【05】

その日伊野慧吾(いのけいご)は、警視庁内の執務室で机に向かっていた。

まだ午前11時には少し間があるというのに、室内には蒸せるような熱気が籠っている。もちろんエアコンは正常に作動しているのだが、おそらく室温は30℃近くになっているのだろう。最近では外気温が連日のように35℃を越えているのに加え、伊野の執務室は東側と南側の壁に大きな窓が取ってあるので、真夏になると朝から1日中強烈な陽が差し込む。そのためエアコンの冷却機能がまったく追いついていかないのだ。こんな部屋を充てがったのは、上司の嫌がらせに違いないと伊野は確信していた。室内のエアコンの温度設定は24℃にしているが、まったく追い付いていない。さらに彼は人並み以上の暑がりなので、今日の様に暑い日には無性に腹が立ってしようがなかった。

しかし伊野をここまでヒートアップさせている原因は、単に室内が暑いということだけではなかった。現在都下で頻発している失踪事件の捜査が思うように進んでいないことが主な原因だった。東京都内での失踪事件の件数は直近10年の行方不明者の届出数で見ると、8万人から9万人の間を推移している。つまり1日に平均220から250人が失踪していることになる。それらの行方不明者の95%以上が、所在確認、死亡確認、届出の取り下げのいずれかの形で、後にその所在が明白になるか或いは有耶無耶になっていた。それでも毎年、都内だけで2千人余りが行方知れずのままとなっているのだ。もちろん届出のない不明者の数はこれに含まれない。

しかしこの数週間の間に、江東区管内で連続して発生している失踪事件は、他の事件と比べてかなり異質だった。失踪の原因がまったく分からないのだ。都内で人が行方不明となる原因は統計的に見ると、疾患によるもの、つまり認知症高齢者の失踪等が最も多く、家族関係と事業・仕事関係がそれに次いでいる。しかし江東区管内で報告されている直近数週間の失踪者のうち、10人以上がこれらのいずれにも該当していなかった。もちろん本人にしか分からない理由で、周囲との関係を断ち切りたいと考える人間は存在する。そしてその手段として失踪を選択することは十分にあり得ることだった。伊野もそのことは理解している。しかし今回のように江東区内の比較的狭い範囲で、その様なケースが連続して発生した場合は、やはり被害者たちが何らかの事件に巻き込まれた可能性が疑われる。尤も、普段であれば他の行方不明者の中に埋もれていてもおかしくない程度の数だった。

最初に異常に気付いたのは、本庁の情報管理課勤務の警官だった。彼女は定期的に各種事故・事件のデータを解析し統計データを作成する担当者だったのだが、江東区管内で届出のあった行方不明者の発生頻度や地域、背景情報にある種の偏りがあることに気づいた。その中には数年前に警視庁を定年退職した警官も含まれていた。

情報管理課の課長経由で上がって来たその報告が、伊野のセンサーに引っかかったのだった。伊野は担当者を呼んで詳細を報告させた。彼女によると、江東区管内で過去三か月の間に届出のあった行方不明者の中で、ある種の共通項が認められる集団があるということだった。その共通項は年齢、性別、職業などではなく、失踪動機が不明であることや、帰宅時などに突然失踪している状況が類似しているということであった。さらに該当する事案が少しばらつきはあるものの、荒川近辺から西方向に向かって経時的に発生していると考えられた。

報告を聞いた伊野は、該当する行方不明者の捜査を深川、城東の両警察署に指示した。指示を受けた両警察署では、失踪者が何らかの事件に巻き込まれた可能性を含めて捜索を開始したが、その進捗は捗々(はかばか)しくなかった。類似の失踪事件がその後も連続で発生したことと、捜査の人員が決定的に不足していたことが原因だった。ただでさえ日々の事件数が多い東京で、いくら事件性があるとは言え、失踪者の捜索に回せる人員は非常に限られている。その限られた数の人員で徐々に増えていく失踪者を追わなければならないのだから、現場の捜査員の苦労は並大抵ではなかった。結局いずれの失踪者についても、これといった成果が得られないまま徒に時間だけが過ぎていたのだった。普段であれば、そのまま他の行方不明者の中に埋もれて、通常の失踪案件として終息していたかも知れない。

しかしSNSへのある投稿を契機にして、事態は一変することとなった。それは深川署の捜査員が事情を聞いた、一人の失踪者の知人らしき人物が投稿したものだったようだ。その内容は、今日刑事に事情を聴かれた――といった程度の他愛のないものだったのだが、その投稿に対して、自分も同じように事情を聴かれたというフォローが相次いだのだ。それらの投稿は江東区内で謎の失踪事件が続発しているという、かなり核心を突いたものへと発展し、やがて<江東区連続失踪事件捜査本部>などという、伊野たちからすれば噴飯物の名称のまとめサイトが立ち上がるまでになった。やがてそのサイト内では、有象無象による根拠も信憑性もない各種の妄説が提唱され、互いを非難・否定・中傷しながらヒートアップして行ったのだった。やれ某国による集団拉致だの、カルト教団による誘拐洗脳だの、宇宙人によるアブダクションだの、挙句の果てには江東区に異次元に通じる回廊が現れたなどというSFじみた説まで登場した。そしてそれらの中には悪巫山戯(わるふざけ)としか考えられない、荒唐無稽な目撃談まで添えられていたのだ。

――グレーの作業着姿の男たちが、白昼堂々黒のワゴン車に人を引きずり込んだ

――白服に白い被り物をした集団に人が囲まれ、連れ去られた

――真夜中に突然目が眩むような光が射して、目の前を歩いてた人を連れ去った

――歩道の脇から突然水の様なものが噴き出して、それに包まれた人が消滅した

中には明らかに合成と思われる証拠写真まで添付されていたのだから、暇人の遊びにしても手が込んでいると言わざるを得なかった。捜査員たちは、当然のことながらその様な妄説を取り上げることはなかった。しかしその一方で捜査員たちが聞き込みをすることによって、返ってサイト内の議論を助長しかねない懸念が示され、著しく捜査に支障をきたすという皮肉な現象が起こってしまったのだ。そしてそのサイトの噂は遂にマスコミの知るところとなり、間髪置かず過激な取材競争が開始されたのだった。

テレビのワイドショーでは連日のように失踪事件の特集が組まれ、著しく信憑性に欠ける証言であろうと、お構いなしに取り上げられた。それに評論家や専門家を名乗る人物が尤もらしい論評を加える。更にその論評に対して、コメンテーターと呼ばれる有名人たちが、視聴者の期待に応えようとして必死でコメントを絞り出し上乗せする。そんな情景が毎日のようにテレビの中で繰り返され、ありとあらゆる情報が世間に向かって垂れ流されるようになったのだ。そしてその混沌とした状況の行きついた先は、お決まりの警察批判だった。

伊野はそのような批判は鼻で笑って無視を決め込んでいたが、警視庁の上層部ではそうはいかなかったらしい。支持率下降中の政権与党からのプレッシャーもそれに加わって、現場への締め付けは日々厳しくなる一途だった。伊野は昨日も上司の草薙警視監に呼ばれ、すみやかに事態の収拾すなわち事件の解決を命じられたばかりだ。

――言うだけなら簡単だわな。

彼は上司の命令に、心の中でそう毒づいた。一方でそう命じた上司ですら、この事件がそう容易く解決するとは露ほども考えてはいないのだろうとも思った。曖昧模糊という表現がぴったりと当てはまる難事件だからだ。

警察官としての伊野の階級は警視長、役職は警視庁刑事部参事官である。警視長という階級の上位には警視総監と警視監の2階級しかないのだから、相当の高位と言えるだろう。それでも警察組織という堅牢な縦社会の中では、上位者からの命令は絶対に近い。それは伊野の反骨精神と馬力をもってしても、容易に崩せるものではなかった。組織の中で15年近く生きてきた伊野は、そのことを十分すぎる程理解していたが、その一方で組織の論理というものの下らなさや息苦しさに心底辟易としていたのだ。そして自分がその様な組織の論理に嫌が上でも従わざるを得ない時があることが、彼の怒りを一層煽り立てているのだった。

加えてこの日は彼にとって物凄く憂鬱な面会の約束があり、彼の怒りは一層ヒートアップしていた。面談の相手は、内閣官房の大蝶斉天(おうちょうなりたか)という男だった。<天に斉(ひと)しい>などという馬鹿馬鹿しいくらい大仰な名前を持つその男とは、大学の同窓である。同じく同窓で陸上自衛隊に所属する志賀武史(しがたけふみ)と3人で、周囲からは<猪鹿蝶トリオ>などと呼ばれ、はっきりと言えば敬遠されていた。トリオ名の由来はもちろん、彼らの名字の語呂合わせだ。

東京大学という日本の最高学府に所属する、極めて優秀かつ純朴な学生たちの中で、伊野達三人は疑い様もない不純物だった。しかも極めて毒性の強い不純物だ。

それぞれの生き方の方向性の違いはあるにしても、彼らはいずれ劣らぬ強烈な個性を持った異端者であった。三人それぞれが自分の好き勝手に振る舞い、周囲の迷惑など委細構わない連中だったのだ。そういう連中が周囲から完全に分離して浮き上がってしまうのは、当然と言うよりも必然だっただろう。その三人が互いに引き寄せあって徒党を組んだのだから、その結果は火を見るより明らかだった。つまり周囲の学生や教職員からは、可能な限り関わってはいけない奴らとして、恐れられつつも疎んじられることになったのだ。しかし伊野たち三人はそのことに痛痒も感じていなかったし、周囲の迷惑など一向に気にすることもなかった。それぞれが自分勝手な方法で充実した学生時代を謳歌し、国家公務員上級試験に合格すると、何の支障もなく卒業していった。そして彼らが卒業した後、それぞれが所属する学部の教官たちが集まって、大規模な祝賀会が催されたという都市伝説が残されたのだった。


***

三人のうち伊野は、卒業後の進路として警視庁を選択した。動機はもちろん社会正義のためとか、社会秩序を守るためとかいうような崇高なものではなく、事務官僚は性に合わないという至極単純なものだった。警察庁ではなく警視庁を選んだのも、東京が一番犯罪の多い都市であるという単純明快な理由だった。伊野は喧嘩好きの<猪鹿蝶トリオ>の中でも特に争いごとが好きで、学生時代には三人の中で周囲の学生から最も恐れられていた存在だった。その凶暴な性格から、彼が警視庁を志向した理由は、犯罪者を相手に喧嘩三昧に明け暮れたいだけだろう――という周囲の憶測も、あながち的外れではないのかも知れない。

入庁後10年を経ずに現在の役職に就いた伊野は、すぐさま卓抜な捜査指揮能力を発揮し始めることになる。彼の洞察力と直観力は超人的で、難解な事件であっても、その本質を瞬間的に見抜く力を持っていた。そしてその本質に向かって、立ちはだかる内外の障壁をことごとく打ち砕きながら、合法的に利用可能なあらゆる手段を駆使して捜査を推し進めて行ったのだ。その結果彼は、警視庁の凶悪犯罪検挙率を見る見るうちに押し上げていった。しかしその一方で、上層部の意向をしばしば無視する彼の捜査手法が、警視庁幹部たちの憤懣と憂鬱の種となっていることも事実らしい。

志賀は大学卒業後に一旦当時の防衛庁に入庁した。しかし掛け値なしの軍事オタクだったこの男は、入庁して3年も経たないうちに、「戦争の醍醐味は地上戦に尽きる」などとほざくや、さっさと陸上自衛隊関東方面隊を希望して鞍替えしてしまい、そのまま現在に至っている。それならば最初から自衛隊に入隊するか、防衛大学にでも入ればよかったと思うのだが、そこは何か事情があったらしい。

志賀は人並み外れた偉丈夫で、身長は優に190㎝を超え、体重も100㎏に達する見事な体格の持ち主だった。その上身体能力が図抜けて高く、アスリートとしても大成していたかも知れない程の男だった。志賀の転属は尉官級での入隊であったため、通常はおざなりで済むような基礎訓練も、この男に限っては水を得た魚のように喜び勇んでホイホイこなしてしまったそうだ。挙句の果てには追加の訓練をさせろと迫って、担当の指導教官を呆れさせたらしい。この男も生まれた時代を間違えた口だろう。戦国時代にでも生まれていれば、歴史に名を残すような武将になっていたかも知れない。

大蝶は大学卒業後に当時の総理府に入省し、現在は内閣官房に所属している。伊野や志賀の目から見ても、完全に破綻していると思われるその人格や、冷酷極まりない性格を脇におくと、彼はおそろしく業務処理能力に長けた男だった。ありとあらゆる事案を片端から処理していく能力は、内閣官房を始めとする数多の官僚の中でも傑出しているという噂だ。それを耳にした伊野が本人にその秘訣を問うと、

「あらゆる人間的なしがらみや感情的な思考をすべて断ち切り、物事の処理だけに集中しさえすれば誰にでも出来ることだよ、伊野君」

と高らかに宣言されてしまった。世が世なら、見事な酷吏になっていただろうと伊野は思っている。今朝の伊野の不機嫌さの主な原因は暑さだけでなく、今日その大蝶が訪れることだった。しかも大蝶の用件というのが、どうやら一連の失踪事件絡みらしい。

――どうせ碌でもない話なんだろうな。

そう思いながらデスクワークを続けていると、内線の着信音が鳴った。受話器を取ると、「内閣官房の方がお見えです」という、少し緊張の混じった声が聞こえてくる。

――何をビビってやがるんだ?

伊野は一瞬苛立ったが、「通せ」と短く言って受話器を置いた。5分程待っていると執務室のドアをノックする音が聞こえ、続けて恐る恐るという感じでドアが開いた。ドアの隙間から受付の警官らしい制服姿の男が顔を覗かせる。妙におどおどしたその態度にまた苛立ちを覚えたが、そこは我慢して顎で客の入室を促す。そもそも警官たちが怯えているのは、来客に対してではなく伊野に対してなのだ。警官がぎこちない仕草でドアを開けると、大蝶に続いてスーツ姿の男女が入室して来た。伊野は席を立ちもせず、三人の訪問者に応接用のソファを勧めた。すると大蝶は笑みを浮かべながら三人掛けのソファの真ん中に腰を下ろし、後の2人はソファの後ろに立った。伊野は席を立ち大蝶の向かい側に座ったが、二人は立ったままだ。

「立ちっぱなしだと目障りだから、座ったらどうだ?」

事情をうすうす察しつつも、伊野は二人に言った。

「いいよ。僕と並んで座るなんて10年早い」

すかさず大蝶が、二人を振り向きもせずに返す。

「お前の新しい子分かい?運が悪かったな。こいつの下に付けられるなんてよ」

伊野は思わず苦笑し、大蝶と二人を交互に見ながら言った。その言葉にも二人は表情すら動かさない。なかなか教育が行き届いているようだ。大蝶の方はというと、無言で笑みを浮かべているだけだった。

「で?今日は大蝶分析官自ら、何の用でお出ましなんだ?」

伊野はいかにも迷惑そうに言うと、ソファに踏ん反り返った。

「今日葛西議員が、官房長官を訪ねて来てね」

大蝶は伊野のその様子を気にもかけず、唐突にそう切り出した。

「葛西?あの与党の派閥のボスの葛西か?そいつがどうした?」

仏頂面で訊く伊野に、大蝶は表情を微笑から苦笑に切り替えて答えた。

「どうも今回の失踪者の一人が、彼の派閥議員の姪らしいんだよ。それで今回の事件は、もはや重大な治安問題と言ってもいいくらいだから、いつまでも警視庁任せにせず、内閣官房でも何か対策を考えろ――とねじ込んで帰ったらしい。まったく迷惑な話だよ」

「けっ、そういう図式かよ。俺も昨日、警視監に呼ばれてネジ巻かれたよ。そっちにもプレッシャーがかかったというわけか。呑み込めたぜ。何が治安問題だよ、まったく」

伊野は心底うんざりしたように言う。

「まあそんなに渋い顔しなさんな。その後官房長官に呼ばれて、こっちもとばっちりだったんだよ。状況を整理して報告しろとさ。そういう訳で今日来たんだけどね。状況はどうなんだい?マスコミが垂れ流している情報以外でさ」

大蝶が馴れ馴れしい口調で言うと、伊野は投げやりに答えた。

「残念ながら、こっちの情報もマスコミ連中と大差ないな」

一瞬二人の間に微妙な沈黙が流れたが、それを破るように大蝶が言った。

「まあ、付き合いも長いことだし、お互い腹の探り合いは止そうか」

伊野がその言葉に無言で顎を上げると、大蝶はそれを了承の合図と受け取って続けた。

「情報交換と行こう。こっちはこっちで、あれこれ調べて分析した情報があるんだよ。それを開示するから、君の情報もこっちもらえると有難いんだけどね。どう?」

「調べた情報だって?ああそうか。お前んとこには、公安やら察庁から出向してる奴等がいるんだったな。そいつらから情報を強請り取ったということか。成程」

「強請りとは人聞きが悪いね。元同僚の誼で提供してもらったのさ」

「何が提供だよ。大方そいつらの弱みでも握って、脅したんだろうがよ」

「まあ、その辺りは見解の相違ということで。ところでこっちの情報だけどね」

そう言って大蝶は、無理矢理話題を引き戻す。

「警視庁の方では地道に失踪者の足取り調査とか、周辺情報とか調べてると思ってね。重複しても無駄だから、この二人に<江東区>と<失踪事件>のキーワードで引っかかる情報をネットサーフィンさせたんだよ」

「は!それはご苦労なこったな。ネットのゴミ情報を漁ったってわけか」

「そうそう、ほとんどゴミだったよ。集団拉致とかアブダクションとか、暇を持て余してる奴が多くて笑っちゃうよね。世の中平和だよ。それで、その手の情報を手当たり次第に集めて、この二人に整理させてみたんだよね」

「大変だな、お前ら」

伊野の言葉にも、大蝶の背後の2人は無表情のままだ。

「すると、一つだけ他と違うカテゴリーが浮かび上がって来てね」

大蝶は構わず続ける。

「何だい、そりゃ?」

「集団拉致だのUFOだのの書き込みは、まあ全部付和雷同の悪巫山戯(わるふざけ)だった。誰かが言い出したことに我も我もと追随して、どんどん話をエスカレートさせていくパターンの遊びね。ところが、水とか水の音とか噴水とか、そういう類の書き込みは少数派なんだけど、悪巫山戯の割合が極端に少なかったんだよ」

伊野は、それで?――という顔をした。興味が湧いたらしい。

「今分かっている限りでは、連続失踪事件は荒川近辺から始まってたよね?確か中島茂という名前の定年警官」

「よく調べやがったな。ああ察庁関係か。口の軽い野郎だな、まったく」

「まあ、そこは置いといて。その事件を発端に、失踪現場が西に向かっているということは、警視庁でも把握してると思うんだけど。そこで引っかかるのが、水というキーワードなんだよ」

「何でだよ?」

「一連の事件は荒川を皮切りに、運河や水路沿いで発生している場合が多い。勿論そうじゃない場所でも起こってるんだが」

伊野は無言で先を促す。

「そうじゃない場所についても調べたんだけど、その場合は大きめの下水道近辺の場所が殆どだったんだよ」

「つまり何か?一連の失踪者は全員、荒川だか運河だか下水道だかに落ちて溺れたということか?そりゃあいくら何でも飛躍し過ぎだろう。溺死なら遺体も上がるだろうし、そもそも何人も続けて水に落ちることなんてあるかよ」

しかしその言葉とは裏腹に、伊野にも何か引っかかったようだ。

「もちろん転落事故だとは思ってないよ」

「じゃあ、江東区に突然河童でも出て来て、あちこちで人間を引きずり込んでるとでも言うのか?」

「河童とは言わないけど、その線はあるんじゃないかと思うよ。それにしても、こんな話をしたら、いつもなら怒り出すはずの伊野君が大人しくしてるということは、何か思い当たる節があると考えていいのかな?」

大蝶はそう言いながら伊野を覗きこんだ。伊野は、「ふん」と鼻を鳴らして一度横を向いたが、諦めたように大蝶に顔を戻し話し始めた。

「ああ、こっちでも運河に転落したらしいという情報は入ってる。一人だがな。城東署の刑事がホームレスから拾ってきた情報だ。その爺さんが言うには、運河沿いの公園で寝てたら、突然大きな噴水みたいな音がしたらしい。それでそっちを見たら、運河から水が噴き出してきて通行人を飲み込んだんだとよ。その証言を聞いた刑事は、水に飲みこまれたんじゃなくて、落ちた拍子に水柱が上がったんじゃないかと思ったらしい。まあ、常識的な判断だな。だが爺さんは、頑として水に飲みこまれたと言い張ってるようだ」

「その運河の近辺で水死体は?」

「出てないな。だから刑事たちの見方は、爺さんの見間違いじゃないかという線に落ち着いているがな」

「伊野君の意見はどうなんだい?」

「正直分からん。だがお前の言う様に、今回の事件が運河や用水路近辺で多く発生しているのには引っ掛かってたのは確かだ。下水道までは考えてなかったけどな」

「成程、さすが伊野君だね」

「気色悪いから止めろ。で?俺から出せる情報はこの程度だが、お前官房長官に何て報告するつもりなんだ?まさか犯人は河童でしたなんて言えねえだろ」

「まあそこは適当に誤魔化しとくよ。それよりも僕から一つ提案があるんだけどね」

伊野は大蝶の顔に浮かんだ笑みを見て、嫌な予感を押さえられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る