気づいていたようで、いつも済まなさそうにしていた。だからと言って勤務時間を減らすためには、他の部署に異動するか、いっそのこと警察を止めるかしないと無理だということは富子にもよく分かっていた。結局自分が我慢するしかないと諦めてしまっていたのだ。
そんな時間が過ぎ、やがて娘が嫁いだ頃には、家の中に確固たる自分の居場所が出来上がっていた。それはキッチンなどの特定の空間ではなく、言ってしまえば家そのものが自分の居場所だったのだ。そこに定年退職した夫が居るようになると、それまでは想像もしていなかったのだが、富子は少しばかり居心地の悪さを感じるようになっている自分に気づき、少し驚いてしまった。
勇には申し訳ないと思いつつも、そんな日常が段々とストレスになっていることに気づいた富子は、思い切って清掃のパートに出ることにしたのだった。富子からそのことを聞いた勇は、最初は面喰らったような顔をしたが、敢えて彼女の提案に反対することはなかった。多分心の中ではあれこれと考えていたのだろうと思うが、それを余り口にしないのが勇の良い所であり、少し物足りない所でもあったのだが。
決断した富子の行動は至って早く、勇に告げた翌日には派遣会社の面接を受け、その後2日ほど研修なるものを受けると、翌週には先輩について清掃の現場に出ることになった。どうやら世間には清掃仕事のニーズがあふれ、かなり人手不足だったらしい。
そして外に働きに出てみると、これが結構楽しかった。富子は元々ほとんど風邪もひかないほど健康で、足腰もかなりしっかりしている。さらに若い頃から働き者できれい好きだった富子は、いたってこの仕事に向いていたと言える。毎日体を動かしているので、最近では益々体の調子がよくなってきたくらいだ。それに加えて同僚の中で岡本のような新しい友達もでき、時折誘い合わせて食事に行ったりする機会も増えたりして、近頃では以前より精神衛生的にも健康な生活を送っている。つまり富子の今現在の生活は、これまでになかったくらい充実しているのだ。
最初は夫を残して出かけるのに少し引け目を感じていたのだが、今ではそれも気にならなくなった。勇は勇で、四六時中家にいて夫婦で顔を突き合わせているのが億劫な様子だったし、最近はむしろ富子のパートに賛成している風だったからだ。
そんな勇の様子がおかしくなったのは、3週間ほど前だった。その日富子がパートから家に戻った時、奥のリビングの灯りが点いていないことに、まず不審を覚えた。彼女が「ただいま」と言っても、家の中から返事がない。その日勇は嘱託の仕事に出る日ではなかったので、いつもならリビングでテレビを見ている筈なのだが。
――どこかに出掛けたのかしら?
そう思った富子が首を傾げつつリビングを覗くと、勇が灯も点けずに、ぼおっと椅子に腰かけている。驚いた富子が、
「びっくりした。いるんだったら返事くらいしてよ」
と小言を言っても、勇は生返事をするだけで、やけに反応が鈍い。
さすがに心配になって、「何かあったの?」と訊くと、勇はようやく口を開いた。
どうやら中島茂が行方不明になったらしいという連絡が、昔の同僚刑事からあったようなのだ。中島は勇のそれ程多くない友人の中でも、特に親しい一人だった。警察学校に同期入学して以来だから、40年以上の付き合いになる。お互いの結婚式だけでなく子供の結婚式にも招待し合うくらいの仲で、中島が数年前に奥さんを亡くしてからは、たまに家に招いたりもしていた。
その中島が行方不明になったというのだから、富子もひどく驚いて、勇に事情を問い質した。中島は勇と前後して警視庁を定年退職した後、長年交通課に奉職していた関係から、江戸川区にある自動車教習所に職を得ていた。消息が分からなくなった日も仕事で出ていたが、退社後音信不通になったらしい。正確には翌日無断欠勤したのを心配した教習所の職員が中島の携帯電話に連絡したがまったく応答がなく、更に心配になって中島の息子に連絡を取ったようだ。驚いた息子が連絡をしたがやはり応答がなかったらしく、警察に捜索願を提出し、その情報が昔の同僚の間を巡り巡って勇の所に問い合わせが来たということらしい。勇も心配になり電話を掛けたが、やはり中島から応答はなかったようだ。
翌日になって江東区の南砂町にあるマンションを訪ねたが、ドアには鍵が掛かっていて部屋の中にも人の気配はなかったらしい。結果勇は心配が募る余り少々落ち込んでしまったようだ。富子はそんな夫の様子が気になったが、どうしてよいか分からなかった。夫がそれ程落ち込む姿は、知り合って以来一度も見たことがなかったからだ。そんな風なので、「元気出しなさいよ」などと、ありきたりの言葉を掛けるのも少し躊躇われた。
勇が、当たり前のことなのだが、ずっと中島のことを気にしている様子だったからだ。先日もわざわざ月島署に以前の同僚を訪ねたり、中島が勤めていた教習所を訪れたりしたようだったが、やはり何の手掛かりも見つけられなかったらしい。
そうこうしているうちに、江東区で何人もの人が行方知れずになっているというニュースが世間を賑やかし始めた。そのニュースを聞いて、勇や富子が咄嗟に中島のことを思い浮かべたのも自然の流れだろう。
勇が昔の同僚に問い合わせたところ、やはり警察でもその線で捜査を始めていることを、口外しないことを条件にしつつも教えてくれたらしい。その同僚は中島の件も含め、深川警察署に合同捜査本部が設けられることになったことも知らせてくれた。
夫の友人が巻き込まれた可能性があるということもあって、その日から富子はテレビや新聞で、その後の捜査状況のニュースを克明に追うようになった。しかし一連の事件として取り扱われていながら未だに互いの関連性すら発見できておらず、捜査は混迷を極めているようだった。失踪した者はこれまで一人も発見されていない。それどころか遺留品すらほとんど残っていないそうだ。
テレビでは、どの局の番組でも連日のように事件の推移が報道されている。それらの番組には、何だかよく解らない肩書の専門家がコメンテーターとして登場し、自分の意見や推理を開陳していた。その中には最後に必ずと言ってよいほど、警察の捜査に対する批判めいた発言を繰り返す者もいた。各局の番組の論調もこのところ警察批判に傾いていて、富子にはその状況が何とも鬱陶しく苛立たしい。
事件が未解決のまま長引いていることもあり、ある意味世間がそのような風潮になるのは仕方がないと思うのだが、それでも鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。もちろん新しい被害者が出たら出たで、富子も世間同様、
――とっとと解決してしまいなさいよ。
と思ったりする。かと言って警察がこんな大事件で手抜きをしているなどとは、露ほども考えておらず、刑事やら警官やらが必死で捜査をしているのだろうと信じている。従って、一方的に警察のやり方に文句をつけるだけのテレビ番組には、かなり辟易としていた。
――もう少し前向きな提案はできないのかねえ?
と、つい思ってしまう。ましてや夫の親友とも言ってよい中島が未だ消息不明なのだ。勇は中島の勤め先を訪ねたあの日以来、一日中家にこもりきりになっていることが多い。勿論週3回の仕事にはちゃんと出て行くのだが、それ以外は外出せずずっと家にいるようなのだ。勇のその体たらくが、さらに富子を憂鬱にさせる。今日も仕事に出かける際に珍しく小言を一つ二つ置き土産にしてきたのだが、勇は腑抜けたような返事しか返さない。
気持ちは分からないでもないが、勇が腑抜けていようが呆けていようが、事態は一向に改善しないのだから、もう少しシャキっとしたらどうかと思う。そんな愚痴を岡本に言うと、
「あらまあ、ご主人のことがよっぽど心配なのねえ。仲のよろしいことで」
などと、見当違いの反応しか返ってこないので、最近では愚痴もあまり言わなくなってしまった。そういう小さな積み重ねで、徐々にストレスが溜まっているのかも知れない。それでも富子は持ち前の明るい性格ですぐに気持ちの切り替えが効く。今日も仕事は仕事と割り切ってせっせと日常業務に励んでいるのだ。
持ち場のトイレ前に着くと、「じゃあ私は先に入って始めとくから」と、まだ話し続けている岡本に言い残し、『清掃中』の黄色い立看板を置いてさっさと中に入っていった。岡本はトイレ前の床掃除を終えてから、トイレ内清掃のサポートに入ることになっているのだ。トイレの中には誰もいなかった。早速取りかかろうとして、富子が清掃用の大振りな水受けをのぞくと、底に水が溜まっている。水道の蛇口はちゃんとしまっていたのだが、よく見ると底の排水口から湧き出しているようだ。
――やだねえ、排水口がつまっているのかしら?
そう思った瞬間、排水口から大量の水が噴き上がった。そして唖然とする富子の全身を、上から噴き下ろしてきた水が包み込んだ。
それから5分後。外の床拭きを終えた岡島がトイレに入ってみると、そこに富子の姿はなかった。不審に思って富子の名前を呼んでみたが返事がない。個室の中を確認しても誰一人いなかった。急に怖くなった岡本は外に駆け出した。
***
玉木勇は、深川警察署内の廊下に置かれた長椅子に座り込んで、呆然としていた。
勤め先のスーパーから、妻の富子が突然いなくなったのだ。勇は自宅までパトカーで迎えに来た警官にここまで連れて来られ、近頃の富子の様子やら何やらを、根掘り葉掘り聞かれていたのだ。しかし勇には、富子が失踪する理由がまったく思い浮かばない。仮に勇に愛想を尽かしたのだとしても、仕事先から突然いなくなるような無責任なことは、富子の性格からすれば考えられなかった。まして富子は、清掃中に突然トイレからいなくなったというのだ。
同僚の清掃員は、富子がトイレから出たことは、まったくないと言い切っているらしい。その時たまたま店の前に出ていた、スーパーの従業員も同様の証言していた。その店員は富子たちとは顔見知りで、トイレ前の清掃をしていた時、その同僚と立ち話をしていたそうなのだ。少なくとも富子が姿を消した際に、トイレの出入り口を通らなかったのは、確実なことのようだった。だとするとトイレの窓からということになるが、わざわざ仕事中に、苦労してトイレの窓から姿をくらまさなければならない理由がまったく不明だった。自分の意思で失踪するなら、他にいくらでも適当な機会はあったはずだ。だとすれば、すぐに連想されるのが最近頻繁に起こっている失踪事件だ。
――中島に続いて、富子まで巻き込まれてしまったのか?!
警察の事情聴取が終わった後、勇は長椅子に座り込んで頭を抱えてしまった。そこへ、「お父さん」と上から心配そうな声がかかる。勇が顔を上げると娘の絵海(えみ)と孫の智也(ともや)、そして婿の村﨑貴之(むらさきたかゆき)が目の前に立っていた。警察に着いた際に娘に電話したので、慌てて駆けつけて来たのだろう。しかし貴之まで一緒にいるので勇は少し驚いた。
「おじいちゃん」と、いつものように智也が抱き着いてくる。
絵海はそれを制止しようとしたが、それを勇は眼で止め智也を膝の上に抱き寄せた。
「一体何があったの?」
絵海が心配そうに聞く。
「何がどうなってやがるのか、俺にもさっぱり解らないよ」
勇は力なくそう答えたが、それでも言葉を探し探し、今しがたまで警察から聞かされた状況を、絵海と貴之に語って聞かせた。話している間中、膝の上の智也が心配そうに勇を見上げている。絵海と貴之も沈痛な面持ちで聞いている。
「それって、お母さんも失踪事件に巻き込まれたってこと?」
勇の話が終わると、絵海がおずおずと切り出した。すでに目に涙を溜めている。
「そう簡単に決めつけない方がいい」
そう言って嗜める貴之に、絵海は強く反論した。
「だってお父さんの話からすると、そうとしか思えないじゃない。お母さんが自分から失踪するなんて、ありえないわ」
「おいおい、喧嘩するなよ。智也が怯えるじゃないか」
勇はそう言って貴之と絵海を制したが、普段温和な二人が言い争うことなど、滅多にないことだと思った。突然の事件で二人とも動転しているのだろう。絵海たちに話したせいか、逆に勇の方は冷静さを取り戻していた。
「今のところ、警察でもはっきりしたことは解ってないんだ。だから、俺らが早合点して言い争うこともないだろう。母さんの心配してくれて、わざわざ来てくれて二人ともありがとうな。智也もな。婆ちゃんそのうち、ひょっこり現れるかも知れないし、ここにいても仕方ないし俺は家に帰るわ」
そう言いながら、勇は自分にそう言い聞かせているのだと思った。本当は自分自身が居ても立ってもいられない心境なのだが、ここで待っていても仕方がないのも事実だ。
「貴之君も忙しいのにありがとな」
婿の貴之の方を見るでもなくそう言うと、勇は長椅子から立ち上がった。別に貴之を嫌っているわけではなく、むしろよく出来た婿だと思っている。しかし、どうしても照れくささが先走って、まともに目を見て話せない。
「お前達も帰りなさい。遅くなると智也が眠くなるしな」
何か言いかける絵海を制して、「またな」と智也の頭を一度撫で勇は、警察署の玄関の方に足を向けた。
「お父さん、車で来ているので送りますよ」
後から貴之がそう言ってくれたが、勇は手を振って断った。今の状態で、娘一家と一緒にいるのが何となく気まずくて、億劫になったのだ。
「なあに、大した距離でもないから歩いて帰るよ。心配しなさんな。何か警察から連絡があったら電話するよ」
そう言うと勇は三人に背を向けて歩き出す。
「おじいちゃん、今度遊びに来てね」
背後から掛かった智也の声にも、振り向かずに手を振る。
外に出ると、蒸し暑い空気が一気に全身に纏わり付いてきた。立ち止まり、暮れかかる空を一度見上げると、勇はとぼとぼとした足取りで家路に着いた。
――この喪失感は一体何なんだ?
歩きながら勇は思った。体の中身を根こそぎ持って行かれた様だ。後には玉木勇という抜殻だけが残されている。その抜殻が、失ったもののあまりの大きさに呆然としているのだ。
――今更気づくとはなあ。俺の居場所は、富子だったじゃないか。
怒り、悔恨、悲嘆、焦燥、恐怖。止めどなく湧き出てくる負の感情を抑えきれない。失くして初めて知るなどという生易しい話ではなかった。自分の居場所が消滅してしまったという事実を、目の前に突き付けられたのだ。勇はこれまでに経験したことがない程、不安定になっている自分を感じた。このまま自分の心が壊れしまうのではないかという恐怖が沸き起こって来る。
――何でこんなことになってしまったんだ!?
もちろん事故や病気で突然身内を失くすことなど、誰にでも起こり得ることだろう。だからと言って、こんな理不尽な離別を受け入れることなど到底出来ない。その時勇は思った。自分が刑事時代に関わった事件の、被害者の家族や友人、恋人たちは、今の自分と同じ思いでいたのだろうかと。ある日突然、自分の大切な人と二度と会えなくなる――そんな状況に陥ってしまったら、その人たちはきっと今の自分のように、心の置きどころを見失ってしまうのだろう。それは受けた者にしか分からない衝撃だと思った。
勇は立ち止まり、その場から動けなくなってしまった。通行人たちが、彼の様子を怪訝そうに見ながら通り過ぎて行く。
――帰る場所がなくなったんだ。
勇は全身が震えるのを感じながら、いつまでも立ち尽くしていた。
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