【12】

津村明子はその朝、いつもより少し遅れて局入りし、その日予定されている街頭インタビューの準備をしていた。SBC入社時に親からお祝いとして買ってもらった一人住まいのマンションは、局から程近い場所にある。1LDKとはいえ、かなり高額なプレゼントであることは疑いもない。入社当社は、健康とスタイル維持のため毎日自転車通勤していたのだが、最近はぎりぎりまで眠ってタクシーを利用することが多い。いつの間にか自分の日常生活がだらけ切ってしまっていることに、うんざりとしてしまう。

その日も前夜の深酒の余韻が疲労となって体中に溜まり、まだ早朝だというのに彼女の気分を憂鬱にしていた。このままいくと、自分はうつ病になってしまうのではないかという、漠然とした不安を感じることが多くなってきた。それが欝々とした気分に、益々拍車をかけるのだ。絵に描いたような悪循環である。それでも昼過ぎになると前夜の酒の残滓が徐々に体から抜け始め、夜にはまた酒を飲みたくなってしまう。これも悪循環だった。最近は化粧の乗りも悪くなってきたような気がしてならない。運動不足で体重も徐々に増え、スタイルが崩れ始めているのが、はっきりと自覚できる。

――これでは学生時代に見下していた周囲の連中と同じではないか。いや、今の自分はそれ以下だ。

そんな思いが込み上げて来て、さらに欝々とした気分を助長する。

――どうして自分はこの職場にしがみついているのだろう?

そんな風に思うことが、最近増えて来た。実家は裕福なので、別に働かなくても生活に困ることはない。親に頼めば適当な相手を見繕ってくれて、その中から自分に最も都合の良さそうな相手を選んで結婚することも難しくないだろう。つまらない見栄やプライドも、この頃は段々と薄れてきたような気がする。

――だったら、さっさと見切りをつけてしまえばいいのに。いっそのことそうしようか。

そんなことを考えていると、「津村」と、ディレクターの島野の怒鳴り声が頭上に飛んで来た。明子はここ数年の間、局内の出世レースからはとっくの昔に脱落してしまった、その中年ディレクターの取材班に属している。別に彼女がそれを望んだわけでもなく、単なる会社の配属人事というだけのことだった。明子はむしろ、些細なことですぐに怒り出す島野のことが、はっきりと嫌いだった。それが日頃の態度に出るのか、向こうも彼女のことを毛嫌いしている様子が、ありありと見受けられる。そんな環境の中で毎日仕事をしていることが、明子の鬱屈を更に肥大させているのだ。

うんざりとした表情で声の方に目を向けると、

「津村、緊急出動だ。急げ」

という島野の怒鳴り声が再度飛んで来た。その声があまりに緊迫感に包まれていたので、明子は慌てて荷物を取ると島野の方に走り出す。島野は息を切らせる明子に、不機嫌そうな一瞥をくれると、無言で待たせていたエレベーターに乗り、屋上階のボタンを押す。明子も慌ててエレベーターに飛び込んだ。

「今日は、ヘリ取材はないんじゃなかったっけ?」

明子が問い質すと、津村は彼女を睨めつけるようにして、

「だから緊急なんだよ」

と怒った口調で言う。

「何があったのよ?教えてくれたっていいでしょう。これから向かうんだったら、予備知識がいるでしょうが」

島野の態度に腹を立てた明子は、こちらも怒りの混じった声で言い返す。するとこの怒りっぽい中年ディレクターは、

「俺も詳しいことは聞いてねえんだ。けど、かなりの緊急事態だって話なんだよ」

と吐き捨てるように言ってそっぽを向き、後はエレベーターの階数表示を見て黙り込んでしまった。明子はその背中を睨みつけ、死んじゃえ!ばーか!――と心の中で悪態をついた。

エレベーターが屋上に着き、明子と島野がヘリポートに出ると、既にヘリはローターを回して出発準備が整っていた。そして二人が飛び乗るやいなや、先に乗っていたADが横開きの扉を勢いよく閉める。それと同時に取材クルーを乗せたヘリは急上昇して飛び立った。かなりの慌てぶりだ。

「ねえ、どこに向かってるの?」

明子が訊くと、

「江東区の方だ」

という、島野のぶっきら棒な返事が返って来た。明子の方はまったく見ていない。その態度が腹立たしかったので、

「一体何なのよ?何があったの?」

と、明子は少し声を荒げ、同乗する誰ともなしに問いかけた。すると、

「それをこれから確認しに行くんだよ」

と、今度は明子を睨みつけながら島野が吐き捨てるように言った。その勢いに気圧され彼女は黙り込んでしまった。機内に気まずい沈黙が満ちる。ヘリは5分程で江東区上空に到達した。

すると機外を見ていたADが、

「あれじゃないですかね」

と、窓の外を指さしながら島野に向かって言った。島野と明子は同時に、ADの指す方を見る。

「何だありゃ?」

「何あれ?」

二人は期せずして同時に声を上げる。

市街地のあちこちから、水柱の様なものが噴き上がっていた。それを見た明子は一瞬、水道管が同時に何箇所も破裂したのかと思った。しかし次の瞬間には、その考えが見当違いであることが明らかになる。噴き上がった水柱が、まるで蛇のようにうねりながら、地上目掛けて降りて行ったからだ。そして逃げ惑うようにしている人々に向かっていくのだった。やがてその水流はターゲットとなった人を飲みこむと、引き寄せられるように噴き出し口に戻って行った。それは僅か数秒間の出来事だったが、その光景を空中から見ていた明子には、まるでスローモーション映像の様に長く感じられた。水流が通過した後には、その場所にいた人は勿論のこと、他の何も残されていなかった。

明子がその情景に呆然としていると、

「高度下げろ!カメラ回せ!」

という島野の怒声が機内に響いた。

「危ないですよ、島野さん。止しましょうよ」

「うるせえ!さっさと下げろ!これを中継しないで何のテレビだ!あれが上がって来れない高さでホバリング!」

カメラマンの忠告にも島野は耳を貸さない。状況に酔ってしまっているようだ。仕方なしにパイロットがヘリの高度を下げると、島野は目を血走らせてADに合図する。ADは少し躊躇したようだったが、ヘリの扉を乱暴に開けた。外の熱気と共に、喧噪が機内に飛び込んで来た。その時明子は条件反射の様に安全ベルトを装着し、片手にマイクを握っていた。彼女とカメラマンに向かって島野が合図を出す。

「一体これはどの様な状況なのでしょうか?私たちは今、江東区上空に来ています」

明子は憑かれたように中継を始めた。その眼も島野同様に血走っている。

「道路のあちこちから水柱が立ち上っています。それがまるで、人を襲っているように見えます。襲われた人々は、魔法の様にその場から消え去っています。あ、あれは何でしょうか?水柱が噴き出していた場所に、何かが突き出しています。斑模様の、何か植物の様に見えます。同じようなものが点々と道路上に見受けられます。水柱はそこから噴き出しているようです。あ、また新しい水柱が噴き出しました。危ない!早く逃げて!」

明子は水流に追われる人に向かって絶叫したが、すでに手遅れだった。懸命に子供を連れて建物の中に逃げ込もうとしていた母親らしい女性が、背後から来た水流に飲みこまれ、子供ともどもその場から姿を消してしまったのだ。

明子はあまりのことに、声を失ってしまった。

「津村!中継続けろ!」

その耳に、島野の怒鳴り声が響く。

その声に我に返った明子がマイクを握りしめた瞬間、物凄い勢いで水流が機内に飛び込んで来た。それが去った後、機内には誰一人残されていなかった。座席や機器類も消え失せていた。無人となったヘリは、静かに落下した。

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