【13】
江東区、門前仲町。
村崎貴之(むらさきたかゆき)は東西線の門前中町駅に、急ぎ足で向かっていた。まだ6時を少し過ぎたばかりだったが、すでに強い日差しが容赦なく照りつけて来る。村崎は堪らず立ち止まると、ショルダーバッグに入れたハンドタオルを取り出し、噴き出す汗を拭った。それで汗が止まる気配はなかったが、とにかく駅に向かって歩き出した。その時彼の目に、違和感のある光景が飛び込んできた。よく見ると、舗道から何か黒っぽい物が突き出している。それも一箇所だけでなく、点々と舗道の先まで続いているようだ。村崎は一瞬近づいて確認してみようかと思ったが、やはり先を急ごうと思い直して駅へと向かった。
永代通り沿いの出入口から地下に降りると、ムッとする様な湿気が体中に纏わり付いてくる。早くもワイシャツに汗が染み始め、うんざりとした気分を更に助長している。真夏のこの時期は電車の混雑を避けるために、かなり早い時刻に家を出ているのだが、それでも年々加速する気温の上昇には辟易とさせられる。改札を抜けてホームに降りると、大気中の湿気に加えて地下空間特有の熱気が充満し、止めどなく発汗を刺激してくる。
――早く来ないかな。
そう思いつつ、電車の運行状況を示す掲示板を見上げた途端、警笛音と共に電車が滑り込んで来た。中野方面行きの車内は満員ではなかったが、それなりに混雑していた。しかしそれでも空調が効いていたので、村崎は漸く一息つくことが出来た。
彼は新宿区戸山にある、国立感染症研究所(NIDD)に勤務する公務員だ。今の肩書は細菌第二部という部署の主任研究官――と言っても、室長を含め5人の部署のメンバーの1人だった。大学の理学系学科で博士課程を修了した村崎が、教授の進めでNIDDに就職したのは、今から13年前のことだ。村崎が所属していた研究室の卒業生は、大部分が企業の研究部門に進むのが通例だった。しかし彼は、自分が企業の組織内で働くことに向いているとは到底思えず、当時就職先の選択にかなり悩んでいたのだった。どこが向いていないのかと訊かれても明確な答えはなかったのだが、敢えて言うならば会社員として働く自分を、どうしてもイメージすることが出来なかったということだろう。
そんなの誰でもそうだろう――そう言われるかも知れないが、無理なものは無理だとしか言いようがなかった。研究室の教授もその点は理解していたようで、伝手を辿って偶然空いていたNIDDの研究員のポストを見つけると、彼を推薦してくれたのだ。国立の研究所ということで、学生当時の研究生活の延長とのイメージを持った村崎は、躊躇わずに教授の勧めに従うことにした。
入ってみて分かったことは、NIDDという場所は大学の研究室の様に、比較的自由度のある研究を行うことが出来る場所ではないということだった。考えてみれば当たり前のことなのだが、決められたテーマに沿って研究や調査を行い、国の保健政策の基礎となるデータを収集解析することが研究所の使命と言えた。それでも村崎はNIDDでの仕事が自分に合っていると感じ、真面目に業務に励み、それなりの成果も上げることが出来た。
8年前に知人の紹介で知り合った絵海(えみ)と結婚し、智也(ともや)が生まれたのが5年前だった。至極平穏で順調な人生と言えるし、もちろん村崎は十分に満足していたのだが、一方で自分の人生の行く先が見えてしまったようで、少し鬱屈とした気分になることがある。それはとても贅沢で、ある意味傲慢な考えであることは分かっていた。世の中には日々の生活に困窮している人たちが少なからずいることも、あまり平穏とは言えない家族関係の中で暮らしている人も多いことは十分認識している。その人たちから見れば、自分の悩みなど取るに足らないものだろうとも思う。それでも心の底から沁み出してくる気分を抑えることは、中々難しかった。
冷静に考えると、平穏な日常などいつ消えてなくなるか分からないものなのだ。交通事故に遭うかもしれないし、ある日突然大きな災害に襲われるかも知れない。重い病気に罹(かか)ることだってあり得るのだ。そんなことを切実に感じたのは、義母の失踪が契機だった。失踪と言っても本人の意思ではなく、誰かに連れ去られた可能性が高いようだ。何しろ義母は、パート先でトイレ清掃の最中に、同僚が直ぐ近くにいたにもかかわらず忽然と姿を消してしまったのだ。誰が何の目的で彼女を連れ去ったのか現在警察が捜査を行っているようだが、未だに行方は杳として知れない。どうやら江東区界隈で頻発している失踪事件と何らかの関連があると考えられているらしい。
義父の玉木勇(たまきいさむ)は数年前まで警視庁の刑事だったので、当時の同僚を経由してあまり公開されていない情報が入ってくるようだと妻の絵海が教えてくれた。血の繋がりはないとは言え、彼は義母の富子のことが好きだったし、彼女のことを心配もしていた。義母の性格は穏やかで、押しつけがましいことは一切言わなかった。それでも娘夫婦や孫の智也への心遣いが、自然と伝わってくるような人だったからだ。義父も厳めしさや、あくの強さが殆どない、無口で実直な人だった。お互いが多弁でないこともあり、二人きりでいると少し気づまりでは合ったが、だからと言って彼が嫌いなわけではない。むしろ人間的には好ましいし尊敬もしていたのだ。妻の情報によると、義母より少し前に義父の親しい友人も、突然失踪してしまったらしい。そんなことが重なって、勇はかなり落ち込んでいるようだった。
――無理もないな。自分だったら、どんな気持ちになるだろう。
取り止めもなくそんなことを考えているうちに、やがて電車は早稲田駅に到着した。出口から外に出ると、20分足らずの間に日差しが一層強くなっているように思えた。村崎はまたうんざりした気分になったが、諦めて研究所に向かって歩き出す。駅からは歩いて10分ほどだが、その間にすっかり汗だくになってしまった。まったく今年の暑さは例年にも増して異常だった。何か大きな天災が起こる前兆ではないかなどと、科学者らしからぬ妄想がつい湧いてきてしまう。
正門を抜け庁舎内に入ると、館内は早朝とは言え少し空調が効いていて、ついホッとした気分になる。オフィス内は灯りが点いておらず、まだ誰も登庁していないようだ。入口脇の壁にある室内灯とエアコンのスウィッチを押しデスクにつくと、汗が引くまでの間放心したように天井を見上げていたが、やがて気を取り直した村崎はその日予定の業務に取り掛かった。
集中し始めてしばらく経つと、徐々に同僚たちが登庁し始める。隣の席の柴田が机に鞄を置きながら、
「村崎さん。今日も一番乗りですか?いつも早いですね」
と、毎朝の挨拶代わりの台詞を繰り返した。それに向かって村崎は、「ああ」と曖昧な挨拶を返す。いつもの朝の光景だった。
それが一変したのは8時を過ぎた頃だった。急に庁舎内に慌ただしい空気が流れ、騒然とし始めたのだ。
―何だろう?
そう思って村崎が書類から顔を上げ入口に目を遣ると、柴田が慌てて駆け込んできた。
「村崎さん、えらいことですよ。とんでもないことになってます」
彼は喚くように言いながら、手に持ったタブレットを村崎の目の前にかざす。
その時村崎の目には、あってはならない光景が飛び込んで来た。そこに映し出されていたのは、彼の住むマンション周辺の光景だった。どうやら上空から撮影されているニュース映像らしい。その証拠に、レポーターらしき大きな声が映像と共に流れている。しかし村崎の意識はマンション1階の自室に釘付けになり、その声も含む周囲の音は、すべて遮断されてしまっていた。彼の視線の先には何かに追われるように自宅に駆け込もうとする、妻の絵海と幼稚園の制服を着た智也の後姿があった。周囲の光景はぼやけ、その姿だけがフォーカスされたように目に飛び込んで来る。二人は何とかドアにたどり着いたようだ。
――よかった。
村崎がホッとした次の瞬間、映像の端から突然水流がドアに向かって飛び込んで行くのが見えた。それは一瞬の出来事で、水流はまるで意思を持っているかのように、来た方向に引いていった。後には何も残されていなかった。そこには絵海の姿も智也の姿もなく、ステンレス製のドアの一部すら消滅しているようだった。
その時突然画像が乱れ、誰から発する恐怖の声と共に消滅した。すぐに映像はテレビ局のスタジオらしい場面に切替わったが、村崎はもはや何を見ることも聞くことも出来なかった。目の前で繰り広げられたことを、彼の脳がまったく認識できないでいる。
「絵海、智也」村崎は妻と息子の名を呼ぶと、弾かれたように席から立ち上がった。その声は掠れきっていた。立ち上がった村崎は、目の前に立つ柴田を押しのけると、そのまま室外へと駆け出して行った。
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