【17】
蘆田光(あしだひかる)と篠崎渚(しのざきなぎさ)はマンションのエントランスに降りると、外部の様子を慎重に確かめた。こういう時に渚は、超能力レベルの観察力を発揮する。彼女はエントランスから顔をのぞかせて周辺の状況を確認すると、
「取りあえずこの辺りは大丈夫そうだね」
と言って外に出る。光もその後に続いた。そして二人がマンションの玄関を出た途端、「光さん」と背後から声が掛かった。驚いて一斉に振り向くと、建物の間の狭い路地から沢渡裕(さわたりゆたか)が、おどおどとした表情でこちらを見ている。
「てめえ!何でこんな所に!?」
「光さんが心配で、ここで様子を見ていたんです」
路地から出て来た沢渡は、おそるおそる二人に近づいて来た。どうやら光の攻撃を警戒しているらしい。
「アホか、お前は?こんな時に外うろついて何やってんだよ?」
光は呆れた声を出す。
「いや、ですから…」
「お前いつから、ここにいたの?」
沢渡を遮って、今度は渚が口を挿んだ。
「7時過ぎからです。起きてニュースを見たら酷いことになってて。それで光さんが心配で…」
「あたしのこと、馴れ馴れしく<光さん>なんて呼んでんじゃねえよ!」
「この際それはいいから。7時って、お前どこに住んでるの?」
「この先のマンションです」
「は?そんな近所に住んでんのか、お前?誰がそんなこと許可した?」
「だ、誰がって言われても。一応どこに住むかは僕の自由…」
沢渡がそこまで言った時、光の回し蹴りが炸裂し、肩口に喰らった沢渡はよろけて転倒した。
「光さあん」
「まだ言うか、このストーカーは!」
更にヒートアップしそうな光を渚が宥める。
「まあまあ、その辺にしときなよ。これを相手にしてる時間が勿体ない」
すると沢渡は、よろよろと立ち上がりながら訊いた。
「お二人はこれからどこに行くんですか?」
「お前の知ったこっちゃないよ。こっちは忙しいんだ」
「そんなこと言わず、僕も連れて行って下さいよ」
「駄目。お前は自分の部屋に帰って大人しくしてろ。ついて来たら今度は顔面に蹴り入れるぞ」
そう言い捨てると、光は渚を促して歩き去った。取り残された沢渡は、その場で呆然としている。
光と渚は慎重に周囲の状況を確認しながら、F幼稚園に向かった。5分程歩くと、あの水流の出所と思われる突起物が、離れた道路から一定間隔で飛び出しているのが見えた。二人は突起物が飛び出した場所から極力離れた道を選んで進んだので、マンションからF幼稚園まで随分と遠回りをすることになった。幼稚園の園舎が見える場所まで来ると、 正門前の道路から突起物が飛び出しているのが見える。
「あそこ通るのヤバくねえ?」
「裏門の方から回るか」
そう言って光は、渚を先導して道路を迂回し、園舎の裏側に回り込んだ。その近辺には大小のマンションが密集して建っているので、身を隠しながら進むのに適していた。幸い裏門側の道路には突起物が生えていない。光が建物の陰から出ようとすると、渚が後から肩を軽く叩いた。
「何だよ?」
そう言って振り向くと、渚は呆れ顔で後方を指さしている。その方向に目を向けると、沢渡が性懲りもなくついてきているのが見えた。
「あの馬鹿!」
沢渡を睨みつける光に、
「放っとけよ。あれに構ってる暇ねえし」
と言って、渚は路地を出て速足で裏門に向かった。仕方なく光も後に続く。裏門は施錠されていたが、光が門柱に設置された操作パネルにセキュリティコードを打ち込んで開錠した。門を入ると、3台の通園バスが並んだままになっている。おそらく運転手があの水流のせいで園にたどり着けなかったのだろう。
――と言うことは、今朝の遅刻は帳消しか。
光はどうでもよいことを考えている自分に、内心呆れた。その顔を見ながら渚が、
「あんた今、しょうもないこと考えてたでしょ?」
と、すかさずツッコミを入れて来る。
――全くこいつの観察力だけは油断ならんな。
光は呆れる思いで再認識するのだった。
二人が園舎に入ると、あちこちの照明が点灯していた。既に職員の誰かが出勤している証拠だった。他光たちはまず職員室に向かう。室内に入ると照明は点いていたが、中には誰の姿もなかった。園の代表電話を見ると、留守番電話の通知ランプが点灯している。光は録音内容を確認したが、すべて園長からのメッセージだった。次に光は、富田良子のデスクを調べてみた。デスク脇には黒の大振りなバッグが置かれている。それは富田の持ち物で、彼女が園に来ていたことを物語っている。しかしその姿が見えないということは、どういうことだろう。
――富田先生、園から出たのかな?バッグは置きっぱなしだけど…。
そこから広がる想像は、あまり楽観的なものではない。光が考え込んでいると、いつのまにか職員室からいなくなっていた渚が戻って来た。どうやら一人で他の場所を見回っていたようだ。渚は職員室の入口に立って、光を手招きしている。
「何か見つかった?」
光は渚に近づいて訊いた。
「何かって言うか。ちょっとこっち来て」
渚は何故か煮え切らない返事をすると、園舎の正面玄関に向かって歩き出した。光もそれに続く。
正面玄関に着くと渚は、園庭に置かれたプレハブ倉庫を指して訊いた。
「あれって倉庫だろ?いつもあんな風に扉が半開きになってるん?」
光が倉庫をよく見ると、渚が言うように扉が半開きになっている。それは普段ではあり得ないことだった。園児たちが入り込んで怪我をする怖れがあったので、常に扉は閉めた状態にしてあるはずだ。ただ、少し前に古くなった鍵が壊れて交換されないままで、施錠はされていなかった。不審に思った光は、首を横に振りながら言った。
「いや、あそこは道具を出し入れするとき以外は、いつも閉めているはずだ。何があったんだろう?」
渚が、「行って見る?」と言って光を見た。
「園庭に出て大丈夫かな?」
そう言いながら園の外に目を遣ると、塀越しにあの突起物がいくつも並んでいるのが見えた。今は水流が収まっているが、その姿は日常にない禍々しさを湛えている。しかし倉庫の中の状態がどうしても気になったので、光は渚に目で合図を送り、慎重な足取りで倉庫に向かった。いつでもダッシュで引き返せるように、塀の外に細心の注意を向けている。光は倉庫に近づくと、一気に扉を開けて中に飛び込んだ。続いて入った渚が、すぐさま扉を閉める。
豆電球の弱々しい光で照らされた倉庫の中はかなり暗く、入った途端にむっとするような熱気が絡みついてきた。倉庫内には運動会で使う道具などが、所狭しと積み上げられている。光は倉庫の隅で身を寄せ合うようにして蹲る二つの小さな影を見つけた。見覚えのある園児たちの顔だ。島田萌香(しまだもえか)と優太(ゆうた)という、6才の双子の姉弟だった。
「誰?」
そう言いながら園児たちの隣、積み上げられた道具の影から富田良子(とみたよしこ)が顔を覗かせた。
「芦田先生?」
「富田先生!どうしてこんな所に?」
「ええ、ちょっとね。それより先生、お水持ってないかしら?私も子供たちも朝から何も飲んでなくて」
富田の言葉に驚いた光は、リュックから水のペットボトルを2本取り出すと、渚と手分けして蓋を開け、子供たちに手渡した。さらに取り出したもう1本の水を富田に渡す。受け取った3人は余程喉が渇いていたらしく、ゴクゴクと音を立てて水を飲んだ。
「朝からこの中にいたんじゃ、結構ヤバかったね。熱中症になりかねないわ」
その様子を見ていた渚が言った。それに頷いた光は続けた。
「先生、とにかく子供らを連れて園舎に行きましょう。こいつの言う通り、ここにずっといると熱中症になりますよ」
「その方は?」
「ああ、私の同居人の篠崎渚です。それより立てますか?」
「水を頂いたので大丈夫。でも、園舎まで行けるかしら?外のあれは、まだいるんでしょう?」
富田は水流のことを言っているらしい。
「ええ、まだいますけど。今こっちに来る時は大丈夫だったんで。何とか園舎まで行きましょう。子供たちは私とこいつとで、一人ずつ抱えて行きますんで。先生は付いて来て下さい。走れそうですか?」
「ええ、怪我してる訳じゃないから大丈夫。篠崎さん、すみませんが子供をよろしくお願いします」
富田の言葉に頷いた渚は、倉庫の扉を少し開け外の様子を窺った。そして光に振り向くと、
「今は大人しくしてそうだから、行こう」
と言って扉を開ける。
頷いた光は弟の優太を抱き上げて渚に渡すと、次に姉の萌香を抱き上げ、
「先生、行きますよ」
と富田に声を掛けた。
渚が最初に飛び出すと、光と、少し遅れて富田がそれに続いた。園舎に無事たどり着いた光と渚は、流石に息を切らせていた。続いて富田が倒れ込むようにして玄関をくぐる。すかさず光がガラス製の扉を閉めた。園児二人は状況が飲み込めていないらしく、泣きもせずにただ呆としていた。
光は富田に手を貸して立たせると、
「職員室に行きましょう」
と言って園児たちの手を握り、園舎の中に入って行った。先行した渚が職員室の灯りを点け、クーラーの電源を入れる。室内が冷えるまで少し時間は掛かるが、これで一息付けそうだ。光は天井に据え付けたクーラーの風がよく当たる席に子供たちを座らせると、持ってきたクッキーと水を与えて落ち着かせた。そして、
「何があったんですか?」
と、漸く呼吸の落ち着いてきた富田に訊いた。
富田は朝起きた出来事について、淡々と語り始めた。
彼女はやはり、この日早出して島田姉弟の登園を待っていたようだ。姉弟の母には、早朝出勤のために、通常の登園よりも早く姉弟を預けなければならない事情があったので、富田が好意でそうしているのだった。本来このような個別対応は問題なのだが、他の教師たちは見て見ぬ振りをしている。面倒見の良い富田の性格をよく知っていたからだ。
正門まで出て姉弟を待っていた富田は、前の車道から点々と何か尖った物が飛び出しているのを見て首を傾げた。それはアスファルトを突き破って、数cm程伸びているようだった。その突起が道路上を一直線に、ずっと向こうの方まで続いているように見える。昨日までそんな物はなかったし、自分が今朝通勤して来た時にも、やはりなかったはずだ。もしあったなら気づいていただろう。不審に思った富田が、車の通りがないことを確認してそれに近づこうとした時、向こうから前後に子供たちを乗せた自転車が近づいて来るのが見えた。
島田姉弟の母親は富田の前まで来ると、
「先生、遅くなってすみません」
と言いながら慌ただしく自転車を止め、子供たちを下ろし始めた。そして、
「本当に申し訳ありません。仕事に遅刻しそうなので、これで失礼します。よろしくお願いします」
と言いながら、あたふたと自転車に跨ると、富田にペコペコと頭を下げつつ走り去っていった。その様子を子供たちと並んで見送った富田は、取りあえず二人の手を引いて園舎に向かった。そして三人が園庭の中半辺りまで来た時だった。背後で大きな音がし、振り向いた富田は信じられない物を見た。車道から巨大な突起物が、いくつも飛び出していたのだ。それは園庭を囲む塀の高さの倍ほどもあるようだった。突然現れたその物体に呆然としている富田の前に、続いて信じられない光景が展開されていった。突起物の先から大量の水が噴き出すと、門の前を通り掛かっていた人に覆いかぶさったのだ。そしてその水が通り過ぎた後、そこにいた人の姿は消え去っていたのだ。塀に隠れて見えなかったが、林立する突起物の先から同じように水が噴き出し、向こう側で人々を襲っているようだった。聞こえて来る幾多の悲鳴が、そのことを物語っていた。
我に返った富田は、子供たちを連れて近くの倉庫に飛び込んだ。園舎にたどり着く前に、あの水に襲われたらひとたまりもないと咄嗟に思ったからだった。そして光たちが来るまでの数時間、あの蒸し風呂のような倉庫の中でじっと耐えていたらしい。もちろん富田も熱中症の懸念を抱かなかった訳ではなかったが、どうしても子供たちを連れて逃げ切る自信を持てなかったからだ。光たちが園に来たのは、その意味でラッキーだった。あのまま倉庫の中に居続ければ、三人とも熱中症に掛かるのは確実だっただろう。
「取りあえず三人とも無事でよかったです」
事情を聴いた光は言った。島田姉弟の母のことが頭を過ぎらなくもなかったが、富田に訊いても状況は分からないだろうし、姉弟の気持ちを考えるとこの場で訊けることではなかった。光の性格には、そういう風に他人の気持ちを斟酌できる繊細さがあったし、そのことは隣で黙って話を聞いている渚も同様だった。
――さて、これからどうしようか…。
光が思ったその時、突然外から爆音が響き渡ると、続いて大きな振動が襲ってきた。爆音と振動は、その後何度も立て続けに起こった。光と渚は反射的に立ち上がったが、状況が分からず、互いに顔を見合わせるしかなかった。子供たちが恐怖のあまり泣き出したのを、富田が必至で宥める。そこへ、
「光さん、大変です!」
と喚きながら、沢渡が飛び込んで来た。
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