【04】

その朝玉木勇(たまきいさむ)は、暑さで目を覚ました。寝室のエアコンのタイマーが既に切れているようだ。壁に掛かった時計を見ると9時を回っていた。

勇はもそもそと寝床から起き出すと、居間に移動してエアコンのスウィッチをいれた。そしてテーブルに置いたパッケージから、その日1本目の煙草を取り出す。ガスの切れかかった使い捨てライターは、ヤスリを何度擦っても中々着火しなかったが、諦めかけた頃に何とか火を点けることが出来た。

深々と煙を吸い込むと、気管と肺に刺激が沁み渡っていく。勇は漸く体に残った眠気が抜けて行くのを感じた。それでも体のそこかしこに、気怠さが残っている。別に睡眠不足ということではない。むしろ床に就いている時間だけは長いのだが、眠りが浅いのだ。そのせいで慢性的な疲労感が体から抜けない。

――結局は年ってことか。

勇は諦め気味にそう思うのだった。

妻の富子は既にパートに出たらしく、家にはいなかった。それでもテーブルの上には、きちんと勇の分の朝食の支度がしてあった。富子が勇より遅く起き出すことなど、これまでの40年近い結婚生活の中で一度もなかった。少しの体調不良くらいでは決して寝込んだりせず、毎朝毎朝、勇が起きる頃には、朝食のきちんと支度が整えられているのだ。

本当によくできた妻だと思う。よくできた――という言い方は、何となく男の側の目線から見た表現の様な気がするのだが、勇の場合のそれは、純粋に妻への感謝の意味を込めた言葉だった。口に出して言ったことはないが、勇は妻にいつも感謝していた。そういうことは、はっきりと口に出して伝えるべきだということは、彼も頭では分かっているのだ。しかし結局言わず仕舞いのままで何10年も過ごしてしまったので、今更そんなことを言っても最早手遅れだと思っている。

――こういうのも単なる言い訳かも知れないな。

そう自嘲気味に思うこともある。夫婦なら、それくらい言わなくても察しろ――などと考える男も世間にはいるようだが、勇はとてもそこまで傲慢に振る舞うことは出来なかった。

――人間、言葉にしなければ伝わらないことなど、山程あるんだがなあ。

それでも僅かな感謝の気持ちすら口に出して伝えられない自分が、不甲斐ないという強い思いはある。これまでの結婚生活の中で、妻の富子は些細な愚痴は言うものの、決して勇に対して強い態度に出ることはなかった。妻は穏やかではあるが、一方でかなり明るい性格なので、自分の様な面白味のない男といるのは、相当退屈だったと思う。だから勇は妻の愚痴を聞き流したりしないよう、常々気を付けていた。それくらいが自分に出来る、精一杯の愛情表現だと思ったからだ。

テレビを点けると、昨晩フランスで起こったテロのニュースが流れていた。ニースという町で、花火見物をしていた群衆にトラックが突っ込み、死亡者が何十人も出ていた。負傷者も何百人という単位で出ていて、これからも死亡者が増える見込みの様だ。フランス政府はイスラム過激派によるテロであるという見方をしているようだが、事実関係はまだ明らかになっていないと、テレビで見慣れたアナウンサーが言っていた。勇はニースという町の名前に聞き覚えはあったが、それがどの国のどの辺りにある街なのか、詳しいことは全く知らなかった。ただ聞いたことのある名前の街という程度の、遠い外国のニュースであっても、今の世界ではほぼリアルタイムで伝えられる。勇は見ないが、インターネットで配信されているニュースは、テレビよりも遥かに早いスピードで世界中を駆け巡るらしい。

――便利な世の中になったものだ。

そう思う一方で、何だか世の中のスピードについて行けず、置いてけぼりになっているような気がして落ち着かない。日々刻々と発信され続けているニュースの量が、既に彼の許容量を遥かに超えてしまっているからだろう。

――そう感じるのは自分だけなのだろうか?

そういう意味のことを言うと妻の富子は、

「じゃあ見なければいいじゃない」

と、笑いながら勇を窘(たしな)める。しかし勇は今、かなり暇な境遇なのだ。警視庁時代の先輩から紹介された警備会社に嘱託として務めてはいるが、それも毎日という訳ではなく、週の半分くらいは家にいる。そうすると、テレビでも見ているしかないだろう――と勇は思うのだ。

勇は5年前に定年退職するまで、警視庁に所属する刑事だった。とは言っても、本庁に配属されたことは一度もなく、定年までずっと所轄署での刑事生活を送っていた。彼が生まれた頃の日本はまだ米軍の占領下にあり、大戦からの復興がようやく端緒についたばかりだった。そして日本中の殆どがそうであったように、勇の家庭も貧しかった。実家は八王子にある小さな雑貨店で、幸いアメリカ軍の空襲を免れたお蔭で家は残っていたので、住む場所にだけは困らなかった。そういう意味では都心部に住んでいて空襲に遭い、焼け出された多くの人々に比べれば、自分は随分と恵まれていたのかも知れないと思う。しかし勇の家の食料事情は当時の多くの家庭と同様至って悪く、幼い頃の思い出と言えば、只々空腹だったことしか浮かばない。

高校を卒業した勇は、主に経済的な理由で大学進学を諦め警察学校に進んだ。警察官になろうと思ったのは、社会正義のためとか人々の生活を守りたいとか、そういう大上段に構えた理由ではなかった。公務員で固い職業だし、少しは人様のためになると思ったからだ。多少なりとも体力には自身があったし、大学に進みたいと思う程には勉強が出来なかったのも、警察学校を選んだ理由の一つだった。そんなことを言うと、他の警察官たちに失礼だろうか?――と思って、勇は心の中で苦笑する。彼は男ばかりの三人兄弟の末っ子で、兄は二人とも健在だった。家業の雑貨店は長兄が跡を継ぐことになっていたので、端(はな)から勇には実家に残るという選択肢がなかったことも、外で仕事をすることの後押しをしていたのかも知れない。

警察学校を卒業した後勇は、他の多くの警官と同様に交番勤務や機動隊勤務を10年程経験した。自分はこのままずっと、制服警官としての人生を送るんだろうな――当時の勇はそう思っていたし、そのことに対して何の疑問も感じていなかった。ところがある日、上司から築地警察署の刑事課への転属を言い渡されたのだった。

彼はその転属命令を聞いてかなり驚いた。別に刑事課への配属が嫌だった訳ではない。しかしそれまでに刑事課への異動を希望したこともなかったし、自分は刑事捜査のようなことには向いていないだろう――と、大した理由もなく思っていたからだ。しかし転属の辞令を渡された時、上司から転属理由についての説明は一切なかった。勇も何となくそれを聞きそびれてしまったので、結局30年以上経った今でも理由は解らないままである。その後定年までの約30年間、勇はずっと捜査畑を歩き続けてきた。

5年前に警察を定年退職した今は、月島にある自宅で妻の富子と二人暮らしだ。一人娘の絵海(えみ)は5年前に嫁いで、一男を設けている。勇夫婦にとって絵海は遅く生まれた一人娘だったので、忙しい刑事生活の中でも彼なりに色々と気に掛けながら育ててきたつもりだった。それは世間の父親と比べれば、至らない部分も随分と多かったとは思う。娘が無事に育ってくれた理由の多くは、妻のおかげが大きいとも思うが、それでも自分なりに、懸命に父親をやってきたつもりだった。娘の絵海は子供の頃からおっとりとした性格で、留守がちな父親に反抗することもなく、そのまま素直な娘に育ってくれた。そして人並みに大学を卒業すると、都内の小さな会社に就職したのだった。その絵海が勤め始めてから数年が経ったある日、突然結婚相手を紹介すると言って家に連れてきたのだ。その時勇はかなり驚いたのだが、妻の富子は事前に知らされていたらしく、特に慌てた様子もなかった。

――まあ、母親と娘というのは、そんなものなのだろう。

勇はそう思って、自分の狼狽ぶりを密かに笑ったのだった。絵海が連れてきた村崎貴之(むらさきたかゆき)という青年は、少し地味ではあるが真面目で温和そうな印象だった。職業も当時の国立衛生試験所の研究員という、かなり手堅そうな仕事だったので、勇はとても安心したのを憶えている。もちろん二人の結婚に反対する理由はなかった。

なんだかんだと言っても、自分は家庭的に随分恵まれていると勇は思っている。その大きな理由の一つが、夫婦間や父娘間の関係に、ほとんど波風が立たなかったことだった。おかげで勇は定年を迎えるまで、自分の仕事に集中することが出来たのだ。もちろん仕事にかまけて、家庭を顧みないようなことは多分なかったと思う。しかしそれでも、父親として足りていない所は随分とあったのだろう。富子や絵海は、そんな自分の至らなさを、黙って我慢してくれていたのだと思う。それが家族にとって良いことだったのかどうか分からないが、いずれにせよ勇は妻と娘に心の中で感謝していた。夫婦関係や親子関係に正解はないと思うが、自分の家庭は及第点に達していると思っている。しかしその一方で、本当に自分は妻や娘から父親として、あるいは家族として認められていたのだろうかと、漠然と不安に思うことがある。

――家庭に波風が立たなかったのは、単に妻や娘が自分に対して関心を失くしてしまっているからではないのか?自分の方は家族だと思っていても、向こうは自分のことをそう思っていないのではないか?

そんなことを勝手に想像して、何だか家族と顔を合わせるのが無性に怖くなることがあるのだ。少し冷静になれば、それが単なる妄想に過ぎないことは分かる。日頃の妻や娘の言動と接していれば、そんな妄想はあっさりと否定して当然なのだ。勝手に想像しておいて、その想像に怯えている自分のことを、心底情けない男だと思う。しかし一度心に浮かび上がった妄想は、いつまでも勇の中で湧いては消え、消えてはまた湧いて来るのだ。だからと言って妻や娘に真意を質す度胸もなかった。万が一にでも自分の想像が当たっていて、妻と娘にそのことを肯定されてしまったら、その瞬間に自分は居場所を失くしてしまう。そう考えると益々怖くなって結局何も言い出せず、いつものまま日々を過ごしているのだ。

勇はそんな自分のへな猪口ぶりに気づく度に、情けないこと、この上ないな――と、思わず苦笑してしまう。そして何故自分はそんな妄想を抱くようになったんだろうと考える。

――仕事のせいかな?

別に刑事という仕事自体に原因があるということではなく、間違いなく自分の心の問題ではあるのだ。それは分かっている。しかし刑事という仕事を通して、あまり幸福とは言えない他人の人生を多く垣間見てしまったことが、心に影響していないとは断言出来ない。20年以上も刑事の仕事をしていると、それは様々な事件に関わることになった。殺人、傷害、変死といった事件を取り扱う部署に長くいたので、遺体も数多く見て来たし、凶悪な犯人と遭遇したこともあった。刑事の仕事というのは、事件に関係する証拠や証言、情報をひたすら集めて積み上げ、何がしかの形にしていくことだと、彼は考えていた。積み上げた後で見るとその形は完全でなく、むしろ歪(いびつ)であったり、どこかが抜け落ちたバランスの悪いことの方が多かったのかも知れない。それでも勇は捜査チームの一員として、拾い集めて来た証拠や証言を持ち寄っては積み上げる作業を、倦むことなく延々と繰り返して来たのだ。他にも色々とあったと思うのだが、仕事だからというのが一番しっくりとくる理由だった。その仕事を遂行する過程で、刑事でなければ知ることのなかったような、他人の事情に数多く触れることになった。それは容疑者や被害者のものだけでなく、事件に関係した様々な人が持つ事情だった。その中には、本人たちにとっては、あまり他人に知られたくないだろうと想像出来るものも、当然のことながら多く含まれていた。いつしか勇は、その事情の多くに共通していたものが、周囲からの孤立という状況から生み出されているのではないかと考えるようになっていた。

風俗嬢に入れ込み些細な理由から殺害してしまった男は、職場や家族の中で孤立していた。その被害者も、ある意味で社会から孤立していた。いじめが原因で自殺した中学生は、学校の中で孤立していた。いじめに関わった学生たちは、所属するグループ内で孤立することを恐れていた。不良少年たちにイタズラ半分で殺害されたホームレスの老人は、社会そのものの中で孤立していた。殺害した側も、何らかの形で社会からはじき出されそうになっていた。事件関係者の多くが、被害者や加害者という立ち位置に関係なく、居場所を失くして不安の中で彷徨っている――そんな風に感じるようになったのだ。やがてそれは、突き詰めれば誰もが些細な契機で周囲から孤立してしまうのではないかという考えに集約されていった。勿論その中に自分も含まれている。

――気づいていないだけで、俺は既に家族や職場の中で孤立しているのではないか?

何時しか勇は、そんな強迫観念を抱くようになってしまったのだ。それは今に至るまで、勇の中で尾を引いている。そんな考えは馬鹿げていると思った。妄想に過ぎないと、無理矢理その考えを否定した。そうしないと、まともな日常生活など送ることが出来ないからだ。しかし一旦心に湧いたその妄想は、彼の中で消えることなく、徐々に膨らんでいった。家に居ても仕事をしていても、フワフワとして妙に落ち着かない感覚が湧いて来るようになったのだ。そしてその感覚は、今でも勇の心の中に居座り続けている。今ではすっかり慣れてしまっているが、いつもすっきりとせず、何だか気持ちが悪い。その原因を突き詰めていくと、結局自分が臆病なだけだという結論に行きつく。妻や娘に対して一歩踏み込むことが出来ない。そうすることで、自分に居場所がないという、望まない現実を突き付けられることを無意識に恐れている。だからフワフワと宙ぶらりんな状態のままでいる。そしてその状態が気持ち悪い。堂々巡りである。勇はそれを、この歳になるまで続けて来たのだ。そして、馬鹿馬鹿しい――と最後はそう思うことで、自分の妄想に無理矢理けりをつけるのだった。


***

その日は朝からその靄々とした気分が湧いてきたものだから、すっきりとしない一日の出だしとなってしまった。

――朝っぱらから鬱陶しいことだな。

勇は自重を込めてそう思うと、吸い込んだ煙草の煙を勢いよく吐き出した。遅い朝食を済ました彼は、月島警察署に後輩の警察官を訪ねるために家を出た。5分ほど自転車で走り、大江戸線の勝どき駅の交差点を晴海ふ頭の方に向かって曲がると、大通りの両側に背の高い建物がずらりと並んでいるのが見えた。自分が交番勤務をしていた頃とは景色が一変しているのを見て、勇は急に切なさを覚えてしまった。何だか若い頃の自分の人生が、景色ごと消え去ってしまったような気がしたからだ。

思えば自宅からそう遠くないというのに、この付近に足を向けるのは実に20年ぶりのことだった。勇は気を取り直すと、月島署に向かって自転車を漕ぎ始める。晴海通りは海から来る風が強いので、彼の様な老人は自転車を走らせるのに一苦労する。少しふらつきながら、勇は懸命にペダルを漕ぎ続けたが、黎明橋を渡り終えた頃にはすっかり息が上がっていた。

――知らない間に、えらく体力が落ちたもんだ。

勇は自分の不甲斐なさに小腹を立てると、再び気を取り直して目的地へと向かった。

晴海三丁目の交差点を埠頭方面に曲がって少し行くと、左手に月島警察署がある。勇は署の脇の歩道に自転車を止め、署の玄関をくぐった。その際に立ち番の若い制服警官に軽く敬礼をすると、ちょっと驚いた様子で慌てて敬礼を返してきたのが可笑しかった。勇は署の案内係に自分の名前と身分を告げ、訪問相手の桑野太郎を呼び出してもらった。

玄関フロアの隅に置かれた古いソファに腰かけて5分ほど待っていると、正面の階段から桑野が太った体を揺らしながら降りて来た。桑野は既に50歳も中半を過ぎているはずだったが、太っているせいか、実年齢よりもずっと若く見える。勇が椅子から立ち上がって迎えると、

「玉さん、お久しぶりです。お元気そうで良かったですわ」

と、桑野は商売人のような愛想のよい笑顔を浮かべて挨拶した。

「そっちも元気そうだな。相変わらず忙しいのかい?」

「相変わらずですね。玉さんには釈迦に説法ですけど、暑かろうが寒かろうが、事件は待ってくれませんからね」

「大変そうだな。そんな忙しいとこに済まないんだが」

そう言いかけた勇を遮り、

「ああ、気にせんで下さい。中島さんの件ですよね。俺も気になったもんで、城東署の担当の方に色々問い合わせて見たんですけどねぇ。これがあんまり上手くないんですわ」

と言って、桑野は坊主頭を掻く仕草をした。

――困った時のこいつの癖だったな。

勇はその様子を見て昔を思い出し、何となく懐かしい気分になった。定年するまで桑野とは同じ刑事課の同じ班に所属していて、同じ事件を担当することがよくあったからだ。その桑野から、中島茂についての問い合わせが勇の所にあったのは、2週間ほど前だった。中島は警察学校の勇の同期で、それ以来45年以上に渡る友人だった。同じ所轄署に配属されたことは一度もなかったが、忙しい合間を縫って年に数回は酒を酌み交わしていたし、お互いの娘や息子の結婚式に招待し合う仲だった。中島も勇同様5年前に定年を迎えが、交通課畑が長かったので、その伝手で西葛西にある自動車教習所に定年後の職を得ていた。その中島が教習所を無断欠勤し、音信不通となったのが3週間前だった。

中島は早くに妻を亡くし、二人いる子供たちも既に独立していたので、江東区東砂町で一人暮らしをしていた。それまでは無断欠勤することなど一度もなかったので、心配した教習所の係の人間が登録された携帯電話の番号に連絡したが、中島とは連絡が取れなかったらしい。そして不審に思った教習所の係の人間から、就職時の身元保証人である長男の元に確認の連絡が入り、漸く行方不明になっていることが判明したのだった。長男が父親を訪ねた時、一人暮らしのマンションの部屋はきちんと施錠されていて、室内が荒らされた気配はなかったらしい。そして本人の姿も部屋の中には見当たらなかった。何度電話しても父親に繋がらなかったため、不安を覚えた長男は、所轄の城東署に父親の捜索願を出したのだった。

元警察官ということもあってか、警視庁内の縦横の繋がりで情報が巡り、それを小耳にはさんだ桑野から勇に連絡が入ったのが2週間前だった。知らせを聞いて心配になった勇は、すぐに中島に連絡を入れたが、やはり電話は繋がらなかった。その後何度も掛けてみたが、結果は同じだった。更に不安を覚えて中島のマンションを直接訪ねて見たが、やはり友人は不在だった。年齢が60歳を超えていることから、外で突然倒れて救急搬送された可能性も検討され、都内や西葛西周辺の消防に照会が回ったようだが、いずれも不発に終わっているようだ。中島の目撃情報もないらしい。

無理もないな――と勇は思った。これといった特徴もない老人のことなど、道行く人は気にも掛けないだろう。そう思うと、自分たちの存在感の薄さに、虚しさが湧いて来る。

すまなさげな桑野に向かって、

「何か分かったら教えてくれ」

と言い残すと、勇は月島署を後にした。


***

さて、どうするかな――と、勇は月島署の玄関前に立ち止まって考えた。何気なく振り返ると、先程の若い制服警官が怪訝そうな表情でこちらを見ている。苦笑した勇は駐輪スペースに移動して、止めていた自転車に跨った。

――中島の部屋にもう一度行ってみるとするか。

勇は心の中でそう決断する。特に何かを期待している訳ではなかったが、家でぼおっと考え事をするよりも、動いている方が気が楽だと思ったからだ。もちろん中島の消息は気になるし、心配でもある。

自転車を置きに一旦自宅に戻った勇は、家の中には入らず、そのまま最寄りの月島駅に向かった。月島から大江戸線に乗って一駅目の門前仲町で東西線に乗り換え、南砂町で電車を降りる。駅から10分ほど歩いた場所にある古びた5階建のマンションが、中島の住まいだった。12年前に妻を亡くした中島は、それまで暮らしていた江戸川区の住まいを引き払うと、この賃貸マンションに引っ越してきたのだ。その時点で既に二人の子供は独立していたので、前の家は一人暮らしには広すぎるというのが理由だった。

「この方が気楽でいいやね」

そう言って中島は笑っていたが、前の家には妻との思い出が多すぎて寂しいのだろうと勇は思っていた。勿論そんなことは、中島に一言も告げてはいなかったのだが。

マンションの部屋にはやはり鍵が掛かっていて、摺ガラスの向こうの室内は暗かった。何度か呼び鈴を鳴らしてみたが、返事はない。

――やっぱり戻ってないか。

そう思うと、不吉な思いが打ち消しても、打ち消しても、次々と湧いて来る。勇はその場にいるのが急に居た堪れなくなって、逃げるようにマンションを離れた。そのまま来た道を駅まで戻ったが、歩いている間中まったく考えがまとまらず、苛々が募るばかりだった。駅に着いた勇はそのまま家に帰ろうかと思ったが、思い直して東西線を反対方面に向かうことにした。中島の勤め先に行ってみようと思ったからだ。南砂町から荒川を越えて一駅の西葛西で電車を降りる。駅から荒川方面に10分ほど歩くと、中島が務めている自動車教習所の建物が見えた。

教習所の中に入ると、教習生らしい男女でかなり込み合っていた。当たり前のことだが、若い子の数が圧倒的に多い。玄関を入って左手にある案内カウンターに向かうと、係の女性に身分と来意を告げた。20代前半くらいの年に見えるその女性は、最初は勇の意図が分からなかったらしく不審そうな顔をしていたが、勇が中島の警視庁時代の同僚であることを告げると、

「し、少々お待ち下さい」

と言って、慌ててカウンターの奥の部屋に駆けこんで行った。そして数分後に戻って来た時には、中年のやや草臥れた男を伴っていた。どうやら彼女の上司らしい。

「事務課長の徳永です」

男は、ずれたメガネの位置を直しながらそう名乗ると、勇に来意を尋ねた。勇は自分が中島の元同僚で親しい友人だったこと、警視庁の元同僚から中島の失踪について照会があったことなどを手短に話すと、彼が最後に教習所を出た時の状況を知りたいと告げた。自分の身分については警視庁に照会してもらってよいと言うと、徳永は少し安心したらしく、勇を応接室に通してくれた。ソファに腰を下ろした途端、徳永と名乗った男はべらべらと話始める。かなりお喋りな性格のようだ。

「いやあ、私も今回の件は気をもんでいるんですよ。なにしろ中島さん、無断で休むような人じゃないですから。だから欠勤された日の朝に中島さんに電話したのも、その後で息子さんに連絡とったのも、実は私なんですよ。心配でねえ。まあ、そんなお年でもないですが、帰る途中に倒れることだって、ないとは言えないじゃないですか。ああ中島さん、自転車で通勤されていたんですよ」

「自転車ですか?」

「ええ、そうです。健康のためだと仰って。それで、もしかしてと色々と変なこと想像してしまって。ほら、今暑い時期じゃないですか」

そこまで言った時に、ドアをノックして40代くらいの女性が入って来た。両手でお茶を乗せた盆を持っている。

「失礼します」

女性はそうと言うと、勇と徳永の前に氷の入ったお茶のグラスを置いた。

「すみません」

勇は女性に向かってぺこりと頭を下げた。徳永は勇にお茶を勧めながら自分も一口飲むと、話を続けた。

「あの日は確か、金曜日だったと思います、ええ。中島さんには、月水金の週3回来ていただいてたんですよ。勤務時間は朝の8時からお昼の3時まででして。あの日も、いつも通り8時少し前に出勤されて、仕事をされていて。あの日は学生さんの夏休み期間中の集中コースの申込みで、皆ばたばたとしていまして。気がついた中島さんは退勤された後でした。ええ」

「何かその、中島にいつもと変わった様子とかはなかったですかね。体調が悪そうだったとか」

――刑事時代の聞き込みみたいだな。

勇は徳永に訊きながら、内心苦笑する。

「そうですねえ」

と言って徳永は少しの間考え込んだが、

「いや、特に変わった様子はなかったですねえ。それまで通り、お元気そうでしたし。何かその、悩んでいるとか、そんな様子もなかったと思いますよ」

と、その時の様子を思い浮かべるように、斜め上を見る。

「そうですか。ところで昼の3時といえば結構早い時間帯ですが、帰りにどこか寄り道するとか、そんなことは言ってなかったですかね?」

「寄り道ですか。うーん、そうですねえ。そう言えば夏の始まりの頃に、このまま帰っても暇だから、小松川公園の辺りまで遠回りして帰るんだ――と仰っていたことがありましたねえ。健康のためだと仰って。暑い時期だから気を付けて下さいよ――と言ったんですけどね。公園に出てる屋台で、アイスクリームを食べて帰るのが楽しみだとか」

「小松川公園――ですか?」

「ええ。ここからだと葛西大橋を渡って、荒川沿いにずっと上に行ったところにある、結構大きな公園です」

そう聞いて勇は考え込んだ。無駄かも知れないが、行って見ようかと思ったのだ。それを察したように徳永が、

「ひょっとして、あそこまで行かれるんですか?今日はお車で?」

と勇に訊く。

「歩きだと無理ですかね?」

勇がそう返すと彼は、

「歩くのはちょっと。かなり遠いですよ」

と言いながら、困ったような表情をした。

「そうですか」

勇はその返事に少し落胆した。それを気の毒に思ったのか徳永は、

「何でしたら、タクシーをお呼びしましょうか?それだと10分か、15分くらいだと思いますよ」

と提案してくれた。中々親切な男である。

「ぜひお願いします」

勇の返事に頷くと、徳永は気軽に立ち上がり部屋を出て行った。そして数分ほどで戻ってくると、

「すぐに来てくれるそうです」

と、勇に告げた。彼の言ったとおり、タクシーは5分もしないうちに到着した。勇は玄関先まで見送ってくれた徳永に礼を言い、タクシーに乗り込むと、

「近場で悪いんだけど、小松川公園まで」

と、運転手に行き先を告げる。

「荒川沿いですね?」

中年の運転手はバックミラー越しに勇を見て言うと、後は無言で車を発車させる。愛想が良いわけではないが、特に嫌そうな素振りでもない。

徳永が言っていた通り、公園には10分ほどで到着した。料金を支払ってタクシーから降りた勇は、公園の中に入り、屋台のアイスクリーム屋を探すことにした。公園の中は彼が想像していたよりも、はるかに広かった。入口から周囲を見渡したが、平日の真昼のせいか、人の数は思ったよりも多くない。おそらくこの暑さの影響もあるのだろう。今年は7月に入ってから雨が少なく、連日35℃を超える猛暑日が続いている。

――日中はおそらく、人間の体温を超えているかも知れないな。

そう思った途端に、顔や首筋、背中にかけて、体全体から一斉に汗が噴き出しているのを感じた勇は、持ってきたハンドタオルで顔と首筋の汗を拭うと、公園の奥に向かって歩き出した。園内には遊具や噴水のような、勇が勝手にそう思い込んでいる公園の付属物は一切見当たらず、何となく殺風景な雰囲気だった。広々とした芝生の合間を、舗装された歩道が縫うように続いている。公園というよりも、広場と呼んだ方がふさわしいのかも知れない。都営住宅らしい背の高い建物が、公園の向こう側に文字通り林立しているのが見えた。もう少し気候が良い頃には、おそらく子供を遊ばせるのに持ってこいのスペースなのだろう。現に暑い中で子供を遊ばせている母親の姿も、ちらほらと見ることが出来た。

熱中症にならなきゃいいがな――などとお節介なことを考えながら、勇はぶらぶらと歩道を歩いてみたが、目当てのアイスクリームの屋台は見つからなかった。諦めかけていると、歩道の向こうから勇と同年配の男性が歩いてきたので、これで駄目なら引き上げよう――と思いつつ、男に声を掛けてみた。相手は突然呼び止められて少し驚いた様子だったが、勇がアイスクリーム屋台を探していると言うと、

「それなら、向こうの駐車場の所に出てますよ」

と、その方向を指さしながら教えてくれた。勇は男に礼を言って、その方向に歩き出す。既に背中は汗でびっしょりと濡れている。5分程歩くと車道が見え、その手前に何台か車が停まっているのが見えた。近づくと、その中に屋台風の1台がある。

勇は一瞬立ち止まって、どうしようか――と考えたが、無暗に声を掛けるよりも、アイスクリームを買ってからの方がいいだろうと思い、車に近づいて行った。車は屋台用に改造された軽のワゴン車で、傍に制服らしい縞模様のTシャツと、明るい空色のズボンをはいた学生風の男が立っていた。Tシャツの胸に付けた名札には、<平井>と書かれている。勇はワゴンの壁に掛かったメニューを見た。ソフトクリームやカップのアイスも置いているようだったが、とにかく喉が渇いていたのでイチゴ味のシャーベットを注文した。平井青年は愛想よく注文を受けると、社内のアイスボックスから透明のカップ入りのシャーベットを取り出し、プラスチック製のスプーンを添えて勇に手渡した。受け取った勇は料金を支払いながら、以前旅行をした際に中島を写した携帯電話の写真を彼に見せ、中島の消息が途絶えた前日に、ここに立ち寄っていないか聞いてみた。もちろん中島が失踪したことは伏せてだが。

意外なことに平井青年は、

「ああ、その人なら確かにその日ソフトクリームを買っていかれましたよ」

と、あっさりと答えたので、大して期待していなかった勇は慌てて聞き返した。

「本当に?その日に間違いないかい?」

「ええ、間違いないです」

と、平井青年は断言する。

「えらくはっきりと憶えてるね」

「ああ、それはですね。その日が僕のバイト初日だったんですよ。研修終わって、前の人との引き継ぎで最初にこの店に立った日なんですよ。で、その人が、『初めてだね』って声かけてくれたんで、よく憶えてます。そう言えばあれ以来買いに来られてないですね」

平井の答えに勇は重ねて訊いた。

「それ以来、その人は来てないんだね?間違いない?」

「何だか刑事さんに聞かれてるみたいですね」

「すまん、すまん。実は以前刑事やってたもんで、ついその時の癖が出るんだわ。気を悪くしないでね」

「え、本物の刑事さんだったんですか?緊張するぅ。何か事件ですか?」

平井はそう言って、好奇心むき出しのまなざしを勇に向けてくる。

「いや、事件というわけじゃなくて、単なる人探しなんだよ。それより、その日からこの人を見かけないというのは確かかい?」

「ええ、あれからほぼ毎日この店に立ってますから。多分間違いないですよ。ああいう風に話しかけてくれたお客さんは、あの人だけだったんで。もし買いに来られたら、憶えてるはずです。こう見えて、割と記録力はいい方なんで」

「そう。少なくともそれ以来、ここでソフトクリームは買ってないわけだ」

「はい。まあ店に寄ってないだけで、前を通ったかもしれませんけど。さすがにそこまでは気づかないですねえ。すみません」

「いや、助かったよ。それでその日、この人はどっちの方に行ったとか憶えてない?」

平井青年は少し考える風だったが、

「確かあっちの方に歩いて行かれたと思います。何となくですけど。中川沿いの歩道を散策して帰ると仰ってたと思います。多分――」

と言いながら、運河沿いの道を指した。

「ありがとう。助かったよ」

勇は平井青年に礼を言うと、その場を離れた。

「ありがとうございました」

後ろから明るい声が追いかけてきたので、振り向いて軽く会釈する。なかなか感じのいい若者である。

駐車場を出た先の車道には信号や横断歩道はなかった。勇は通行する車がなかったのを幸い、駐車場の出入口から直接車道を横断し、向こう側の歩道に出ることにした。車道を渡りながら、道交法違反かな?――などと自嘲気味に思う。渡った先の歩道は整備されていて、両脇の芝も綺麗に刈り込まれている。歩道からは川面がすぐそこに見えた。

――大雨でも降ったら、この辺は水に浸かるんじゃないか?

そんなお節介なことを考えながら、勇は中島が向かったという方向に少しゆっくり目のスピードで歩き始めた。何か引っかかるものがないか、周囲に注意しながら進む。

――刑事時代に戻ったみたいだな。

ふとそう思って、勇は苦笑を浮かべた。体に染みついた刑事の習性は、警察を辞めてもう何年も経つのに、中々抜け切らないようだ。

しばらく歩くと、前方に川を跨ぐようにして作られた電車の駅が見えた。歩道はその下を通り、向こう側へと通じているらしい。駅舎に近づくと、歩道の一部がなくなっている場所が目についた。近づいて確認すると、何かでその部分をこそぎ取ったような風である。歩道から荒川に続く地面を見ると、やはりその場所だけ芝がなく、土がむき出しになっていた。勇はその場にしゃがむと、こそぎ取られた部分を調べて見た。その断面は滑らかな半楕円形をしていた。削られた芝生の方は近くで見ると、新しく雑草が芽吹き始めているようだった。

勇がその周囲を見回すと直ぐ近くの芝の上に、何か金属の様な物が落ちているのが見えた。それに近づき手に取って見ると、自転車の車輪の残骸だった。持ち上げて間近で見ると、車輪の半分ほどがすっぱりと一直線に切り取られているようだ。スポークの断面も、そしてタイヤのゴムすら真直ぐな平面状の切り口をしていた。

――どうやったら、こんな風に綺麗に切れるんだろう?

勇は車輪の残骸を手に持ったまま、その場に立ってしばらく考え込んだ。しかし納得出来る回答は浮かんでこない。歩道を歩いていた中年女性が、こちらを怪訝そうに見ながら通り過ぎて行く。

勇は気を取り直すと、周囲の地面を丁寧に探し始めた。何か他に見つかるかもしれないと思ったからだ。すると少し雑草が伸びた辺りに、メガネのレンズらしいものが落ちているのを見つけた。周辺を探して見ると、少し離れた場所にも、対と思われるレンズが落ちていたが、メガネのフレームは見当たらなかった。勇は両手の親指と人差し指に一つずつレンズを挟み、目の前にかざして見た。そして中島がかけていた金属フレームのメガネを思い出してみる。何となく似ているような気もするが、ここで中島が行方不明になったかも知れないという先入観が、そう見せているのかも知れない。

勇は冷静になろうと思い、一つ大きく呼吸した。仮に中島がここで何らかの理由により消息を絶ったとして、どの様な状況が考えられるだろう。一番ありそうなのは、運河に転落した可能性だ。

しかしその場合は自転車ごと転落したのだろうか?

あるいは自転車を、後から来た誰かが持ち去ったのだろうか?

先程拾った自転車のタイヤの残骸が、どうしても心に引っかかる。もちろんそれが中島の自転車の残骸だという証拠はない。そもそも目の前の運河に落ちて溺れるということがあるのだろうかと、勇は思考を切り替えた。確かに護岸には遮るものがなく、転落しても不思議ではない。川面と護岸の高低差もそれ程なさそうだ。

――深さはどうだろう?

そう思って運河を覗きこんだ勇の目が、何か異質な物を捉えた。護岸から1、2メートル先の川底を、運河の流れに沿って黒っぽいロープのような物が横たわっている。その色彩は川底の土の色と同調しているため、余程気を付けてみないと気づかなかっただろう。勇が目で追っていくと、それは川底に沿って運河の下流から上流の方までずっと続いていた。水中ケーブルか何かを通すパイプかとも思ったが、何となく人工物のような感じがしない。勇はしばらく川底に横たわるそれを注視していたが、何故か急に背中に寒気を覚えた。理由は分からないが、それが何となく危険な物に感じられたからだ。

勇は何故か、その場にいることが居た堪れなくなり、慌てて川岸から離れると、直ぐ近くにある駅に向かった。何かが分かると期待していた訳でもなかったが、むしろ疑問が深まり、返って靄々(もやもや)とした不安感が深まるばかりだった。

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