【02】

その朝、津村明子は、東京湾上空をヘリコプターで移動していた。彼女はテレビのキー局の一つである、SBCの社員だ。所謂(いわゆる)女子アナである。

とは言っても、彼女が番組でニュースを読むことは極めて稀で、バラエティー番組のレポーターが現在の彼女の主な仕事だった。


明子はまだ中学生だった頃から、上昇志向が人並外れて強かった。

彼女自身はそれを単なる向上心だと考えていたが、周囲から言わせると、彼女のそれは上昇志向以外の何物でもなかった。


明子は中学1年から高校3年生までの6年間、一貫してクラス委員や生徒会委員を務め、中3と高3の時は生徒会長に選ばれていた。

いずれの場合も自薦で立候補し、対抗馬のいない無風選挙の結果だった。

彼女を押しのけてまで、委員長になりたいと思う同窓生がいなかったからだ。

つまり明子は周囲の学生にとって、かなり面倒臭い存在だったと言える。


しかし彼女は、そんな周囲の思惑など一切頓着しなかった。

というよりも、そんな思惑には気づきもしなかったという方が正鵠を射ているだろう。


明子は6年間の中高生生活を通じて、文化祭委員や体育祭委員、演劇部の部長と、委員や長と名の付くものには必ず立候補し、その地位をゲットしてきた。

いずれも自分の能力とリーダーシップを、自分自身で強力にアピールして憚らない結果だった。


つまりは周囲の誰よりも押しが強く、誰よりも前に出たい性格だったということだ。

加えて明子は自分の能力や容姿について、相当以上の自信を持っていた。

実際彼女は一般的に見て美人の範疇に入る顔立ちをしていたし、幼少期から続けていたバレエのおかげで均整の取れたスタイルをしていた。


更には大企業の経営者を父に持つ裕福な家庭に生まれ、親が娘につぎ込む金に糸目をつけなかった結果として、中高生の頃から分不相応と思われるような高級ブランド品を、ふんだんに身に着けていたのだ。


これで己惚れるなという方が無理だろう。

その結果明子は中高6年間を通して、常に自分はトップの位置にいなければならないという確固たる信念を、自ら育て上げて行ったのだった。


やがて都内の名門女子大学に推薦入試で合格した彼女は、合格が決まったその瞬間から、自分の将来像をテレビの、それもキー局の花形アナウンサーになることに見定め、その目標に向かってがむしゃらに突き進んで行った。


裕福な家庭事情を背景に、アナウンサーという職業に必要と考える得る習い事には全て手を出した。

もちろん明子自身も目標達成のために、ありとあらゆる努力を惜しまなかった。


同級生たちがサークルやコンパに勤(いそ)しんで、短い学生生活を堪能している間、彼女は脇目も振らず自分磨きに専念した。

英会話のスキルアップのため海外への短期留学もしたし、学費が高額で有名なビジネススクールにも通った。

プロポーションを維持するため、週3回以上スポーツジムに行くことも欠かさなかった。


「何が楽しくて、毎日毎日あんなに習い事ばかりしているのかしら?」

同窓生の中には、そう言って明子の努力を冷眼視する者も多かった。


「ああいうのを<お稽古馬鹿>って言うのよね」

中には、そんな辛辣な陰口をたたく者もいた。


しかし明子に言わせるなら、人生の目標も持たず、ただ毎日をのんべんだらりと過ごしているそいつらこそ馬鹿以外の何者でもなかった。

――こいつらは一体、何のために生きているのだろう?

明子は常々疑問に感じていた。


当時の明子にとっては周囲の学生たちは勿論のこと、時には教員までもが、無知で愚鈍な者の集団に見えたのだ。

そしてその愚か者たちの中に、自分の様な選ばれた人間がいることが耐え難い苦痛に思えてならなかった。


やがて明子は周囲を見下す言動を隠さなくなり、その反動として周囲からは傲慢な女として敬遠されることになった。

その結果、当然の流れとして学内で孤立していった。

明子は常に一人で過ごすようになり、学内での居場所が殆どなくなってしまった。


しかしそんな状況に陥っても、明子は一切弱音を吐かなかった。それ程彼女のメンタルは強靭だったのだ。

キーテレビ局の花形アナウンサーになる――その煌びやかな目標の前では、毎日流されるままに生きているとしか思えない連中との交流など、彼女にとっては時間の無駄以外の何物でもなかった。


明子は、自分にとって何のメリットも生み出さない人間関係から解放され、むしろ清々した気分になった。

そして益々自己研鑽に邁進したのだった。


その努力の甲斐あってか、明子は東京のテレビキー局の一つであるSBCに、正社員として採用された。

配属先は彼女の希望通りアナウンサー部だった。


採用通知を受け取った時、明子は有頂天になって舞い上がりそうな自分を厳しく戒めた。

――アナウンサーになることがゴールではない。私はSBCの看板アナになるんだ。


それが彼女の次の目標だった。

そして再び自分を磨き高めるための、弛(たゆ)まぬ努力の日々が始まった。

しかし入社後3年が経過した時、彼女は人生でおそらく初めての、そして再び立ち上がることが出来ない程の大きな挫折を味わうことになった。


その当時の明子は、自分に主要番組のMCやキャスターの声が掛からないことに、かなりの焦りを覚えていた。

既に何人かの後輩アナウンサーが、メインではないにせよ主要番組のレギュラーを任されていたことが彼女の焦りに拍車をかけていた。


――自分のようにアナウンサーとしての能力が高く、容姿も人並み以上に優れている、言わば<選ばれし者>が、何故このように冷遇されなければならないのか?

明子には自分の置かれたそのような状況が、全く理解できなかった。


そんなある日、局の廊下を歩いている時に、彼女は僅かに開いた会議室のドアから漏れて来た会話を偶然耳にすることになった。

それは当時彼女が尊敬していた、喜多條というプロデューサーと先輩男性アナウンサーとの会話だった。

どうやら次回の番組改編時のキャスティングについて話して合っている様子だったので、明子は思わず立ち止まり、ドアに近づいて聞き耳を立てた。


先輩アナウンサーは喜多條が手掛けていた番組の一つである、夕方の報道番組のキャスターを長年務めていた。

所謂(いわゆる)<局の顔>の一人だった。二人は次回の番組スタッフ入れ替えについて話しているようだった。


「今度のサブですけど、津村なんかどうですか?」

男性アナウンサーが言うと、「何でそう思う?」と喜多條が返す。


「あいつ割と見栄えいいし、力もつけてきてるんで、そろそろメインでレギュラーやらせてみてもいい頃合いかなと思うんですよね」

先輩アナの言葉に明子は思わず手を握りしめたが、次の瞬間喜多條が発した言葉に凍りつくことになった。


「あいつは駄目だ。何かこう、人を惹きつけるものというか、花がないんだよ」

「でも他の若手より、数倍努力してますよ」


男性アナがフォローしたが、喜多條は即座に追い打ちをかけた。

「こういうのは持って生まれたもんなんだよ。努力でどうにかなるもんじゃない。お前だって分かるだろう?」

「それもそうですね」


喜多條に追随するアナウンサーの声は、もはや明子の耳を通過するだけの、只の音声信号でしかなかった。

努力だけでは克服できない――という喜多條の言葉が鋭利に研ぎ澄まされた剣先となって、彼女の強靭なプライドの鎧を突き抜け、心の急所に深く突き刺さっていたからだ。


これまでの自分の生き方や人生そのものまで、丸ごと否定する一言だった。

あれほど憧れ、全てを擲(なげう)って漸くたどり着いたはずのこの場所から、お前は不要だ――と、冷厳に宣告されてしまったのだった。


以来明子は、自分の居場所をずっと見失ったままでいる。

それは職場での物理的な空間とか、あるいは対人関係という意味合いの場所ではなく、心の置き所が見えなくなってしまったのだった。


――まるで波に翻弄されながら、当て所もなく海を漂う海月のようだ。

――あれ程嫌悪していた愚者達と、自分は何ら変わらない存在なのだ。

――いや、今の自分はそれ以下かも知れない。

明子はそれまでに経験したことのない、虚無感と徒労感の中に墜ちていった。


その時に気持ちを切り替えて違う道を選択していれば、あるいはそれまで培ってきた能力が生かされ、彼女の努力は報われていたかも知れない。

しかしその時以来、明子の心の視界には靄が掛かったような状態になり、次に進むべき道を模索することなど出来なくなってしまったのだった。


それから5年が過ぎた。

最近ではストレスで、夜毎の酒量が増えてきている。

明子は酔うと必ず自分を認めてくれない上司や、主要番組に抜擢された後輩社員の悪口を毒煙のように吐き出し続けていた。


――実力もないくせに、上に上手く取り入って今のポジションをゲットした。

特に後輩社員に対しては、そう決めつけて憚らなかった。

そんな明子の酒に付き合ってくれていた同僚たちが、徐々に彼女を敬遠するようになったのは当然の流れだったろう。


今では行きつけのバーで、馴染のバーテンダーを相手に管を巻くのが常になっていた。

そして翌朝不快な頭痛共に目覚め、体中の血管に水銀でも詰め込まれたような気怠さを覚え、自己嫌悪に陥る毎日なのである。


それでも明子は今の仕事にしがみついている。

このまま辞めてしまうと、自分があまりにも惨めになりそうな気がするからだ。


これまで散々見下してきた愚鈍な者たちから、憐みや侮蔑を受けることだけは、彼女には耐えられなかった。

そんな自分を想像しただけで、死にたくなる程の恐怖が込み上げて来るのだ。


だから明子は今、ひたすら現実から目を逸らして生きている。

今となっては何の意味も喜びも感じられない仕事を、砂を噛むような思いで、ただ黙々とこなしていくだけの虚しい日々を過ごしている。


かつてのように輝かしい目標に向かって突き進んで行く、颯爽とした津村明子の姿は最早そこにはなかった。

そして今日も二日酔いの不快感に包まれながら、昼のバラエティー番組の取材に向かっているのだ。


取材する場所によっては、今日のように社のヘリコプターに乗ることもある。

最初の頃は、その不安定な飛行体に乗るのがかなり怖かったのだが、今ではすっかり慣れてしまっていた。

慣れてきた自分に自己嫌悪を感じるくらいだ。

そんな時明子は、仕事と割り切るしかないじゃない――と自分に言い聞かせていた。

そうでも思わなければ、余計にみじめに感じられて仕方がなかったからだ。


その日明子たちの取材クルーが向かった先は、東京ディズニーリゾート付近から東京湾を5km程南に下った場所だった。

その付近の海上で、シャチの死骸らしきものが発見されたという情報が入ったからだ。


それは数週間前から東京湾内で頻繁に目撃されるようになった、雄のシャチのものらしかった。

<エド>というのがそのシャチの愛称だった。

誰かが江戸前の海から連想して付けた名前らしい。


最初それを聞いたとき明子は、短絡的だな――という感想を抱いただけだった。

しかしその愛称はテレビの力によって瞬く間に日本中に広がり、彼はたちまち国民の人気者になってしまったのだった。


エドと明子の付き合いは浅くない。

最初にエドが東京湾で目撃されたとき、真っ先にヘリコプターで駆け付け映像を流したのが、明子の所属する取材クルーだったからだ。


専門家の分析によると、エドは回遊中の群れからはぐれて東京湾に迷い込んだようだ。

湾内で船舶と接触して航行の妨げとなる恐れや、接触によってエド自身が傷を負う懸念もあったため、海上保安庁の巡視艇が何度か彼を湾外に誘導しようと試みたが、いずれも上手くいかなかった。


どうやらエドは東京湾がかなり気に入ったらしい。

人間のお節介な懸念などまったく気に留める風もなく、彼は悠々と湾内を回遊し始めた。

時には荒川をかなり上流まで溯ることさえあったのだ。


発見された当初は、テレビ各局が競って彼の動静を報道し、エド見学クルーズという便乗商法を始める、ちゃっかり者の釣り船業者まで現れた程だった。

彼が荒川を行き来する時には、河岸に見物人が鈴なりになったりもした。

他府県からわざわざ見物に来る物好きな連中も、かなりの数いたようだ。明子はその見物人の取材に駆り出されたこともあったのだ。


そのエドの死骸らしきものが、洋上を漂流しているというのだ。

その漂流物を発見した漁師から地元の漁協に連絡があり、たどりたどってSBCに連絡があったのが午前10時頃だった。

それから発見場所などの情報確認の後、明子を乗せた局のヘリコプターが飛び立ったのが今から15分ほど前だった。


幸い天気は良く風も穏やかだったので、明子たちを乗せたヘリコプターは順調に飛行して目撃情報のあった現場付近に到着した。

窓から見下ろすと、群青の海に無数の白い波の襞(ひだ)が彩を添えている。


明子は身に着けた安全ベルトがしっかり締まっていることを再確認すると、扉を開けるよう同行したディレクターを目で促した。

自分のその手際良さを嫌悪する感情が、一瞬彼女の胸を過(よ)ぎる。


しかしその感情を振り払うようにして、開いた扉から少し身を乗り出すと、眼下の海を確認する。

そろそろ番組が始まる時刻である。

早く見つけないと中継が間に合わなくなってしまうので、明子は内心少し焦っていた。


その時少し離れた海上に、白黒斑模様の、丸みを帯びた漂流物を発見した。

それは群青の海の色と、見事なコントラストをなしている。

パイロットもその漂流物に気づいたらしく、明子の指示を待つことなく、その地点に機首を向けた。


ヘリはすぐに漂流物の上に到着し、少し高度を落としてホバリングを始めた。

下の海面が、プロペラが起こす風にあおられて、沸き立つように細かく白い波しぶきをあげている。


その漂流物は間違いなくエドだと思われた。

何度も取材している明子には、見慣れた白黒の模様だったからだ。

波に身を任せるように漂っているその姿は、明らかに彼が死んでいることを示していた。


よく見るとエドの腹部は大きく抉れている。

そこからはみ出した内臓の残骸らしきものが、彼の死骸にぶら下がるようにして一緒に海を漂っている。


二日酔いの明子は、その様子を見て思わず吐き気を催したが、ちょうどその時に、ディレクターが中継開始の合図を出したので必死で堪える。

――そんな無様な姿を、全国放送で晒してたまるか!

女子アナ津村明子の壮絶な意地だった。


「東京湾の津村さん、聞こえますか?」

ヘッドフォンから、番組司会者の波佐間(はざま)の声が響いてきた。


元は漫談芸人だったが、最近では俳優や司会もこなすマルチタレントとして、お茶の間の人気がある男だ。

彼の声は不必要に大きいので、今日のような二日酔いの日には、その声が頭にガンガン響いて明子は一瞬閉口する。


しかし明子はすぐに気を取り直すと、

「はい、波佐間さん。聞こえますよ」

と、スタジオのMCに応じた。


「東京湾の人気者、シャチのエドが亡くなっているという情報が入り、現場に急行してもらっているのですが。津村さん、現場の様子はどうでしょう?」

――シャチをつかまえて、亡くなっているもないもんだ。これだから教養のない奴は。

内心そう毒づきながらも、明子はヘリコプターの爆音に消されないよう大声で現場レポートを始めた。


「はい、現在私は東京ディズニーリゾートから数Km南に下った海上に来ていますが、エドらしい姿が認められます。先ほど近づいた様子では、腹部にかなり激しい損傷がありました。残念ながらエドは、最早生きていないものと思われます」


そこで一旦明子がマイクを切ると、カメラがエドの死骸にズームインする。

ベテランカメラマンの木崎は、腹部の損傷部位があまり映らないよう気配りも忘れない。

何しろ今はお昼時だ。


「本日東京湾内で操業していた千葉県の漁船が、エドらしき漂流物を発見して、すぐに漁協に無線連絡を入れたそうです。その時点で既にエドは、今のように海上を漂っていたようです」


「津村さん、エドが亡くなった原因は何なんでしょうか?」

番組アシスタントの三浦彩香が話に割り込んできた。

明子が夜な夜な罵っている後輩アナウンサーの一人だ。

――この間抜けが。そんなこと、今現場に着いたばかりの私に解る訳がないだろうが。ちょっとは頭使えよ、馬鹿。


明子は心の中で彩香に向かって猛毒を吐いたが、表面上は差しさわりのない答えを返す。

「現在原因は解っていませんが、これから海上保安庁がエドを回収し、原因を調べると思われます」


「船のスクリューに巻き込まれた可能性もありますね。そうすると海上保安庁の懸念が、残念ながら的中してしまったわけだ」

波佐間が独り言のようにつぶやいた後、スタジオで出演者がやり取りする声がヘッドフォン越しに聞こえてきた。


「岸川さんどう思われますか?」

「人気者だったのに、残念ですね」

波佐間の振りに、レギュラーゲストの弁護士が、つまらないコメントを返している。


――岸川、お前なあ。中学生でも、もう少し気の利いたコメントを返すぞ。

明子は心中で彼にも毒を吐いた。

日頃からその言動に見え隠れする、妙なエリート意識が鼻についていたからだ。


「津村さん、ご苦労様でした」

その時突然、波佐間が中継終了を告げてきた。

先日発覚した、大物芸能人のゴシップに関する話題が後ろに控えているせいか、極端に短い尺のレポートにまとめられたようだ。

もはやエドの人気も旬を過ぎてしまったらしい。


明子は少しむっとしたが、

「東京湾から、津村明子がお送りしました」

と、お決まりの台詞で中継を締めくくる。


二日酔いで体調が思わしくなかったので、短く済んで正直ほっとしたのも事実だった。

ディレクターがヘリコプターの扉を閉めると、明子はヘッドフォンを外し、遠ざかっていくエドの死骸を窓越しに見つめる。


その時、物凄く嫌な気分が込み上げてくるのを、明子は感じた。

二日酔いのせいではなかった。

エドが何か禍々しいものに襲われたのではないかという、根拠のない想像が心に浮かんで来たからだ。


――そんなはずないわよね。

そう思い直すと、遠ざかっていくエドから視線を外して、明子は小さく身震いした。

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