【03】

「暑いな、しかし」

蘆田光(あしだひかる)はその日何度目かの台詞を口にした。


7月に入ったばかりだというのに、既に夏の盛りのような猛暑が連日続いている。

最近は四季の間の勢力バランスが崩れて、夏だけが思い切り幅を利かせているようだ。


その暑さに加えて光はその日、朝から久しぶりに例の感覚に襲われていた。

目覚めた時から胸を締め付けられるような感覚があり、両方のこめかみに強い痛みを感じたのだ。

その痛みのせいで目が覚めたと言った方が、正確かも知れない。


そして鈍い痛みが、夕刻の今になっても断続的に続いている。

結局その日は、一日中気分が滅入ったままだった。


当然のことながら、彼女の機嫌は朝からずっと悪い。

そしてこんな日には、これまでの人生で何度も経験してきた、余り嬉しくない記憶が蘇ってくるのだ。


光は子供の頃から、感の鋭い子だった。

それも尋常ではない鋭さだ。

超能力だという友人もいた。


しかし実際に未来の出来事を予知できる訳ではなく、何かが起きる予兆を感じるというような、漠然とした予感という方が正確だった。

そしてその予感は、自分や自分に近しい者に起きる、良くない出来事の前触れであることが多かった。


何か身の回りに良くない出来事が起こる前には、胸が締め付けられるような感覚に襲われるのだ。

いつしかそれは、こめかみの痛みを伴うようになっていた。


それは朝起きた時から始まることもあったし、日中突然起きることもあった。

5歳の時に自転車で転んで、腕を骨折したこともあった。

仲の良かった友達が、目の前で溺れかけたこともあった。

体育倉庫に積んであった機材が、突然崩れ落ちて来たこともあった。


いつの頃からかその因果関係に気づいた光は、予兆があった日には慎重に行動するようになり、実害を避けることが出来るようになったのだった。

彼女が自分のこの能力の凄さを思い知ったのは、小学校5年生の時だった。


その朝の胸騒ぎと痛みは、それまでに経験したことがない程ひどかった。

余りの痛さに光は学校を休もうかとも思ったし、母も休んでよいと言ってくれた。


しかしその日のうちに、どうしても友達に返さなければならない物があったのを思い出した光は、痛みに耐えつつ、いつもより少し遅れて家を出た。

その結果、朝の集団登校の集合時刻に遅れることになったのだ。


そのことは彼女自身には幸いした。

光が集合場所に着くと、時間が来て既に出発していた登校班の列が、20m程先を学校に向かって進んでいるのが見えた。

誰かが集合時間に遅れた場合は待たずに出発するというのが、学校で決められた登校班のルールだったからだ。


班に追いつこうとして光が走り出そうとした時、右後方から来た1台の乗用車が猛スピードで彼女を追い越して行った。

そしてその車はスピードを緩めることなく、前を行く登校班の列に突っ込んだのだ。

わずか数秒間の出来事だったが、光は長い長いスローモーション映像を見るような感覚で、その一部始終を目撃していた。


車が衝突した際の轟音と、やがて立ち昇った黒煙。

血を流しながら泣き叫んでいる、低学年の子供たち。

集まってきた大人たちの発する怒号や喧騒。

遅れて漂ってきたガソリン臭。

それら非日常的な音や臭いや映像が、その場に呆然と立ち尽くす光の意識の中を猛然と通り過ぎて行った。


悲惨な事故だった。

暴走車は登校班の前列に突っ込み、光の同級生を含む5人の生徒が事故に巻き込まれた。

事故に遭った5年生と6年生の男子2人が亡くなり、3人が重傷を負って暫くの間入院することになってしまったのだ。


高学年の生徒が前列を歩くのが登校班のルールだったので、普段であれば5年生の光もその中にいるはずだった。

そう思うと、恐怖や安堵、その他の様々な感情が心の中で複雑に入り混り、光はパニックに陥ってしまった。


後から母に聞いた話では、その場にしゃがみ込んで意味不明の言葉を呟き続けていたらしい。

「光ちゃん。大丈夫?」と、彼女の両肩を揺すりながらそう言った母の言葉が、彼女を現実世界に呼び戻したのだった。


暴走車を運転していたのは40代の男性会社員で、過労による居眠り運転が原因だったようだ。

テレビや新聞の報道によると、その会社員は事故を起こすまでの数か月間、普通では考えられないような時間外労働を続けていたらしい。


事故を起こした男性自身も長期入院が必要な重傷を負っていたが、だからと言って事故の責任を免れることができる訳ではなく、加害者は毎日のようにテレビのニュースで糾弾されていた。


それにも増して、その会社員が勤めていた会社は世間の非難の的になった。

連日のようにその非人道的とも言える労働環境がマスコミに取り上げられた。

そしてその報道に煽られた、正義感に燃える世間によって袋叩きに遭う羽目になったのだ。


謝罪会見の場に出て来たその会社の社長は、ひたすら被害者に対する詫びの言葉を繰り返すだけだった。

その社長も数日後に自死してしまい、事故は関係者に耐えがたい痛みだけを残して、やがて世間から忘れられていった。


それは後から少しずつ、光の耳に入って来た情報だった。

事故直後の数日間、光は外部からの全てのコンタクトを遮断して自宅に引き籠っていたからだ。


離れた場所から事故の一部始終を目撃し、彼女が受けた衝撃の方が、現場にいた当事者たちよりも、ある意味で大きかったのかも知れない。

事故は徐々に世間の関心を失っていったが、その余波は光の心の中でずっとわだかまってた。


ようやく事故のショックから立ち直り、久しぶりに登校した光は、どういう訳か周囲の態度が自分に対して余所余所しいことに気づいた。

やがてその理由を知った光は、その理不尽さに愕然としてしまった。

光が学校を休んでいる間に、謂れのない彼女への中傷が生徒たちの間を駆け巡っていたからだ。


光が集合時間に遅れたせいで登校班の出発が少し遅れ、その結果事故に巻き込まれてしまったというのが、中傷の中身だった。

それが学校中に静かに蔓延していたのだ。

その中傷の出所は、どうやら事故の当事者とは全く無関係な子の親だったらしい。


――自分一人だけ助かって、光ちゃんは運が良かった。

――誰それ君は、光ちゃんの身代りになったようなものだ。

誰かの親が自分の子供の前で発した不用意で無責任な言葉が、巡り巡って彼女を突き刺すことになったのだ。


しかしその大人は自分が言ったことなど、あっという間に忘れてしまったことだろう。

その無自覚な悪意は、子供たちの中で拡散して行くうちに新たな悪意を含んで膨張し、やがて光への敵意へと変化して行った。

さらに彼女を嫌っていた一部の子たちが、ここぞとばかりに周囲を煽っていたことも後で分かった。


突然自分に向けられた身に覚えのない敵意に、光は当惑してしまった。

特に彼女がショックを受けたのは、それまで仲の良かった子たちまでが、彼女を攻撃する側に付いてしまったことだった。


光を庇うことで、自分が攻撃対象になりたくないという気持ちは分からなくもない。だからといってそれは許せることではなかった。

――いくら何でも、それはないんじゃないの?


小学5年生の少女にとって、それは心が折れてしまいそうになるような経験だった。

だがしかし彼女は、落ち込んだままではいなかった。

そんな理不尽ないじめに負けることが、堪らなく悔しかったのだ。


――負けてやるもんか!

元々相当以上に気が強く、しっかりとした意思表示が出来る子だった。

男子にも引けを取らない体格で、運動神経も抜群だった。

光は自分に向けられたバッシングに対して、毅然とした態度で受けて立ったのだ。


陰口をたたく子には、

「言いたいことがあれば面と向かって言えよ。ちゃんと聞いてやるから」

と言い放った。


例え相手が何人いても物怖じすることはなかった。

また周囲が光を無視しても、一切構わず昂然と胸を張り続けた。


それは小学5年生の少女にとっては、この上なく辛い日常だった。

それでも彼女は負けなかった。

親にも教師にも頼らず、一人で戦い続けたのだ。


光にとって幸いだったのは、それ程時間を置かずに彼女の担任教師が、彼女を取り巻く状況がおかしいことに気づいたことだった。

その教師は事情を調べて把握すると、他の教師を巻き込んで素早い対応を取ってくれた。


それが奏功し、やがて光への謂れのないバッシングは終息していった。

しかしその時すでに、光の心は深く傷ついていた。


それは当然のことだったろう。

騒ぎが収まるまでの間に投げつけられた悪意の一つ一つが、事故で最も傷ついた当事者の一人である彼女の心に、深く突き刺さっていたからだ。


その心の痛みは、やがて怒りへと変換されて行った。

それは自分に悪意を向けた個人への怒りではなく、そういうことを行う人間の心への怒りだったのかも知れない。


光にはそのような悪意を抱く心の動きが理解できなかったし、子供ながらもその理不尽さに激しい怒りを覚えたのだ。

それが後に、「武闘派幼稚園教諭」と呼ばれることになった、強者蘆田光(あしだひかる)の誕生だったのだ。


今でも彼女は、その時に感じた怒りを忘れていない。

光を中傷した子たちの中には、彼女に直接謝った子もいた。

光はその子たちを許したし、以後も普通に接した。

他の子たちに対しても、態度を変えることはしなかった。


そうして光の日常は元に戻ったが、彼女の内面は大きく変化し成長していた。

自分を襲った理不尽な攻撃に抗いながら、光は様々なことを学んでいたからだ。


自分が今いる場所が、いつまでもそこにあるとは限らないということ。

大勢の中に居ても、突然一人になってしまう時があること。


光はその時、今よりもずっとずっと強くなりたいと思った。

それは誰かと戦うためではなく、孤独に負けないためだった。決して一人になることを恐れない、強い心を持ちたいと思った。


それは10歳の少女にとって、悲壮な決意と言えた。

その時から光は、それまで習っていた剣道の稽古に、更に熱心に打ち込んでいった。

今では15年以上のキャリアがあり、四段の腕前である。


それに加えて中高6年間は柔道部にも所属していたので、周りからは武道好きの少し変わった子に見られていたようだ。

その方が光にとっては気が楽だった。


***

小学校を卒業した光は両親の勧めもあって、自宅から少し離れた地域にある私立の中高一貫校に進学した。

今思えばそれは、小学校の同級生たちに対する彼女のわだかまりを知っていた両親の配慮だったのだろう。


光は中学に入学した頃から身長がグングンと伸び始め、高校進学時には170cm近くに達していた。

女子としては長身だったが、剣道や柔道をする上ではその方が有利だったので、光はむしろそのことを喜んでいた。

そして彼女の中で、激しいながらも大らかな性格がはっきりと芽生え始めたのは、その頃だったのかも知れない。


高校生になった光は、周囲が見違えるほど大人びた容貌に成長していた。

色白の顔はやや面長で鼻筋はすっきり通っている。

少し吊り気味だが切れ長の目は大きく、顔全体の中でのバランスもよい。

瞼はくっきり二重である。

髪は今と同様、肩より少し下まで伸ばしたストレートのロングだ。

面倒なのでヘアダイはこれまで一度もしたことがない。

上背があり、かつ長年剣道で鍛えてきたので、スタイルはかなり良い方だ。

つまり光は、かなりルックスの良い女子として成長していたのだ。


しかしそれはあくまでも周囲からの評価で、彼女自身は自分の顔など見慣れてしまっていて、別に何とも思わない。

むしろ休日前に徹夜でゲームをした朝の、疲れ切って浮腫んだ寝起きの顔など、とても他人に見せられたものではないと彼女自身は思っている。


そう思ってはいたのだが、それでも光は結構もてた。

しかもどういう訳か、異性より同性の方に人気があったのだ。


学校が中高一貫の女子校だったので、男子との接点が多くないのは当然だったのだが、それでも学校の行き帰りに声をかけてくる他校の男子生徒が定期的に現れたものだった。

もっとも、それら有象無象は悉く無視してやり過ごしたのだが。


それよりも光が閉口したのは、女子高内での人気が半端ではなかったことだ。

高校3年の時には、下級生の一部が知らぬ間に親衛隊とやらを結成し、その代表と名乗る子が結成の報告に現れたこともあった。

以来高校を卒業するまでの約1年間は、彼女の都合は一切お構いなしで纏わり付いて来る、その親衛隊連中を振り切るための苦闘の日々だった。


同級生の中にはそんな彼女の苦境を、やっかみ半分で冷笑して見ている子たちもいたようだ。

しかし光は、そういう連中は無視して放っておくのが一番効果的であることを、それまでの経験から熟知していた。


――ネチネチと鬱陶しい奴らだわ。

時折うんざりした気持ちと共に思うこともあったのだが、それ以上にそんな連中と関わるのが面倒だったので、とにかく卒業するまでの我慢だと割り切って日々を過ごしていた。

そんなこともあってか、結局高校を卒業するまでの間、光は本当に気を許せる友達に出会うことはなかった。


そして高校卒業後、光は都内の女子短大に進学した。

勉強が得意とは決して言えなかったので、我乍ら妥当な進路選択だったと今でも思っている。

そこで知り合ったのが篠崎渚(しのざきなぎさ)だった。


短大に入学して二週間ほど過ぎたある日、光はたまたま講義の空き時間に一人でキャンパス内をぶらついていた。

光は短大に入ってからも、例によって積極的に友人を作らなかった。

そのこと自体は特段苦にならなかったし、流れに任せていれば、そのうち1人くらいは出来るだろう――くらいの、お気楽な気持ちだったのだ。


そんな光が構内の売店でおやつを物色していた時、

「あんた英文科の新入生だよね」

と、声をかけてきたのが篠崎渚だった。


光はまだ同級生の顔や名前をほとんど知らなかったが、自分と同じくらい長身の渚のことは何となく憶えていた。

しかしそれまでに接点があったわけでもなかったので、急に声をかけられて少し驚くと同時に警戒モードに入った。


「そうだけど。何か用?」

光は思わず身構えて、突慳貪にそう答える。


するとそれまで無表情だった渚が、急にニヤッと笑った。

「まあ、そうとんがらずに。あんたと試しに友達になってみようかと思ってね。取りあえずあっち行って茶でも飲もうか。もちろん割り勘だけどね」


そう一方的に言ったかと思うと、渚はさっさと売店と隣接したカフェテラスの方に歩き出す。

そして途中で振り返り、事態を把握できずに突っ立っている光を手招きした。

それが彼女との腐れ縁の始まりだった。


その時聞いた話では、渚は入学以来、光をそれとなく観察していたらしい。

それというのも、彼女は極端に人付き合いが苦手というか、途轍もなく面倒に感じる性質で、できるだけ周囲と親密になりたくなかったようだ。


それでも、取り敢えず一人くらいは学内の友人を作っておかないと、この先何かと不便だろう――と考え、候補者を物色していたらしいのだ。

そんな渚のお眼鏡にかなったのが光だった。


自分の何がどう気に入ったのか光が問い詰めると、

「あんた、距離感良さそうだから」

と、渚はぼそりと答える。


「何の距離感だよ?」

さらに光が問い詰めると、「面倒くせえなあ」と言いながら、

「あんたの距離感って、相手を傷つけないための距離感じゃん。普通の奴は、自分が傷つけられたくないから周りと距離取ってんの。でもって、自分の警戒領域内に入って来られると、びびって逃げるか、逆切れして攻撃してくるかの、どっちかなんだよね。つまりヘタレってこと。そういう奴って結構面倒くさいのよ、経験上。その点あんたは逆だから。こっちが下手に近寄らない限り、お互い適当な距離を保てるってことで合格ね」

と意外な程多弁で述べると、勝手に光を友達合格にしてしまった。


結局は、あなたと一緒にいても面倒くさくなさそうだから、友達になりましょう――ということらしかった。

渚の返事を聞いた光は一瞬唖然としたが、すぐに吹き出すと最後は爆笑してしまった。


――こんな身勝手な奴って、今まで会ったことないけど、結構面白そうじゃん。

そう思った光の負けであった。

以来8年以上も付き合いが続いていて、今ではシェアハウスをしている仲なのである。

結局はお互い、結構馬が合っているのだろうと今では思っている。


実際光も人間関係構築が得意という訳ではなく、どちらかというと女子同士にありがちな、ベタベタした付き合いが苦手だった。

その点渚との、付かず離れず互いにあまり干渉せずという関係は、光にとってそれなりに心地よいのだ。


***

そうして光の学生生活が落ち着き始めた頃に、その事件は起こった。

その頃になると、同級生の中で渚以外に話す子も増えてきていたが、その中の1人が合コンの話を持ってきたのだ。


光は全く興味もなかったし気も進まなかったので、最初はその誘いを断ろうと思った。

しかしその時微かな頭痛と共に、久しぶりに例の感覚が蘇ったのだ。


――何かやばいことが起こりそうな気がするな。

そう思うと放ってもおけず、どうする?――と隣の渚を見た。

すると渚は案の定、

「あたしゃバイトがあるからパスね」

と、取り付く島もない。

結局光は幹事の子に泣きつかれ、しぶしぶながら付き合う羽目になったのだった。


合コン当日、新宿西口で待ち合わせた光たちは、幹事の子に先導されて、相手側が指定した店に向かった。

そこは表通りからはかなり路地の奥に入った、8階建ての雑居ビルだった。


ビルの前には待ち合わせていた男が立っていたが、見るからにチャラそうな馬鹿丸出しの奴だった。

――これはいよいよ怪しいよな。

そう思った光は、心の中で警戒レベルを上げる。


左手には使い慣れた護身用の木刀を、専用の袋に入れてぶら提げていた。

同級生たちがそれを訝しんだが、適当に誤魔化しておいた。


光たちが男に案内されて階下に降りると、そこは見るからに胡散臭い雰囲気の店だった。

室内の照明は妙にけばけばしく、向かって左サイドに置かれた長テーブルをはさんで、あまり趣味が良いとは言えないソファが並んでいる。

テーブルの上には、缶ビールと灰皿が置かれていた。


男たちはすでに飲んでいたらしい。

先に来ていた男のうち、一人は壁際のカウンターにもたれるように立っており、二人がソファに腰かけていた。

三人揃って光たちを値踏みするような、不躾(ぶしつけ)な視線を向けて来る。

――わかりやすい奴らだわ、まったく。

光はいち早く状況を察する。


「何これ?全然合コンする雰囲気じゃないじゃん」

先頭で室内に入った、幹事の香菜という子が不満そうに言った時、突然後ろでドアが閉まる音がした。

驚いて振り向くと、ドアを挟んで両側に男が立っている。

どちらも頭の悪そうな顔に、にやけ笑いが張り付いている。

その時部屋の奥にあるドアが開き、また別の二人が部屋に入って来た。

――都合8人か。

光は男たちの人数を数えながら、室内に2歩移動した。


「ちょっとお、これどういうこと?」

香菜が、案内して来た滝沢という男の二の腕を掴んでそう文句を言うと、滝沢は逆に彼女の手首をつかんでねじ上げた。


そしてその顔に触れるくらい自分の顔を近づけると、薄ら笑いを消して言った。

「うるせえな。これから皆で楽しむんだよ」

そう言いながら、香菜を部屋の奥に引っ張り込む。

すかさず入口の二人が、ドアを背中で塞いで立ちはだかった。

そして滝沢と入れ替わるようにして、三人が部屋の中央に出て来る。


その時になって、ようやく状況を察した女子たちは、竦み上がって声も出せないでいた。そんな中で光は冷静に位置取りを変えつつ、手にした袋から木刀を抜き放った。それを見た男たちが、揃って怪訝な表情を浮かべる。

何が起こっているのか、咄嗟に判断出来ていないようだ。

それはそうだろう。

合コンに木刀持参で現れる女子など、想定外にも程がある。


しかし光は、男たちのその隙を見逃さなかった。

フロア中央に立っていた三人の鳩尾(みぞおち)に、電光石火の突きを入れる。

そしてすかさずテーブルに飛び乗ると、ソファに座っていた二人の頭に、中段からの面を立て続けに叩き込んだ。


その間20秒と経っていない。得物が木刀だったので、勿論光は手加減していたのだが、5人は自分に何が起こったのか理解する間もなく悶絶していた。

光はテーブルからフロアに飛び降り、肩に木刀を担ぐようにして仁王立ちになると、部屋の奥に立っている滝沢を睨みつけた。


滝沢はその時になってようやく我に返ったのか、慌ててジャケットの右ポケットから小型のナイフを取り出すと、光に向けてそれを構えた。

しかしその手は小刻みに震えている。


光が入口の二人にちらっと眼をくれると、まだ何が起こったのか頭の中で整理できていないらしく、口を半開きにして棒立ちになっていた。

――どいつもこいつも、ヘタレのボンボンって訳か。

光は心の中でそう毒づいた。


「てめえ、何やってんだよ」

滝沢が震える声で喚く。びびってパニックを起こしているらしい。


――見ればわかるだろうが。

そう思いながら光は、振り向きざまに素早く数歩摺り足を進めると、ナイフを持った滝沢の右手首に木刀を振り下ろし小手を取った。

返す刀で横面を打つ。


手首と頬骨が砕ける感触が伝わって来た。

相手はヘタレだったので手加減しても良かったのだが、先ほどの滝沢のにやけ面が無性に癇に障ったのだから仕方がない。


光が振り向いて入口の二人に木刀を向けると、慌てた男たちは互いを押しのけるようにしながら階段を駆け上がり、逃げていった。

部屋中でもがき苦しんでいる仲間はあっさりと見捨てたらしい。


――ま、自分が一番大事だからね。

二人の無様な逃げっぷりを見た光は、心中でせせら笑う。

木刀を袋に収めた光は、失神した滝沢の横で床にへたり込んだままの香菜に近づくと、手を貸して立ち上がらせた。

香菜は何とか自分で歩けそうだった。


安心した光は、床に転がった一人を邪魔だと言わんばかりに横に蹴飛ばす。

男はうめき声をあげたが、急所に喰らった突きがまだ効いていて、背中を丸めたまま立つことも出来ないようだ。

ゴミでも見るような一瞥をそいつにくれると、光はまだ呆然としている残り三人の同級生に向かって、「帰るよ」と声をかけた。


先頭に立った光の背中に、全員がくっ付くようにして階段を急ぎ足で上って行く。

通りに出ると、一人がほっと大きなため息をつくのが聞こえた。

ようやく助かったと実感したようだ。


「警察に言わなくていいかな?」

一人の子が、おそるおそる光に切り出した。

「色々聞かれると面倒だからいいんじゃないの。結果的にこっちに被害はなかった訳だし。あの阿呆どもも、まさか8人掛かりで女子を襲おうとして反対にやられましたなんて、恥ずかしくて言えないだろうしね」

光がそう返すと、全員が顔を見合わせ、そうね――と頷き合う。


「それよりあんた達。これに懲りたら、もう阿呆どもの誘いに乗っちゃだめよ」

笑いながらそう言った光は、「行くよ」と右手で合図し、すたすたと駅に向かって歩き出した。

全員が慌てて後を追って来たのを感じた光は、カルガモの親子かよ?――と心の中でツッコミを入れ、苦笑するのだった。


週明けに学校に行くと、渚がすかさずやって来て隣の席に座った。そして、

「先週暴れたそうじゃん」

と光の顔を覗き込み、何だか嬉しそうに囁く。


「耳の速いこと」

光が返すと、

「でもあんた、暴力女のレッテルを貼られつつあるよ」

と、渚は意外なことを言った。


「何でよ?」

光が訊き返すと、

「何言ってんの。木刀振り回して男8人ぶちのめしたら、そう思われて当然じゃん。て言うか、そう思わない方がおかしい」

と決めつけ、ケラケラ笑う。


――まったくこいつは、他人事だと思いやがって。

光はそう思ったが、大して腹も立たなかった。

篠崎渚とはそういう奴だと、既に割り切っていたからだ。

それに他人から勝手に貼られるレッテルにも、もはや慣れている。


しかし次に渚の口から出た言葉を聞いて、光は絶句した。

「ついでに言っとくと、一緒に行った子の中で、あんたのファンクラブを作ろうという動きがあるらしい」

――ゲッ、それはヤバい。

光は高校時代の悪夢を思い出し、顔を引き攣らせた。


「あんたが珍しく合コンなんて行くから、妙だなとは思ったんだよね。そういうことなら次からはあたしも付き合うわ。まあ、二度とお誘い掛からんかも知れんけど。しかし、あんたといると退屈せんね。波乱の女子大生活が送れそうだわ」

渚はそう言うと、またも嬉しそうにケラケラと笑った。


――そう言えばこいつ、フルコンタクト系空手三段だったな。次は絶対巻き込んでやる。

そう決心した光は、屈託なく笑う渚を横目で睨んだ。

しかし渚の期待に反して、その後は光の周囲で大した事件は起こらず、平穏な学生生活の日々が過ぎて行った。


あれ以来光は、渚以外の同級生と一定の距離を置いた付き合いに徹したので、渚の予想通り二度と合コンのお誘いは掛からなかったし、ファンクラブ結成の話も有耶無耶のうちに自然消滅したようだった。

それはそれで、光にとっては気が楽だったのだが。


教職課程をとっていた光は2回生になって就職活動のシーズンを迎えた時に、学校の就職課の案内を見て江東区にあるF幼稚園に応募した。

後から知ったのだが、当時F幼稚園には光の通う短大の学生を含めて、他にも結構な人数が応募していたようだった。


学業成績が月並みだった光は、自分には結構ハードルが高いなと思いつつ、ダメもとで面接に臨んだのだった。

ところがいざ蓋を開けてみると、何故だか他の応募者を抑えて合格してしまった。

合格通知をもらった時、光は嬉しいというより、むしろ面食らったような気持になったものだ。


就職後に聞いた話では、面接の際の園長の受けがかなりよかったらしい。

どうやら園長の強い押しで採用されたようだった。

何がそんなに気に入られたのか、光は今でも釈然としない。


ただ、面接で自分のアピールポイントを聞かれた時に、

「体力だけは、そんじょそこいらの男子にも絶対に引けを取らない自信があります」

と、即座にきっぱりと言い切ったら、面接者席の真ん中に座っていた園長がバカ受けして大笑いしていたのを憶えている。

それが唯一思い当たる採用理由だった。


もちろんそれだけではないと信じたいのだが、残念ながら他の理由は思い浮かばない。

毎日元気いっぱいの園児たちを相手にしなければならないのだから、体力があるに越したことはない。

そういう点で自分は打ってつけの人材だったのだろう。

光はそう思うことにした。


こうして<武闘派幼稚園教諭>蘆田光が誕生したのだった。

<武闘派>の肩書は、F幼稚園合格を知った時の渚の命名である。

よく考えると幼稚園児相手に武闘派もないとは思うのだが、彼女は何となくその肩書が気に入っている。

そして光の幼稚園教師人生は、この春6年目に突入していた。


***

その日の業務を終えた光が職員室の奥に置かれた時代物の大きな置時計を見ると、時刻は午後6時30分を回っていた。

朝からの頭痛は微妙な強さでまだ残っている。

胸騒ぎも収まっていなかった。


光は席に座ったまま一つ伸びをすると、書き終えたばかりの書類を片付け、帰り支度を始めた。

園児たちを送り出した後も、教室の掃除やその日の日誌のまとめなど、幼稚園の先生にはその日のうちに済ましておかなければならない業務が結構ある。


今日は違ったが、送迎バス当番の日には園に戻るのが大抵は午後5時を過ぎるので、それからその日の残務処理を始めると、終業時刻が8時を超えることもざらだった。

結構なハードワークである。


その日のノルマをクリアし、てきぱきと帰り支度を終えた光は、席に座ったまま椅子を回して振り返ると、

「まだ帰らんの?」

と、背中合わせの席にいる灰野優子(すみのゆうこ)に声をかけた。


ここ数日、彼女は何かひどく思い悩んでいるようだったからだ。

ずっとその様子が気になってはいたのだが、今まで何となく話を聞きそびれていたのだ。


――もしかしたら、他人に知られたくないような事情なのかも知れないしな。

光はそう思ったし、万が一その事情が、自分の最も苦手とする恋愛関係の悩みだったらどうしようと考え、腰が引けていたのも事実である。


そんなヘタレな自分に段々と腹が立ってきた彼女は、その日意を決して優子に声をかけたのだった。

朝から続く頭痛で少し気が立っていたことが決心を後押ししたのも、光らしいと言えた。


つまりは優子の様子が気になる癖に、うじうじと躊躇している自分に切れたということだ。

この辺りが彼女の<武闘派>たる所以(ゆえん)だろう。


光の声に振り向くと、灰野優子は何故か憂鬱そうな顔で光を見上げた。

彼女は今年短大を卒業して幼稚園教諭になり立ての新人で、園の教員の中では一番年が近いせいもあってか、何かと光を頼って来る。


性格は明るく素直だったので、光は結構この後輩が気に入っていた。

そんな明るい子なのに、いつもの元気がない。以前なら光が声をかけると、

「先輩晩御飯行きません?」

と軽い乗りの反応が返ってきたのだが、今日はそれもない。

じっと光を見て黙っているだけだ。


光はそんな彼女の様子に我慢しきれず、

「どうした?最近元気ないじゃん。何か困ったことでもあるなら話聞くよ」

と言いながら、優子の顔を覗き込む。


すると優子の目にみるみる涙が溜まり泣きべそをかき始めたので、光は慌てて周囲を見回す。

幸い何人か残っていた先生たちは仕事に集中していて、こちらの様子に気づいていないようだ。


「ちょっと止めてよ。まるで私があんたのこと泣かしたみたいじゃん」

そう小声で言うと、光は優子の後頭部に手をやって、強引に顔の向きを変えさせた。

そちらを向くと職員室の壁なので、他の教員に優子の泣き顔を見られることはない。


「一体どうしたのよ?急に泣き出して」

「光先輩、私怖いんです」

「どうした?何があった?」

「話聞いてくれます?」

「おお、もちろん」


灰野優子(すみのゆうこ)の話はこうだった。

彼女は南砂町から地下鉄東西線を使って、F幼稚園の最寄り駅である木場まで通勤している。

南砂町の駅から自宅までの距離は、歩いて20分程だそうだ。


それが起こったのは、先週月曜日の帰宅途中のことだったようだ。

優子が地下鉄を降りたのは午後7時30分を少し回っており、真夏とは言え、辺りもそろそろ暗くなる時間帯だった。


優子は帰宅時にはいつも駅を出て荒川方面に5分程歩き、工場と大手運送会社の物流センターに挟まれた道に入るルートを取っていた。

その道は夜になると人通りが極端に少なくなるのだが、生まれ育った町という気楽さもあり、それまであまり気にしたことはなかったらしい。


同居する両親は、

「もう少し荒川の方に歩いて、大きめの通りを使って帰ってきなさい」

と常々口うるさく言うのだが、それだと10分以上の遠回りになってしまう。

真夏の蒸し暑い夜のプラス10分は、仕事に疲れた体には結構きついのだ。


その日も優子は、いつものように流通センター沿いの舗道を早足で歩いていた。

そこを抜けると商店やコンビニがあり、比較的人通りも増えてくる。

しかし彼女の前を歩いている人影はなく、工場と物流センターを挟む車道にも車の往来はなかった。


前を歩く人はいなかったのだが、何気なく振り返ると20mほど後方を人が歩いているのが見えたので、裕子は一瞬どきりとした。

慣れた道とは言え、やはり夜の一人歩きは少し怖い。

まして後を歩く人影には、どうしても警戒心を抱いてしまう。


しかし目を凝らしてよく見ると、シルエットから女性らしいと判断できた。

裕子は胸を撫で下ろすと、前を向き直り家に向かって歩き出した。


その時、「ザザッ」という大きな音が後方から響いてきた。

それは大量の水が、勢いよく噴き出す時の音のようだった。


驚いた彼女はその場に立ち止まると束の間躊躇したが、恐る恐る来た道を振り返る。しかし後の舗道は静まり返っていた。

車道にも車は走ってない。

そして自分の後を歩いていたはずの女性の姿が、どこにも見当たらなかった。


優子は静まり返った周囲の状況に一瞬呆然とした。

そして少し冷静になって状況を理解すると、急に怖くなって立ち竦んでしまった。

どう考えても後を歩いていた女性が、忽然と姿を消してしまったとしか思えなかったからだった。


――まさか幽霊?

咄嗟に優子はそう思った。

工場と流通センターの間の通り沿いには、住宅や商店などは一切ない。

両方とも、長いコンクリート製の塀が続いているだけだ。

そしてその塀沿いには建物への出入口はなかったはずだし、途中に脇道もないのだ。


今歩いている舗道は流通センターの壁に沿ってずっと生垣が続いているが、塀と生垣の間に身を隠す程の隙間もないはずだった。

優子は車道を挟んだ反対側の歩道にも目を凝らしたが、やはりそれらしい人影は見当たらなかった。

そちらはずっと塀が続いていて、それを乗り越えでもしない限り、やはり身を隠すような場所はない。

もちろん道の両側の塀は共にかなりの高さがあり、簡単に乗り越えられるものではなかった。

やはり先程の女性は、舗道上から忽然と姿を消したとしか思えない。


――さっきの水が噴き出す音は何だったんだろう?何か事故でも起きたのかしら?戻って確かめようか。

そう思いながら優子は迷ったが、すぐに思い直した。

辺りには彼女以外に人影はなく、静寂が満ちているだけだったからだ。

引き返してもし何かあったとしても、助けを求めることすら出来ない。


急激に恐怖が膨らんできて、優子はその場から逃げ去るようにして駆け出した。

自宅の玄関を駆け込むと、優子は荒い息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。

心配して玄関先まで出てきた母が、

「どうしたの?大丈夫?」

と言いながら娘の顔を覗き込む。


そして娘の顔色の余りの悪さに一瞬息をのんだかと思うと、すぐにリビングにいる夫を呼んだ。

慌てて玄関に出てきた父も、娘の様子にひどく驚いたらしい。

少し狼狽えつつ優子を立たせると、肩を貸しながらリビングまで連れていき、ソファに掛けさせた。


父はテーブルを挟んで彼女の向いの席に着いた。母もその隣に座る。

「大丈夫か?何があったのか話してごらん」

父は優子にそう声を掛けると、心配そうに娘の顔を覗きこんだ。

隣の母もそれに倣う。


優子は中々恐怖が収まらず、少しの間俯いて黙っていた。

しかし両親に聞いてもらった方が、気持ちが落ち着くと思い顔を上げると、今しがたの出来事を、言葉に詰まりながらも両親に話した始めた。


優子の話を聞き終えた両親の反応はそれぞれだった。

「あんたに何もなくと良かったわ。だから人通りのある道を通りなさいと言ったじゃない。これからはそうしなさいよ」

と、母は娘を諭した。


一方で父は、

「お前の後ろを歩いていた人は、案外途中で曲がるなり、元来た道を引き返すなりしたんじゃないのかな。その後にその水の音がして、お前が振り向いた時には見えなくなっただけだと思うよ。案外怪奇現象なんてそんなものさ」

と、構えて呑気な口調で言った。


怯える娘の気持ちを和らげようとしたのかも知れない。

優子はあの道に途中で曲り角がないことや、仮に引き返したにしても、あの短時間だと自分の目に留まらないはずはないと思った。


しかし強くそれを主張する根拠もなかったので、何となく両親に肯いた。

気分は釈然とはしなかったが、父親の話で気持ちが落ち着いたのも確かだった。

しかし夕食を終え部屋に戻って1人になると、靄々とした気分がまたぶり返してくる。


――後ろを歩いていたあの人は、突然消えたとしか思えない。やっぱり幽霊?それにあの音は何だったの?絶対聞き違いじゃないし。

そんなことを考え始めるとなかなか寝つけず、寝ようと思うと同じ考えが堂々巡りで浮かんで来る悪循環に陥ってしまった。

そして明け方になって漸く浅い眠りに落ちたと思ったら、途端にベッドサイドに置いた時計のアラームが鳴った。


結局その日は完全に寝不足のまま出勤し、ぼおっとした頭で園の仕事を何とかこなすと、早めに仕事を切り上げ帰途についた。

両親には止められたが、どうしても気になったので、その日も流通センター沿いの道を通ることにしたのだ。


前日よりも時間がかなり早かったので、優子が流通センターの角に着いた時辺りはまだ明るく、歩く人もぽつぽつと見受けられた。

優子はほっと胸を撫で下ろすと、昨日と同じ道沿いを周囲に目を配りながらゆっくりと歩き始めた。

朝もこの道を通ったのだが、出勤を急いでいたのでゆっくりと観察している余裕はなかったからだ。


注意深く周囲を観察しながらしばらく歩き、丁度道の中間辺りまで来た時、優子は不思議な光景を目にすることになった。

朝通った時には反対側の歩道を歩いたので気づかなかったが、一か所だけ生垣が凹んでいる場所があったのだ。


近づいて見ると、その場所だけ生垣が刈り取られているのが分かった。

切り口は綺麗な楕円形を描いている。

断面を見る限りでは、その部分を折ったりむしり取ったりしたのではなく、機械を使って刈り取ったような滑らかさだった。


――どうしたら、こんな風に綺麗に刈り取れるんだろう?

そう不思議に思いながら生垣の下の部分に目をやると、歩道の境目にあるレンガ造りの縁石が生垣同様丸く削り取られていた。

そしてその断面も同じく滑らかだった。


優子はその場にしゃがみ込むと、削られた部分を注意深く観察してみた。

通行人に変に思われているかも知れないが、そんなことは気にしていられない。


顔を近づけて見ると、縁石の損傷はわずかだが歩道の端にも達していて、その部分が削り取られたようになっている。

全体的に見ると、生垣から歩道にかけて断面が一つの楕円形を描いているのが分かった。


――今までこんなのあったかな?なかったよね。あったらさすがに気づくよね。これって、やっぱり昨日のことと関係あるのかな?

そう考えながら立ち上がった優子は、何気なく車道の方を見た。

すると、あるものが彼女の視線の端に引っかかった。


歩道と車道の境界の辺りに、何かが落ちているのが見えたのだ。拾い上げてみると、それはメガネのフレームのようだった。

と言ってもフレーム全体ではなく耳に掛ける部分だけだ。

ねじが取れてレンズの部分から外れてしまったようだった。


優子はさらに周囲を見まわした。

するとメガネの残骸らしきものが、車道に落ちているのを見つけた。

車が来ていないのを見計らって車道に出ると、落ちていたレンズの部分と、もう片方の耳掛けの部分を拾い上げ、歩道にとって帰す。


通行人が怪訝そうな表情で彼女を見ながら脇を通り過ぎて行ったが、そんなことは気にならなかった。

車道で拾い上げた二つのパーツと、先に見つけたパーツを組み合わせると、女性用の一つの眼鏡になった。

耳掛けとレンズの部分を繋ぐネジが無くなっていて、バラバラになっていたのだ。


――ネジだけが無くなることって、あるのかしら?

手に持ったメガネの繋ぎ目部分をしげしげと見たが、答えは思い浮かばない。

優子はしばらくその場に佇んで考え込んでいたが、急に背中に寒気を覚え身震いした。

気づかない間に体中が汗ばんでいる。

昨晩自分の後を歩いていた人が、メガネだけ残してその場から消え去ってしまったという妄想に襲われたからだ。


――異次元空間に吸い込まれてしまったとか。でも、あの時の水の音は何だったんだろう?あれは絶対気のせいなんかじゃない。

そんなことを考えると物凄く怖くなり、優子は逃げ出すようにして、その場から速足で歩き去った。


***

「そのこと警察に言った?」

話を聞き終えた光は優子に尋ねた。


「実際に後の人が消えたところを見た訳じゃないし、警察に何て言ったらいいか分からなくて。やっぱり警察に届けた方がいいですか?」

優子は首を横に振りながら言った。


「いや、あんたの言う通りだわ。何て言ったらいいか分かんないから、届出のしようがないもんなあ。後を歩いてた人が突然消えたみたいなんです――って言っても、相手にしてもらえそうにないもんね」

「そうですよね。大体本当に消えたかどうかも分からないし」


「うーん。でも、話を聞いている限り、あんたが見間違えたとも思えないんだよねえ。実際その道って、途中で曲がるとこないんでしょ?」

「はい」


「あんたが後の人を確認してから、その水みたいな音がするまで、どれくらいの時間だったの?」

「すぐです。多分5秒も経ってなかったと思います」


「その一本道って、どれくらいの長さなの?」

優子は俯いて顎に手をやり、少しの間考えた後、

「多分、500mあるかないかだと思います」

と、自信なさげに言った。


「で、あんたが振り返った時は、その一本道に入ってからどれくらいまで来てたの?」

「音がした時は、出口の交差点まであと少しくらいの所まで来てました」

「じゃあ、その人がダッシュで来た道戻ったとしても、無理だわなあ。あんたに見とがめられずにいるのは」

「そうなんですよ。あの道は街灯も結構あって明るいから、絶対見失うことなんてないんですよ」


優子が余りに思いつめた表情でそう言うので、光はやや引いてしまったが、気を取り直して続けた。

「マンホールの蓋が開いてて、そこに落ちたということはないの?」

「え?マンホールですか?そんなのあったかなあ??」


優子は光の問いに意表を突かれたらしく、困ったような表情を浮かべて、右上に視線を向けた。

懸命に思い出そうとしたようだったが、結局駄目だったらしく、

「ちょっと分からないです。あったかも知れないし、なかったかも。もしそうだったら、大変ですよね?やっぱり警察に届けた方が良かったですよね?」

と、さらに困った顔を光に向けた。

目が潤んで涙目になっている。


「ああ、そんなに深刻にならなくていいよ。単なる思いつきだから。マンホールがあったとしても、蓋が空いてたら気づくだろうし。それにもし人が落ちたりしたら、悲鳴くらいは上げるだろうし」

光は慌てて優子を宥めた。

今は何でもネガティブに受け止めてしまうようだ。


「私、帰り道に確認してみます」

優子が思いつめたようにそう言いだしたので光は、

「止めときなよ。その道は通らない方がいいって」

と彼女の両肩を掴んで、強い口調で嗜(たしな)めた。


「いいか?何か事故とか事件とかだったら、遅かれ早かれ警察が動くって。誰かが行方不明になったら、何て言ったっけ?あれだ、あれ。捜索願を出すでしょう。その人の家族とかが。あんたもさっき言ってたじゃない。実際にその人がいなくなるのを見た訳じゃないって。だからその道はしばらく通らず、様子を見た方がいいって」


自分でもあまり理屈が通ってないなと思いつつ、光は必死で優子を宥めた。

こういう時に自分の説得力のなさに腹が立つ。

渚だったら上手く言い包めて、丸め込むだろう。


しかし優子がかなり思いつめているのが物凄く気になったし、そもそも朝から続いている例の頭痛が光に警鐘を鳴らしている。

優子の話を聞いて、嫌な予感が急激に現実味を帯びてきた気がした。


その時光は周囲の視線に気づいた。

知らず知らずのうちに、かなり声が大きくなっていたらしい。

彼女は怪訝そうな表情でこちらを見ている同僚たちに向かって、

「あ、何でもないです」

と言って、軽く手を上げた。


そして優子に、

「とにかく出ようか」

と、声を潜めて言った。


優子も肯くと、すぐに帰り支度を始める。

席を立った2人は居残りの同僚たちに向かって、「お先です」と声を掛け、そそくさと職員室を出た。


園舎を出て園庭を抜けて門に至るまで、2人は終始無言だった。

光はこういう気まずい雰囲気が物凄く苦手なので、門を出たところで、「今日は一緒に家の近くまで行こうか?」と、優子に声を掛けた。


普段は門を出ると左右に分かれ、光は自宅マンションまで歩いて帰るのだが、何となく今日は優子のことが気になり、そう提案してみたのだ。

しかし優子は、「そ、そんなの申し訳ないです。光先輩のお家、すぐ近くなのに、わざわざ家の方まで来てもらうなんて。私、本当に大丈夫ですから」と言って、顔の前で何度も手を振った。


そして、「先輩、さようなら。話聞いてもらって、少し落ち着きました」と言うと、光に向かってぺこりとお辞儀をし、駅に向かって歩いて行った。


光もそれ以上は言えず、

「絶対明るい道を通りなさいよ」

と優子の後ろ姿に念を押すしかなかった。


光の言葉に優子は振り向くと、

「分かりました」

と笑顔で言って手を振り、再び駅に向かって歩いて行った。

それが、光が最後に見た優子の姿だった。

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