【06】

蘆田光(あしだひかる)はF幼稚園を出て5分ほど歩いたところで立ち止まると、来た道を振り返った。10mほど後で道路の端に立ち止まり、おどおどとした態度でこちらを覗っている男がいる。その男を見た光は深いため息をついた。いつものように無視して帰ろうかとも思ったが、今日はあいにく灰野優子(すみのゆうこ)の件でかなり気が立っている。相手にとっては運が悪かったと言えるだろう。

光が手招きすると、男は意外そうな表情を浮かべたが、光が笑みを浮かべながら再度手招きしたので、おそるおそる近寄って来た。そして男が至近距離まで来た瞬間、光の回し蹴りが左上腕部に炸裂する。たまらずよろけて路上に尻餅をついた男を、

「てめえ!いい加減に人を付け回すのは、止めろっつてんだろうが!!」

と、光は上から睨みつけて恫喝する。

この男は本人の自己申告によると沢渡裕(さわたりゆたか)という名で、1年ほど前から帰宅する光の後を時折ついてくるようになった、いわゆる<ストーカー>である。ある日自分をつけてくる沢渡に気づいた光は、自分から男に近づくと、いきなり胸ぐらをつかんで締め上げた。日々剣道の鍛錬に励んでいる<武闘派幼稚園教諭>蘆田光にとって、男とは言え小柄で華奢な沢渡など物の数ではなかった。

締め上げられた沢渡は、自分はストーカーなどではなく、光のファンである。夜道の一人歩きは危ないと思って警護しているのだ――という趣旨の言い訳を、必死の形相でまくし立てた。その言葉に呆れた光は、

「あたしより弱いくせに何の警護だよ!」

と再び沢渡を怒鳴りつけると、足払いを掛けてその場に転がし、臀部に一発とどめの蹴りを見舞った。そして、

「二度とついて来るんじゃねえぞ!」

と捨て台詞を残して、その場を立ち去ったのだ。しかしこのひ弱なストーカーは、それから一時姿を見せなかったものの、ほとぼりが冷めた頃には、再び性懲りもなく光の後をつけてくるようになった。最初の頃は光もむきになって追いかけ、捕まえようとした。しかし一度光に締め上げられた沢渡は、再び捕まるのを警戒したらしく、以前より少し距離をおいて後をつけてくるようになっていた。その上この男は、思いの外すばしっこかったので、光はそれ以後、沢渡を捕まえられなくなってしまったのだ。

そうこうするうちに、この男がただ後ろをついて来るだけで、目につくと鬱陶しい以外には大して実害のない存在であることに気づき、光は放置することに決めた。警察に通報するという考えは、光の頭をかすめもしなかった。そして最近ではその姿を見慣れてしまい、沢渡が付いて来ていても、ほとんど気にならなくなっていたのだった。

しかしこの日は、たまたま目についた姿が光の癇に障った。優子の件で頭に血が上っていたからだ。そこで沢渡を呼びつけて、蹴りをお見舞いしたという訳だ。沢渡の方も、近頃光に追いかけられることがなくなったので、かなり油断していたようだった。その結果まんまと光の誘いにのって、八つ当たりの一撃を喰う羽目になったのだ。

しかしおそらくこの男は全く懲りていない。その証拠に、路上に転がされて次の一撃に怯えながらも、光を見上げるその顔は何となく嬉しそうだったからだ。その顔を見た光は急速に気持ちが萎え、「ふう」と一つ大きく溜息をついた。そして道に転がったストーカー男に一瞥をくれると、踵を返して早足で歩き去る。後ろで沢渡があたふたと立ち上がる気配がしたが、あえて無視した。

5分ほどでマンションについた光は、これもいつものことだが、エレベーターを使わずに自室のある5階まで一気に階段を駆け上がった。自室の前に立った時にはさすがに息が弾んでいたが、その代わり先ほどまでの靄々(もやもや)とした気分は少し解消していた。そういう点で光のメンタルは、至極単純に出来上がっていると言える。

部屋に入ると奥のリビングから、「お帰り」という声がした。同居人の篠崎渚(しのざきなぎさ)はすでに帰宅しているらしい。渚は短大時代の同級生で、光にとっては数少ない友人の一人、そして渚にとっては、光が東京で唯一と言ってよい友人だった。二人ともそれぞれの理由で人間関係の構築が得意でなかったのだが、どういう訳か互いに気が合い、以来8年以上の付き合いが続いている。気が合うというよりも、一緒にいても互い面倒ではないというのが主な理由だったのかも知れない。

短大卒業後、光は今のF幼稚園に就職し、渚は身軽さを望んで派遣社員として働くようになった。その際に光は、職場であるF幼稚園への徒歩圏内という、唯一の条件で部屋を物色していたのだが、賃貸料がネックとなって中々決まらなかった。そこで同じように部屋を探していた渚が提案した、家賃及び水道光熱費折半でのシェアハウスという選択肢に一も二もなく飛びついたのだ。新築の2LDKの部屋に、ワンルームマンション並みの家賃で住めるのだから、光は今の状況が結構気に入っている。何より勤務先のF幼稚園まで徒歩で10分、走って5分という立地条件が、人込み嫌いで寝坊助の彼女にとっては、何物にも代えがたい好条件だったのだ。

光は玄関に上がると、「ただいま」とリビングに向かって一声掛け、玄関脇にある自分専用の6畳の洋室で手早く部屋着に着替えた。そして共有スペースのリビングの扉を開くと、予想通りクーラーをガンガンに効かせた室内で渚が缶ビールを飲みながらテレビを見ていた。北海道出身の渚は暑さが大の苦手で、よくこれで風邪をひかないなと思うくらい室温を下げる。同居して光が唯一困った点がこれだった。同居1年目の夏に、光はそのことで渚にクレームを入れたが、

「寒いのは服を着込めば凌げるが、暑いのは服を脱いで凌ぐにしても限度がある」

という、解ったような解らないような屁理屈で言い込められて以来、諦めてしまった。同じことを繰り返し言い募るのは光の性格に合わない。それに光も、渚ほどではないにしろ結構暑がりではあったからだ。

リビングに入った光に渚は、

「今日は遅かったね。先にやってるよ」

と言って、手にしたビール缶をひょいと持ち上げる。こいつの場合、そのオッサンぽい仕草が妙に堂に入っているから不思議だ。テーブルの上にはコンビニで買って来たらしい食べ物がいくつか並んでいた。

「あんたの分も冷蔵庫に入ってるよ」

と渚は言った。この辺り、こいつは結構気の利く奴だ――と光は常々感心している。冷蔵庫から自分の分らしい食料と缶ビールを取り出すと光もテーブルに着いた。暑い中を歩いて来たので喉が乾いていたのだ。350ml缶のプルトップを開けてビールを流し込むと、炭酸飲料の爽快さが喉に染み渡る。光は思わず、「プハー」とやってしまった。すかさず渚が、

「相変わらずのオッサンぶりですなあ」

と、にやにや笑いながら茶々を入れてくる。

「あんたにだけは言われたくねえわ」

と光も返す。二人の間のやり取りはいつもこんな風だった。

渚はこうして部屋の中にいる時は物凄くオッサンくさいのだが、同性の光から見てもかなり見てくれのいい女だ。身長も光と同様、女子としてはかなり高い方である。しかもスリムで足が長い、モデルのような体形をしている。顔は丸顔で目が大きく、小ぶりな鼻や口と相まって、街を歩いているとパッと人目を惹くような美形である。髪の長さはようやく項(うなじ)に掛かるくらいのショートなのだが、これがまたよく似合っている。しかしショートヘアにしているのはファッションではなく、単にロングだと乾かすのに時間がかかるという至極単純な理由らしい。つまり極端に面倒くさがりの性格なのだ。その点は光と共通しているが、渚の場合は程度が度外れている。

そして渚は一見華奢に見えるが、実はフルコンタクト系、所謂(いわゆる)<実戦空手>の有段者だった。しかも男相手でも引けを取らないくらいの腕前らしい。面倒くさがりの癖に道場だけは今でも必ず週に2回通っており、日々のトレーニングも欠かさない。

通勤電車で痴漢に遭い、

「問答無用で股間を蹴り上げて悶絶させてやった」

と、嬉々として語る自慢話もこれまでに何度か聞いたことがある。そういう武闘派のところもまた、光と同じだった。つまり似た者同士という訳だ。相手もそう思っているのかも知れないが、光にとって渚は一緒にいてほとんど気を使わなくてよい、ある意味ベストパートナーではあるのだ。でなければ人間関係についてある意味臆病な光が、シェアハウスなどするはずもない。多分それは渚も同じなのだろう。何しろ光以上に人づき合いが億劫な奴なのだから。

――よく会社員をやっていられるな。

光は渚を見て時々思う。以前そういう趣旨のことを渚に言うと、

「あんたと違って、あたしゃ大人だからね」

と、にべもない答えが返って来た。とにかく口の減らない奴でもある。

「それより何かあったん?いつもより表情暗いよ」

渚に言われて我に返った光は、口に含んだばかりのビールを吹きそうになった。幼稚園のことなので、渚に気取られまいとできるだけポーカーフェイスを装ったつもりだったのに、まったく通用しない。渚は、ちょっと怖くなるくらい観察力があるのだ。その凄さは、これまで付き合って来た8年間の間に嫌というほど見てきた。誰もそんなことに気づかんだろうというようなことを、渚は当たり前のように見て覚えている。ある意味便利なところもある一方で、結構こいつやばいな――と思わなくもない。もっとも渚に言わせると、光は超人的に勘が鋭いらしいのだが。

光は缶に半分ほど残ったビールを一気に飲み干すと、先日灰野優子(すみのゆうこ)から聞いた話や、当人がその日を境に消息不明になったこと、今日そのことで警察が幼稚園にやって来て、優子のことを根掘り葉掘り訊いていったことなどを、ぽつぽつと話した。渚はその話を、終いまで黙って聞いていた。そして、

「それで、その優子って子の話を聞いた日に、やっぱ一緒に家まで行くべきだったとか後悔してるわけだ。あんたらしいっちゃ、あんたらしいけど、それって意味なくねえ?」

と、身も蓋もないご意見をド直球で投げつけて来る。思わずカッとなった光は、

「何で意味ないんだよ」

と少し喧嘩腰で返す。しかし渚からは、またも剛速球が返って来た。

「幼稚園児の送り迎えじゃないんだから、いい大人の付き添いなんて毎日してらんないでしょうが?あんたも暇持て余してるわけじゃないんだし。仮にその日一緒に帰って、その場所を通らなくたって、その子別の日に絶対行ってたよ。そういう意味では、早いか遅いかの問題だったんじゃねえの?それに、その優子って子が、その日も同じ場所を通ったかどうか分かんないでしょう?違う場所通ってて、何かに巻き込まれたかも知んねえし」

「何かにって、どういうことよ?」

「だからさ。あんたが優子って子から聞いた話自体が、全然分からない話じゃん。その、後ろを歩いてて消えた人ってのが、本当に消えたかどうかも分からんのでしょうが?」

「まあ、そうだけど」

「だったら、優子ちゃんは別の事情で行方不明になったかも知んない訳だ。それをあんたが、うじうじと悩んだって仕方ないって。それに、そんだけ近所で何人も行方不明になってるんだったら、警察も真剣に探してんじゃねえの?現にあんたの幼稚園に、何だっけ?そうそう、事情聴取とかに来たんでしょ?」

渚の問いに光は曖昧に頷いた。

「それであんた、警察にそのこと言ったん?後歩いてた人が急に消えたって話」

「うん、一応優子から聞いた話は言っといたけど」

「それで警察は何て言ってた?」

「何てって。その、何て言うんだっけ?そうそう、何か怪訝そうな顔してたけど。一応手帳にはメモってた」

「それって信じてねえな。多分」

「確かにそんな気もするな」

「あんたはどう思ってるの?その、優子ちゃんの話」

「どうってまあ、人間が急に消えるなんて、ちょっと考えられんけど。でもあの子、嘘つく子じゃないし…」

「見間違いってこともあるんじゃねえ?」

「それはあたしも考えたけど。優子の話って、妙にリアルだったんだよね」

「リアルねえ。あたしが直接聞いたわけじゃねえから、何とも言えんが。でも、一つだけ確実なことがある」

渚が断定的な口調でそう言ったので、光は思わず身を乗り出した。

「あたしやあんたの頭でいくら考えたって、分かるわきゃねえっとこと」

「はあ?それが結論かよ?」

渚は、何か文句あるか――という表情で、手にしたビールを一口飲んだ。そして、

「だから悩むだけ時間の無駄だって。後は警察に任せるっきゃないでしょ」

と一方的に話に蹴りをつける。そして、

「それよりあんた、そんなことで腹立てとったん?」

と強引に話題を転換した。

「あたしが腹立ててた?何でそんなこと分かるのよ?」

渚がいきなり図星を点いてきたので、光は少しおたおたしながら返した。

「だってあんた、ここに入って来た時、怒りの余韻を顔に湛えていたじゃん。あれは光先生が怒った後に、少し冷めた時の顔だったな。うん」

「相変わらずキモい奴!何でそんなことまで分かるんだよ?」

実際怖くなるくらいの観察力だ。しかし渚は、

「この世に蘆田光ほど分かりやすい奴はいない。あんたの場合、全部顔に書いてあるの。で、何があったか白状してみ」

と言って、興味津々の顔を光に近づける。渚の答えに光は少しむかっ腹を立てて言い返そうとしたが、すぐに諦めた。こいつには何を言っても言い負かされるのが落ちだ。そして幼稚園からの帰りにストーカーの沢渡を見かけ、一発喰らわせてやったことを話した。それを聞いた渚が、

「ギャー!ストーカー君。名前何だっけ?そうそう沢渡だ。あいつ、あんたにまだ付きまとってんの?物好きにも程があるな」

と馬鹿受けしたので、さすがに光も言い返した。

「何が物好きなわけ?こっちはいい迷惑なんだけど!」

「だってあんた、何かっつうと木刀振り回す、暴力女に付きまとう奴の気が知れん」

「誰が暴力女だって?あ・ん・たにだけは言われたくないわ!今まで何人痴漢の股ぐら蹴り飛ばして来たのかな?渚さんは!」

「あれは正当防衛。大体、許可なくあたしに触ってくる奴が悪い」

駄目だ、こいつには何言っても、言い負かされるだけだった。光は言い返すのは諦めたが、その一方で、どうやら渚に遠回しに慰められていたらしいことに気がついた。実際渚に話したことで、少し靄々した気分は晴れていたからだ。

――思いっきり遠回しだけどね。

そう思いながらも、まだ何か釈然としない嫌な気分が、光の心の底にわだかまっていた。それは灰野優子が失踪した日に、久々に例の頭痛があったせいかも知れない。あれ以来頭痛は起きていないが、何か良くないことが周りで起こりそうな、そんな焦燥感に似た感情がいつまでも消えずに残っている。まさかそれが17年前に自宅のベランダから見た、あの夜の光球に関わりがあるとは、光に分かる筈もなかった。

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