第27話

 佐々山の発言に言葉をなくした夏生だったが、次の瞬間には弾かれたように駆け出していた。

(なんで確認しなかったんだろう……)

 進学校の代桜女において、大学に進むことが当たり前だったから?

 なにも言われなかったから、てっきりみんなと同じ道を辿るものだと思っていた?

 校舎を飛び出て、そのまま植え込みも飛び越えて木々を追い越す。そうして見えたベンチに和佳が座っているのを見つけ、足をさらに速めた。

「あら、夏生ちゃん? どうしてここに?」

 肩を激しく動かす夏生を、和佳が見上げてくる。傾きだして色を濃くした夕日が、彼女の茶髪を温かく染めていた。

(お昼以外に会うのって、そういえば初めてかも……)

 いつもだったら遠くから和佳の姿を見つけただけで心が弾む。なのに、今は全然ドキドキしない。焦燥だけが胸を占めている。

 やけに冷えた頭で当初の目的を思い出し、トートバッグからマフラーを取り出した。

「これ、間違えて持ってたから……」

「あ、マフラー! ありがとう。わざわざ持ってきてくれたのね」

「ううん。別に……大したことじゃないし……」

 柔らかく笑って、和佳は細い首にマフラーを巻いた。いつもとなんにも変わらない。あと一ヶ月もせずに家に閉じこもる人間とは思えない。

 どうして、なにも言ってくれなかったんだろう。

 悲しくて、悔しかった。夏生の胸に切ない痛みと憤りが走る。

 普段と様子の違う夏生に気づき、和佳はしなやかな指先で夏生の前髪をすくって耳にかけた。そうして俯いた夏生の顔を覗いてくる。

「夏生ちゃん……?」

 気遣わしげな声が、瞳が、無性に苛立ちを呼んだ。

「どうして、言ってくれなかったの?」

「え?」

「高校卒業したら、家でゆっくり過ごすってなに?」

 はっと和佳が息を呑んだ。気まずそうにそっぽを向いてしまった瞳に、佐々山の言葉は嘘じゃないんだと突きつけられた。

「ごめんなさい……元々母や父からは、無理して大学には行かなくていいって言われていたの。あと何年生きていられるか分からないし、ゆっくり家の中で過ごしましょうって」

「和佳さんは、それでいいの?」

「ええ。やりたいことがあるわけでもないし、大学に行く理由もないし……」

 高校までは行かせてもらったしね。なんて言って、和佳はニッコリと笑った。久しぶりに見た完璧で、綺麗で、夏生の嫌いな笑顔。

 怒りと絶望で、心がギシギシと軋むような音を立てる。

「外に、出ないつもりなの? これからずっと死ぬまで、家の中で過ごすの?」

「そうね。母や父に心配をかけたくないから」

 それを言われるとなにも言えない。この人が、他者からの――それも家族からの心配をはね除けることが出来ないなんて、夏生はよく知っているのだ。

「……私とも、会わないつもりなの?」

 それだけ。それだけが零れた。

 その言葉だけは、怒りもなにもなく、ただ悲しみだけがこもっていた。

 眼球が、じんと痺れたように痛みを訴える。じわりと涙が下瞼に盛り上がっていく。

 夏生の言葉と表情に、和佳はあの笑顔を崩した。罪悪感を覚えたような、情けない顔。

「会えなくても、ほら、メッセージでやり取りできるし、電話もあるでしょ? 私の家に遊びに来たっていいんだから。佐々山さんの作るお菓子、すごく美味しくて夏生ちゃんもきっと気に入ると思うの」

「私は! 私は和佳さんと一緒に外に行きたいの! なんで? 遠足楽しそうだったじゃん。プラネタリウム見られなかったし、花火だって生で見てないし、イカ焼き食べてないし、電球ソーダも飲んでないじゃん! 私は、いつか一緒に行きたいって思ってたのに」

 和佳さんのこと、どこまでも連れて行ってあげる気だったのに。

 どうしてこんな、裏切られたような気分にならなきゃいけないの。

「和佳さんだって、本当は外に出たいでしょ? 色んなもの見るの好きじゃん。なら、なんで受け入れるのさ」

 違う。こんな、責めるように言いたいんじゃない。この人が優しすぎることなんて、とっくの前から知ってるでしょ。でも、悲しみと怒りがごちゃ混ぜになって自分でも制御できない。

「……ごめんね、夏生ちゃん」

 ほら、そうやって大人みたいな顔で笑う。全部受け入れて、しょうがないんだよって諭すように笑う。

(私、その笑い方嫌いなんだってば……)

 冷えた空気に晒されて、指先が赤くなった和佳の手を握る。痛いぐらいに強く握った。そうしないと、この人はどこかに飛んでいきそうに思えたから。現に、この人は夏生の手の届かないところに行こうとしている。

「ここで、夏生ちゃんに出会えて良かった」

 出会った頃は温かな春の陽差しがさしていたこの場所には、今は夕暮れの温かさと冬の冷たさが混在していた。

「初めて見るお弁当も、遠足も、花火もお祭りも……全部私の宝物。全部、夏生ちゃんがくれたもの」

「なら、」

 もっと一緒に見ればいいじゃん。もっと色んなものを見に行こうよ。

 嗚咽まじりにそう伝えたって、和佳はやっぱり「ごめんね」と笑うのだ。その表情がどこか物寂しく見えたのは気のせいじゃなかったと思いたい。

「ありがとう夏生ちゃん。この半年間、本当に夢みたいだった。色んなものを見て、色んなものを食べて……色んな体験をして、それで綺麗なものも見つけられた」

 濡れた夏生の頬を、少しかさついた和佳の冷えた手が拭う。体育祭のときは温かく夏生を慰めてくれた手が、今は別れを納得させるために慰めている。

 そう思うと、悲しくて悲しくてたまらなくなった。

 頑是ない子どもみたいに首を振って泣く夏生を、和佳が困ったように、けれど嬉しそうに慈愛のこもった目で映す。

「ありがとう。この思い出があれば、もう私には十分だから」

 日が暮れて佐々山が呼びに来るまで、和佳は背伸びしてわざわざ夏生の頭を抱えていた。それなのに、嫌だという夏生の言葉には、決して頷いてはくれなかった。


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