第21話

 帰宅早々、夏生は着替えもせずにリビングのソファに飛び込んだ。

 俯せのままピクリとも動かない夏生に、母がキッチンでの作業を中断して様子を見に来る。

「どうしたの? そんなに疲れたの? 久々の学校は」

「う~ん……そういうわけじゃないけど……」

「じゃないけど、なによ?」

 思ったよりも平気そうだと思ったのか、パタパタとスリッパの音がして母がまた遠ざかる。夏生は、むくりと顔を上げて首を捻り母の背中を追った。

「ねえお母さん」

「なーに?」

「私って、なんで陸上クラブ入ったんだっけ」

 ぴたりと動きを静止し、夏生の顔色を窺うように視線が送られる。ソファの上で脱力したままそれを受け入れていると、母は正面を向き直って夏生に背を向けたまま話し出した。

「葵ちゃんちが行くって言うから、一緒に行ったのよ。ほら、豹とかの副種族持ってる子って結構幼少期からスポーツやってる子多いから」

「そうだっけ」

 始まりも、葵のついでだったのか。

「そうよ~。ほら、あんた駆け回ってるの好きだったでしょ? それで監督さんがちょっとアドバイスしてくれて走ったら、いつもより速かったって目きらきらさせて騒いで騒いで」

 懐かしむように笑う母の口調に、その頃の自分は随分とはしゃいでいたらしいとどこか他人事みたいに聞いていた。

(だってあの頃は葵に勝てないなんて分かってなかったし、副種族とか気にしたことなかったしな……)

 ――ねえお母さん! さっきいつもよりうんと速かったでしょ?

 けらけらと楽しそうに笑ってはしゃぐ子どもの声が、薄ぼんやりと思い出される。なんとなくだけれど、そんなことを言った覚えもある。

 でも、結局自分の限界を感じて中学校でやめちゃったけど……。

(ほら和佳さん。私は走るのが好きなんじゃないよ。速く走って勝つのが好きなんだよ)

 心の内で彼女に呟く。

 昼間は、手を振り払うようにして逃げてきてしまったから、思い出すとちくりと胸が痛んだ。

 


 喧嘩別れのようになってしまったけれど、夏生は変わらず二個の弁当を持って翌日もベンチを訪れていた。

 和佳はなにもなかったように笑って弁当を受け取り、いつものように静かに食事を進めた。

 しかし、どこかタイミングでも窺うようにそわそわとしていてなんだろうと夏生は不審に思っていた。食べ終わり、しばらく経った頃だ。

「もうこの話はしないから……一つだけ聞いてくれる?」

 そろそろと申し出てきたので、夏生はこくりと頷いた。

「競技だし、夏生ちゃんが勝てなきゃ意味がないっていうのも分かるわ。でも、私個人は見ていて楽しい方が好き」

 あのね、と内緒話でもするように身を乗り出して、和佳がほんのり頬を染めた。

「私、プリントを拾ってくれたときだけじゃないのよ。夏生ちゃんが走ってるのを見たの」

「え?」

「グラウンドで、五十メートル走してたでしょ? 保健室から見てたの。すごく、綺麗に走る子がいるな~って」

 照れくさそうに笑って、それでも和佳はどこか興奮した様子で続ける。

「あなたが走ってるところだけ、きらきらして見えた。世界が違うみたいで、目が離せなくて……どこまでも行けそうだなって……そう思ったの」

 ふわりと春の木漏れ日の下で花が咲いたような、そんな柔らかで麗らかな笑みに夏生は目を奪われた。冬の凍てついた氷が、温かな光でじわじわと溶けいく。そんな情景のように、夏生の心がほぐれていくのが分かった。



 週の半ばに実施されるLHRの時間は、想定していたとおり、嶺桜祭でのクラスの出し物や、体育祭での出場種目の決定だった。

 担任はいつもの通り教室の隅で見守り態勢なので、委員長の朝川が前に立ち、副委員長の生徒が書記係として板書を務めている。

 三年生は受験勉強やらと進路のことで忙しいため、展示をすることが多く、飲食物の販売やらイベントを開けるのは一、二年生の間だけだ。

 候補がいくつか並び、その中から多数決が取られ、喫茶店として軽食やドリンクの販売をすることに決まった。

 今日決まったことを、さらに朝川たちが文化祭の実行委員会で進言し、許可が下りれば出し物として正式に採用される。

 文化祭の件は一段落したので、続いて体育祭のほうへと議題は移った。

 書記係が種目名を黒板に書き込んでいく。隣に空白をあけているのは、そこに出場が決まった生徒の名前を書くためだろう。

 種目数をみるに、一人一種目、もしくは二種目程度だろうか。それ以外にも団体競技があるし、部活動に所属している生徒はそちらでも出場枠がある。

(走る系は出来れば回避したいな……)

 そうすると、玉入れや大玉転がしあたりがやはり妥当だろうか。二人三脚や騎馬戦でもいいけれど、夏生と身長の合う生徒がこのクラスにはいない。

(玉入れならこの身長だし、入れてもらえるかも)

 そう思って玉入れの順番を待っていたが、リレー走者のところで早々に躓きが出た。

 ちらほらと立候補者はいるものの、人数が足りないのだ。

「他に候補の方はいらっしゃいませんか? 出来れば動物の副種族以外の方で……」

 朝川は困った様子でクラスを見渡す。

 リレーの走者は計六人。そのうち、半数である三人までは動物の種族を持ったものの出場が許可されている。これは、クラスごとに副種族の所持者に偏りがあるため、レースで大幅な差がつかないようにと言う配慮からだ。

 すでに副種族持ち生徒は三人立候補が出ていて、他の三枠のうち一つは植物の副種族生徒から立候補者がいる。運動部らしく、足には自信があるらしい。

 しかし、あと二人が決まらない。

(そういえばうちのクラスって運動部少ないよな……)

 全体的に見て文化部の所属生徒が多く、運動部の生徒はほとんどが動物の副種族生徒だ。しかし、そちらの三枠はもう埋まっているから、文化部生の中から選ばねばならない。

「そういえば、小川さん五十メートルすごく速かったよね?」

 一人の生徒の声にぎくりと体を竦ませる。

「そうそう、ビックリするぐらい速かった」

「でも部活入ってないんだっけ? 中学のときはなにやってたの?」

 そこにちらほらと同調の声が増え、クラスメイトたちは夏生の方へ目を向ける。

「あー……陸上を、ちょこっとだけ」

 保身のために曖昧且つ少しの嘘をついてしまったが、つけ加えた言葉なんて聞こえていないのか、「陸上」の二文字を聞いた生徒たちはわっと歓声をあげた。

「だからあんなに速かったんだね」

「小川さんが出たら絶対勝てるよ!」

 決定的な言葉は出ていないが、これはもしや自分が走らなければならない流れではないか?

 サッと夏生の顔から血の気が引く。動物の副種族持ちとの混合リレーだなんて冗談じゃない。

 すでに決まったような雰囲気で残りの一人の話をするクラスメイトを鎮め、朝川が代表して夏生を見た。

「夏生さん、もしよければリレーいかがですか? ほかに出たい競技があればそちらを選んでいただいても大丈夫ですよ?」

 それとなく他の選択肢も提示して、朝川は申し訳なさそうに訊ねた。

「あ、いや……私は」

 クラスメイトたちはじっと夏生の返答を待っている。別に他者の目を気にする性格でもないので、夏生は嫌ならば嫌といえる。

 答えあぐねるということは、自分の中で迷っているからなのだ。

 大勢の前で走るのなんて御免被りたい。しかし、頭の中で声が思い返されるのだ。

 ――きらきらしてて……どこまでも行けそうだなって

 あの時の頬に触れた柔らかな熱が蘇る。繊細な手つきに、そっと背中を押されたような気になって気がつけば頷いてしまっていた。

「あー……第一走者じゃなければ、いいかな……?」

 一気にクラスが沸いて、引き受けただけなのにすごい盛り上がりようだ。

(そこまで期待されても困るけど……)

 どうせ、副種族持ちの子たちには勝てないんだし――。

「いいの? 夏生ちゃん」

「うん。大丈夫。他に出たいのもとくになかったし」

 こそりと岩瀬が心配そうに訊くので、大丈夫だと笑って見せた。

 実際、憂鬱さはそれほどなかった。多分、走らなければならないと嫌気がさすよりも、リレーに出るのだと伝えた和佳がどんな顔をするのか――それが気になってしまっている。

 多分、喜んでくれるんじゃないか、と夏生はそう思った。


「体育祭でリレーに? すごい! 応援するわね!」

 真昼の陽差しの下で、和佳はそうはしゃぐように声を上げた。想像していた以上の反応に、夏生の心がむず痒くなる。

 嬉々とした笑みを見ていると、鬱屈とした気分も吹き飛ばされた。

「まあ、主役は種族持ちの子たちだけどね……」

 私たちなんて、どうせ数あわせでしかない。気弱な台詞に、和佳は首をぶんぶん振って「そんなことないわよ!」と奮起させてくる。

「和佳さんは体育祭って出る?」

 行事ごとに参加したことがないと言っていたことを思い出し、もしやと訊いてみると案の定、否定されてしまった。――そうだよね。

「来ない、わけじゃないよね?」

 応援するって言ってくれるぐらいだし……と、そろそろと夏生が窺う。

「体育祭のときは医療テントで依岡先生のお手伝いをしてるわ」

「そっか……和佳さんのクラスと同じ組だといいけど……」

 体育祭では、クラスごとに四色の色に割り振られ、赤組、青組……などと三学年合同の組み分けがされて、その四組で総合点を競う。

 振り分けは完全ランダムなので、同じ組になれるかは運になってしまう。

「ふふ、同じ組じゃなくたって、夏生ちゃんのことはこっそり応援するわよ」

「ほんとに? 嘘つかないでよ?」

「もう、嘘じゃないってば」

 からかって肩を寄せてとんとぶつかると、くすくすと鈴のような声で微笑むので、夏生も一緒になって笑ってしまった。

「体育祭は、ってことは……文化祭は? 三年生だから展示だし、当番とかはないの?」

「あ、……文化祭は各自が校内で思い出の場所の写真を撮って貼り出すみたい。みんなも学校生活の振り返りになるし、紹介文もいれることで受験生や保護者の方たちへの案内になればって」

「へ~! 和佳さんはどこの写真撮るの?」

 と言っても、和佳の学校生活を思うと保健室などが妥当なのだろうか。それしかないのも淋しい気もするが、学校案内も兼ねているなら、そう言った場所の写真も必要だろう。

「あ、私は……写真は撮らないかな?」

 さっきまでの笑みと打って変わって、和佳はどこか沈んだ目で控えめに笑う。

「文化祭、参加しないの?」

 体育祭のように陽の下で動くわけでも、他学年と違って当日に慌ただしく忙しいわけでもないのに?

 なにより写真を撮って貼り出すだけならば、参加のハードルは低い気がする。

 展示物なら参加出来るんじゃ、と思った夏生の考えを察し、和佳は瞳を迷うようにうろつかせて辿々しく言葉を紡ぐ。

「だって、ずっと参加してなかったのに今さらみんなの中に入っていっても……気を遣わせちゃうだろうし……準備もそんなに手伝えないだろうし……」

「そっか……」

 たしかに、和佳ならば他の人に準備を任せるというのは嫌がるだろう。しかし、放課後はすぐに迎えが来てしまうというし、それを遅らせるということは両親に窺いをたてないといけない。多分、それが出来ないのだろうな、と夏生は思った。

(また、反対されるのが嫌なのか……それとも心配をかけるから?)

 けれど、淋しそうに笑う姿から本当はどこか参加したい思いがあるんじゃないかと、そう感じる。

「クラスの人……ほら、この前の下田さんとかさ、ちょっとでも手伝えることないか訊いてみるのは? それで時間とか都合つくようならちょっとだけ手伝うとか」

 確かに文化祭への準備の大半は放課後の時間を使うが、週に一度のLHRも、嶺桜祭までは準備に当てられる。そこならば、和佳だって屋内での作業だから出来るだろうし、迎えの時間を心配しなくてもいい。

 そう思って提案したものの、今まで一度も教室に行ったことがないのに、そこだけ参加するというのも気まずいか、と言ってから気づいた。

「……あーごめん。それもそれで気まずいか……嶺桜祭、和佳さん最後だし、なにか参加出来ればなって思ったんだけど……」

 夏生が同じクラスだったら解決するのに――。

 そうは思っても、年の差は埋められない。和佳が気に病まずに参加出来る方法はないか、と唸る夏生に、当人は眉を下げたままふにゃりと笑った。

「ありがとう、夏生ちゃん……そう言ってくれるだけで嬉しいよ」

「うん……あ、でも当日は一緒に回ろうね? 私はクラスの当番あるかもしんないけど、そんな長い時間じゃないだろうしさ」

 クラスの出し物に参加は出来なくても、当日に出し物を楽しむことは出来る。

「うん、楽しみにしてるね」

 夏生の誘いを、和佳も笑って受け入れた。




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