【11】

江東区、木場公園。

朝の散歩に出た熊崎義男(くまざきよしお)は、いつもの様にふれあい広場口から園内に入った。そこから広い園内を、1時間程かけてゆっくりと散策するのが彼の日課だった。入ってしばらく歩いた時、熊崎はその場の風景が日常と異なっていることに気づいた。いつものように園内には、熊崎同様に時間を持て余し気味の年配の散歩客や、健康おたくのジョギング族の姿がちらほら見受けられる。しかしその一部が熊崎同様、立ち止まって騒いているのだ。原因は公園のあちこちに生えている、見慣れない物体だった。

――あれは何だろう?

白と薄紫と茶褐色が混じり合った斑模様のその突起物は、地中から生えて来た筍の様な形をしていた。しかしそのサイズは筍とは比べ物にならない大きさだ。その丈は2mを優に超えているため、少し見上げるようにしないと先端が見えない程だった。その規格外の突起物が園内のあちこちで、地面から生えているのだ。

もちろん昨日の朝、彼が公園を散策した時には、そんなものは1本も生えていなかったし、おそらく日中も生えていなかっただろう。もしも生えていたら今頃大騒ぎになって、警察やら報道陣やらで、鈴なりになっているはずだからだ。

よく見るとそれの生え方には一定の規則があるらしい。どうやら噴水広場の辺りから、放射状に延びた線上に、点々と一定間隔で生えているようだ。熊崎はいちばん近いそれに近づくと、三色斑の外観をしげしげと眺めてみた。葉の外側には、ぽつぽつと2cmほどの長さの棘状のものが生えている。おそるおそる指先で棘を突いてみると、かなり硬い。

――外来植物かな?それにしても、こんな急に成長するかな?

熊崎が不審に思って首をかしげたその時、後ろから短い叫び声があがった。驚いて声の方に振り返った先で繰り広げられていたのは、信じられない光景だった。巨大な半透明の水流のようなものが、公園中をのたうちまわるようにして暴れている。そしてその水流は公園内にいる人という人を、手当たり次第に呑み込んでいるのだ。水流は一瞬だけ呑み込んだ人の色に染まるが、見る間に元の半透明に戻っていく。そして飲みこまれた人は、大掛かりな手品のように跡形もなく消え去っているのだった。巨大な水流は1本だけでなく、広い公園のあちこちで人間を襲っていた。よく見るとそれは、件(くだん)の斑色の突起物の先から噴き出しているようだった。ひとしきり人間を呑み込んだ後、水流は元の場所に吸い込まれていく。そしてまた別の突起物から新たな水流が飛び出してきて、近くを逃げ惑う人々を容赦なく襲っているのだ。

熊崎が呆然とその光景を眺めている僅かの間に、見渡す限りの場所から人の姿が消えていた。その時熊崎は唐突に自分が置かれた立場に思い至り、全身の細胞から溢れだして来る恐怖に襲われた。彼がその場から逃げ出そうとしたその刹那、頭上から「ザザッ」という大きな音がした。反射的に顔を上げた熊崎を、降って来た水流が飲み込んだ。


***

皆辺香奈子(みなべかなこ)は、清澄通りを清澄白河の駅に向かって急ぎ足で歩いていた。

毎朝のことだが、早くしないといつもの通勤電車に乗り遅れてしまうからだ。次の電車に乗っても会社の始業時間には間に合うのだが、何故だかその電車から乗客が急激に増え、乗っている間中、暑さと汗まみれの体臭に苛まれる羽目になる。あと10分早起きすればこんなに焦ることもないのだが、どうしても睡魔には勝てず、結局いつも同じことの繰り返しなのだ。懲りない自分がいい加減嫌にもなるが、一方で起きられないものは仕方がないと諦めている部分もある。

しかし今日は、いつもよりやばい状況だった。普段より1、2分部屋を出るのが遅れたため、最後は駅までダッシュしないと間に合わないかも知れない。そう思いながら前だけを見て必死で歩いていた香奈子は、舗道上の何かにつまずくと派手に転んでしまった。勢いよく転んだ拍子に地面に着いた左の掌は擦り剥け、右脚のストッキングも破れて血がにじんだ膝が透けて見えている。

「痛い。何よこれぇ?」

痛みと羞恥心で怒りの声を上げた香奈子は、自分の足を引っかけた物を見て短い悲鳴を上げる。そこには歩道を割って、何かが飛び出していたからだ。そしてその突起物は彼女の目の前で舗道を割りながら見る見るうちに伸びていき、あっという間に見上げるほどの高さにまで成長したのだった。

呆然とその様子を眺めていると、今度はあちこちで人の叫び声が響き渡り始めた。香奈子が声のする方を見ると、清洲橋通りの舗道に沿って、自分の目の前にあるのと同じ巨大な突起物が次々と生え出している。それは舗道のかなり先の方まで続いているようだった。自分が今歩いてきた方向を振り返ると、そこでも同じことが起きていた。

香奈子が転んだ地点に来るまでの間、そんなものは生えていなかった。もし生えていたらとっくに気づいていた筈だ。仮に彼女が気づかなかったとしても、道行く誰かが気づかないはずがなかった。つまりこの奇怪な突起物は、彼女が通り過ぎた後に一斉に伸びたことになる。しかも舗道に沿ってほぼ一直線にだ。

周囲の幾人かがそうしているように、香奈子も自分の目前に突然出現した、巨大な異物をしげしげと観察する。それは白と薄紫と茶褐色の斑模様をした、巨大な葉が巻いて筍状になったような形態であった。よく見ると葉の表面に棘のようなものが無数に生えている。明らかに香奈子が知っているものとは、形状も色彩もサイズもかけ離れていたが、それは何かの植物の様に思われた。

痛む膝を引きずるようにして立ち上がった香奈子は、近くにいた会社員風の男と顔を見合わせた。

――これって何ですか?

互いの表情がそう物語っている。

その時後方から突然、人の絶叫する声が聞こえて来た。咄嗟にその方向を見た香奈子の眼には、更に異様な光景が飛び込んで来たのだった。遥か向こうの方から水柱が次々と噴き上がり、こちらに近づいて来るのだ。それは舗道に生えた突起物の先から噴き出しているようだった。それだけでなく上に向かって噴き上がったその水柱は、突然方向を変えて周囲の人を飲み込んでいた。それは以前アメリカ映画で見た、南米に生息する大蛇が人間に襲いかかる様によく似ていた。

水柱はまるでそれ自体が意志を持っているかのように方向を変え、狙い澄ましたように歩行者たちに襲いかかっている。水柱に襲われ飲み込まれた人たちがどうなってしまったのか、ここからは確認できない。しかし次々と噴き上がる水柱と共に近づいてくる悲鳴が、一切の楽観的な想像を許さなかった。

突然理性の糸が切れ、恐怖の叫び声をあげた香奈子は、前方へと一目散に駆け出した。圧倒的な恐怖が、擦りむいた膝の痛みすら忘れさせている。彼女はこれまでの人生で、経験したことがないようなスピードで走り続けたが、背後から水柱が立てているらしい轟音が、人々の悲鳴と混ざりあって、急速に近づいてくる。香奈子が絶望しかけたその刹那、左前方に地下鉄の乗降口と、そこに駆け込む数人の人々の姿が見えた。必死の気力を振り絞って乗降口に飛び込み、そのままの勢いで地下へ向かう階段に踏み込んだ。あまりの勢いに、足を取られて階段を転げ落ちる。

――逃げ切れた。

香奈子は体のあちこちを階段にぶつけながらも、そう思って大きな安堵感をおぼえた。しかしその直後、彼女は自分の下半身に衝撃を感じた。香奈子は宙を舞い、さらに階段を転げ落ちて行った。

改札階のフロアに叩きつけられた香奈子は、朦朧とする意識の中で周囲に立っている数人の会社員風の男女が、怯えた表情で自分を見ていることに気づいた。その視線の先にある自分の下半身に目をやった香奈子は、自分の腰から下の部分が消滅していることを認識し、そのまま永遠に意識を失った。


***

千葉静香(ちばしずか)は、いつものように永代通りを学校に向かって歩いていた。しかしその目線は、ずっと左手に持ったスマホの画面に向けられている。画面上には友達から引切り無しにSNSのメッセージが届くため、それをチェックしてすぐさま返事を返さなければならないからだ。

時折後ろから歩いて来た、サラリーマン風の親父が、舌打ちしながら静香を追い越して行く。しかし静香は顔も上げない。そんな奴は、加齢臭をまとったハゲ親父に決まっているからだ。朝っぱらから、そんな不愉快なものを目にするのもおぞましい。そもそも自分は誰にも迷惑なんかかけていない。

――急いでいるのはそっちの勝手でしょ。そんなに早く会社に着きたいなら、黙って追い越していけばいいだけの話じゃない。

そんなことを一瞬考えたが、静香はまたスマホの画面に没頭し始めた。SNS上の話題がどんどん変わっていくので、さっさと読んで返事をしないと付いていけない。学校に着いてから友達に、

「何ですぐに返事返さないのよう?静香、付き合いわりい」

などと非難されるのは真平だ。そもそもこれくらいのスピードについていけないようでは、グループから外されてしまう。それだけは何としても避けなければならなかった。外されるだけならまだしも、確実にシカトされるからだ。そうなると学校に居辛くなってしまう。

視線と指先だけを忙しなく動かしながら歩いていると、すぐ前に立ち止まっている誰かの背中にスマホが当たった。

――何よ?信号?

そう思って心もち顔を上げた時、彼女の目の前を何かが物凄い勢いで通過していった。静香の思考が追いつけないほどの速さでそれが通過した後、目の前に立っていたはずのスーツ姿の男が消えていた。

――今のなんだろう?

その時、右手に強烈な痛みが走った。静香が視線を落とすと、右手が手首の先からなくなっている。

――私のスマホ!

反射的にそう思った瞬間、左側から何かがぶつかってきて彼女を包み込んだ。そして静香は消滅した。


***

「とも君、早く着替えなさい。バスに置いて行かれるわよ」

村﨑絵海(むらさきえみ)は、朝の子供向けテレビ番組に夢中になっている息子の智也(ともや)に、いつもの朝の台詞を投げかけた。真夏のこの時期は、夫の貴之が毎朝6時過ぎには職場に出ていくため、この時間帯は幼稚園に送り出すまでの間、息子の智也と二人きりだ。智也は今見ている朝の番組が、殊の外お気に入りで、始まると夢中になってテレビにかじりついてしまう。結果中々通園の支度をしないので、いつもバスの送迎時間ぎりぎりになってしまうのだ。そして絵海にせかされ、膨れっ面でしぶしぶ支度を始める。いつもの朝の村崎家の光景だった。

絵海たちが済む都営住宅は江東区にあり、居住面積はさほど広いとは言えないが比較的新しい建物で、家族三人で暮らすには十分満足のいくレベルだった。欲を言えば一戸建てに住みたいと思うのはやまやまだが、東京の住宅事情と夫の収入を秤にかけると、かなり郊外まで行かなければ果たせぬ夢だった。

夫の貴之は国立感染症研究所に、主任研究官として勤めている。主任とは言え公務員であるから、同年代の一部上場企業に努める会社員などに比べれば、収入は決して高くない。その上早朝から出勤して深夜に帰宅することも度々の夫に、郊外から新宿区にある戸山庁舎までの毎日の通勤を強いるのは、絵海にはとてもできなかった。近頃では母の富子が失踪して以来ほとんど家から出なくなってしまった父の勇が心配で、頻繁に様子を見に、月島にある実家に出かけている。そのことを考えると、結果論ではあるが郊外に引っ越さなくてよかったと思う。

母の消息は未だに判っていない。絵海の知る母は、父を一人置いて書置きもせずに家を空けるような人ではなかったため、おそらく一連の失踪事件に巻き込まれたのだろうと、暗い想定に至ってしまうのはいつものことだった。何故母がそのような事件に巻き込まれてしまったのか、その理由が絵海には全く分からなかった。事件の捜査は完全に暗礁に乗り上げているという。最近ではめぼしい進展もないらしい。ここ数日間は新たな事件も発生していなかったので、事件がテレビや新聞で取り上げられることも少なくなってきた。

「お母さん、できたよ」

そう言いながら智也が得意げな顔で前に立ったので、曲がった園児服の襟を直してあげると、軽く背中を押して彼を急かした。玄関で智也に靴を履かせ自分もサンダルをつっかけると、ドアを開けて智也を先に外に出す。ここまでは毎朝繰り返してきたルーチンだったが、絵海にとっては子供を持つ母としての幸福感を感じさせる瞬間の一つでもあった。そしていつものように玄関のドアを開け、智也を連れて外に出た絵海は、そこに今まで見たこともない光景が展開されているのを目にした。

何本もの巨大な水流が、道路上をまるで大蛇がのたうつように動き回っている。そして逃げ惑う人々を襲い、次々と飲み込んでいるのだ。その水流は一頻り動き回った後、道路上に生えている大きな突起物に吸い込まれていく。そしてそこから再び飛び出して、人々を襲撃することを繰り返していた。

束の間呆然としてその凄惨な光景を眺めていた絵海は、近くで上がった大きな悲鳴によって我に返ると、反射的にそちらに目を向けた。そこには智也が通う幼稚園の通園バスが停車していた。そして今まさに、新たに飛び出した水流が地上をのたうつようにしてバスに近づいていくのが見えた。次の瞬間それはバスにぶつかり、その部分だけ抉り取られるように消滅していた。絵海は恐怖のあまり腰にしがみついている智也の手を引っ張ると、反射的にドアを開け部屋の中に駆け込もうとした。その時背後から音が響いた。

絵海が智也を庇って後ろから抱きかかえたその瞬間、彼女の体を衝撃が包み込んだ。

――この子を…。

急速に消滅していく意識の中で、絵海は思った。

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