【19】

村崎貴之は炎天下のビル街で、呆然と立ち尽くしていた。

自分の妻と息子が正体不明の水流に襲われる映像を見た彼は、勤務先の国立感染症研究所を飛び出して自宅に戻ろうとした。しかしその時には、東京メトロを含む全ての鉄道路線が停止していて、研究所の最寄り駅周辺は行き場を失った人でごった返していたのだ。

村崎は近くに停車していたタクシーの運転手に事情を話して、何とか乗車することは出来たのだが、途中から道路が大渋滞していたため、結局東京駅付近でタクシーを降りざるを得なかった。その後は炎天下のビル街を歩き続け、漸く霊岸橋の手前までたどり着いたのだが、警察による非常線が張られていて、そこから先に進むことが出来なかったのだ。橋は警察の大型車両で封鎖されていて、その前には重装備の機動隊員たちが横一列で整列している。何とか通してもらえないかと思い橋に近づいて見たが、橋に行きつくまでに制服警官に停められ、そのまま追い返されてしまった。

途中まで乗ったタクシーの中で、スマートフォンのニュース映像をチェックしてみたが、江東区内全域で異常事態が発生しているという、漠然とした状況しか分からなかった。タクシーの運転手もラジオで聴いた以上の情報を持っていなかったので、村崎の焦燥は高まるばかりだった。彼が今立っている場所の少し先には、マスコミ各社の中継車が路上に陣取り、関係者らしい人々が慌ただしく行き交っていた。レポーターらしい姿があちこちで見られ、カメラに向かって何か中継を行っているようだ。

村崎はこの先どう行動すべきか判断出来ず、途方に暮れてしまった。その時スマートフォンの着信音が鳴った。着信画面を見ると、研究所の上司からだった。電話に出るのが億劫だったので、一瞬取らずにおこうかと迷ったが、そういう訳にもいかないと思い直して電話を取る。すると上司の樺島(かばしま)の早口で甲高い声が、いきなり電話越しに響いて来た。

「良かった。繋がった。村崎君、今どこにいるの?」

「すみません。今茅場町近辺にいます。家に帰ろうと思ったんですが、霊岸橋の手前で足止めを食ってしまって…」

「茅場町?ああ、そうか。村崎君、江東区だったね。ああ、そうか。それで家に帰ろうと。成程」

そこで樺島の声が途切れたのは、村崎の事情が漸く呑み込めたからだろう。数秒の沈黙の後、再度樺島の声が聞こえて来た。

「村崎君、大変なところ申し訳ないんだけど、これから直ぐに警視庁まで行ってもらえないかな?」

「警視庁ですか?」

「うん、そう。警視庁に対策本部、もちろん今回のあれに対するだけど。その対策本部が出来ていて、君に手伝って欲しいということなんだけど」

「対策、本部ですか…。申し訳ないんですけど、今は…」

「事情は分かるんだけど、そこを押して何とか行ってもらえないかなあ。今は江東区内に入れないし、それに対策本部にいた方が情報は入りやすいと思うんだけど」

人の好い上司は、本当に申し訳なさそうな口調で言った。村崎は少し考えたが、確かに対策本部とやらにいた方が正確な情報が得られやすいと思い直した。

「分かりました。でも、警視庁まではどうやって行ったらいいんでしょう?電車は全部止まってますし、タクシーも走ってないようです」

「ああ、今茅場町のどの辺りにいるの?」

「霊岸橋の手前です」

「だったら、こちらから警察に電話して迎えに行ってもらうよ。少しそこで待っててくれる?それからええと、目印になる様な建物はないかなあ」

村崎は近くのビルの看板を見て、その名前を樺島に告げた。

「じゃあ、そのビルの前で待ってて。警察に連絡するから」

せっかちな上司の言葉を残して電話は切れた。村崎は一つ溜息をついた。今更ながら暑さが身に染みて来る。何もせずにいると、朝の映像が、打ち消しても、打ち消しても心に浮かんで来る。絵海(えみ)と智也(ともや)が無事でいて欲しいという思いと、それを否定する心の声が相克して、彼の焦燥感を増長させるのだ。

「村崎先生ですか?」

その時背後から声が掛かった。驚いて振り向くと、制服姿の若い警官が立っていた。

「そうですが」

村崎の返事に、その警官は姿勢を正して敬礼した。

「警視庁の者です。これから本庁までお送りしますので」

警官は舗道脇に停めたパトカーを指しながら、きびきびと言った。村崎が黙礼すると、警官は彼を後部座席に乗せ、自分は助手席に滑り込んだ。ドアが閉まるや否や、パトカーは急発進した。そしてその場でUターンすると、サイレンの音を響かせながら永代通りを北西に向かう。警視庁本庁舎までの20分余りの走行中、同乗した警官たちは無言だったが、村崎には返ってその方が有り難かった。何か話し掛けられても、まともに返事をする自信がなかったからだ。パトカーは通行規制の掛かった車道を失踪し、やがて警視庁前に滑り込んだ。

「やあ村崎先生、ご無沙汰しています」

そう言いながら庁舎の入り口で降りた村崎を出迎えたのは、国友遍人(くにともあまね)だった。彼は東京大学の理学部で助教をしている男で、学会などで何度か会話した程度の面識があった。特に嫌いという訳でもなかったが、話し方が卑屈で少し鼻につく程度の印象を持っている。その国友に出迎えられて村崎は少し面食らったが、彼の横に立ったスーツ姿の女性が、

「内閣官房の斯波蘭香(しばらんか)と申します。村崎先生ですね?本部までご案内します」

と、一切の無駄を省いた口調で言ったのを聞き、自分同様、国友も本部に招かれたのだと合点がいった。二人に案内されて向かった会議室には、両開きのドアの横に<植物様物体及び液状物体対策本部付緊急対策室>と大きく書かれた紙が貼られていた。

――植物様物体?

村崎は疑問を覚えつつも、斯波に促されて会議室に入る。室内は空調が利いていて涼しかった。その時になって村崎は、自分がかなり汗臭くなっていることに気がつき、思わず顔を赤らめる。パトカーの警官に、かなり迷惑を掛けたかも知れないと思ったからだ。

会議室の中には、緊張感と慌ただしい雰囲気が充満していた。村崎が少し場違いな感じがして入口付近で立っていると、先程斯波と名乗った政府の役人が、細身の怜悧そうな男を伴って近づいて来た。

「村崎先生、始めまして。内閣情報分析官の大蝶斉天(おうちょうなりたか)と申します。この対策室の責任者をしております」

男は、冷やりとした印象を相手に与える笑みを浮かべながら、そう自己紹介する。そして何か言い掛ける村崎の機先を制するように続けた。

「急にお呼び立てして、さぞかし驚かれたでしょう。ですが微生物学のエキスパートの力がどうしても必要になりまして。この便所虫、いや、国友君の推薦で、急遽先生にお声掛けした次第です」

「ど、どういうことでしょうか?僕はまだ事態が呑み込めていないのですが」

「どの程度の情報をお持ちですか?」

「江東区であの水流の様なものが人間を襲っている――その程度です」

「成程。では現在我々が把握している情報をお伝えします。その上で改めて先生にご協力をお願いしたいのですが」

「協力とはどの様なことでしょうか?先程微生物と仰いましたが、あの水流とどの様な関わりがあるのでしょうか?申し訳ありませんが、私の家族が今、江東区の自宅に取り残されている可能性がありますので、私はどうしても自宅に帰りたいのです」

村崎は絵海と智也が襲われている映像を見たことは、敢えて大蝶に言わなかった。二人がまだ無事でいると信じたいからだ。二人を失ったなどと認めることは絶対に出来ない。

「そうですか。ご家族が。しかし大変残念ですが、現在江東区及びその周辺地域は全面的に立入りが禁止されています。確実にあの<ストリーム>に襲撃されるからです」

「<ストリーム>と言うのは?」

「ああ、失礼。あの水流のことです。海外のニュースで呼ばれている呼称がネット上で定着して、既に一般的になってしまいましたので、我々もそう呼ぶことにしました」

「そうですか。しかしあれは、<ストリーム>というのは、一体何なのですか?」

「それをこれから解明しなければならないのです。先生にもご協力いただいて、可及的速やかにあれの実態を解明し、対策を立てなければなりません」

「果たして僕が役に立つのでしょうか」

「はい。実は先程<ストリーム>のサンプルを回収しました。それをこの便所虫、いや、国友のチームで観察した結果、<ストリーム>の中に多量の微生物が含まれていることが確認されました」

「多量の微生物、ですか…。含まれるということは、<ストリーム>の実体、あの水流それ自体が微生物と言う訳ではないということですね。それでは、あの水流がどこから来ているのか判明しているのでしょうか?」

「現在分かっている状況について、最初からご説明しましょう。本日早朝、江東区内の車道、舗道で広範囲に亘って、地下から突起物が出現しました」

「突起物ですか」

「そうです。その突起物はおそらく、地下で連結していると推測されています。その内部には大量の水と微生物が存在し、突起物の先端部分から噴出して近辺にいる人間を襲撃しているのです」

「襲撃された人はどうなるのでしょうか?」

「消滅します。おそらく<ストリーム>の内部で、瞬間的に分解されるのではないかと思われます」

「そんな」

村崎は絵海と智也が襲撃された映像を思い出し、絶句してしまった。

「残念ながら事実と思われます」

事情を知らない筈の大蝶が、奇しくもそう言って村崎に強い視線を送る。その視線に耐えられず、村崎は目を伏せてしまった。

「現在<ストリーム>の本体があの水流なのか、あるいは突起物の方なのかは分かっていません。只、あの突起物が江東区の木場公園を中心に放射状に広がっていることが、衛星写真で確認されています。そのことから、おそらく突起物の方が主体ではないかと我々は考えています。大変限られた情報ですが、これが現状で我々が把握しているすべてなのです」

そう言って大蝶は、村崎を真正面から見据えた。しかし村崎は、もはや彼の顔を見ていなかった。絵海と智也があの<ストリーム>に飲み込まれてしまい、もはや自分の元には帰らないという受け入れ難い事実と、それを否定しようとする心が、激しい葛藤を生じていたからだ。

「村崎先生、ご協力いただけますか?」

大蝶は無言の村崎に念を押した。村崎は漸く顔を上げ彼を見つめ返した。その表情は眼の奥に狂気を湛え、まるで何かに憑かれてしまったようだった。

「承知しました。出来る限りの協力はさせて頂きます」

「ありがとうございます。では国友に案内させますので、科捜研のラボに行って下さい。そこにサンプルを保管しています」

村崎は無言で肯くと、国友に従って会議室を後にした。その後姿を、大蝶は憐れむような眼で見送った。

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