第26話


 盛り上がった嶺桜祭は無事に終わりを迎え、陸上部から勧誘を受けたりと一時的に周囲が騒がしかったが、そう経たずにのどかな日常が戻ってきた。

 もうタイムに縛られたり、他者に縛られて走ることは嫌なので、勧誘はすべてお断りした。中学時代に全国大会まで出ていたこともあり、夏生のことを知っている生徒もいて、「もったいない」と声をかけられたが、初心を取り戻せた今となっては、大会などに出場することなく気ままに走ることの方が性に合っている思う。

 そのため日課のランニングを再開したり、休日に近所の運動公園に行って走ったりと、充実した生活を送っている。

 そうしているうちに十一月も後半にさしかかり、冬が本番を迎えた。

 日に日に頬を撫でる風が冷えていき、制服のボレロの上からコートを羽織るようになった。

 コートだけでは明け方などは冷えるので、自宅から駅までの自転車の道のりにはマフラーと手袋が必須だ。

 昼休みの和佳との逢瀬も、防寒具やカイロなどで乗り切っていたものの、そろそろ外での食事は厳しいだろう。

(そうしたら、また依岡先生に頼んで保健室貸してもらおう……)

 朗らかな教師が笑って頷く姿が容易に想像出来た。

 午後の授業開始の予鈴とともに教室に戻った夏生は、弁当や膝掛け代わりのマフラーなどをつめたトートバッグを机の脇にかけようとして、あれ? と気づく。

「これ、和佳さんのじゃん」

 ベージュにブラウンのチェック柄のマフラーは、和佳が使っているものだ。片付けをしているときに混ざってしまったらしい。

「これないと帰りとか朝に困るよね……」

 車での送迎だから、そう長い時間外にはいないだろうけど、あちこち探させてしまうのも可哀想だ。

(……帰りに届けに行くか)

 帰りのHRが終わって早々に保健室に行けば、会える可能性はある。もし帰宅した後だったら、依岡に預けてメッセージを入れておこう。

 マフラーを丁寧に畳み直して忘れないようにバッグの一番上に置く。

 自分のものじゃない――和佳の物が手元にあるというのも変な心地だ。そわそわしてついつい授業中に覗いて見下ろしてしまう。

 和佳が傍にいるときのような、ぽっと心に火が灯ったような温かさにむず痒くなって、ペンを動かす手に力が入ってしまった。



 荷物を持ち、早々に教室を後にした夏生は、器用に歩きながらコートを着て中等部の校舎まできていた。

 部活に向かう生徒たちの流れを避けて外から直接保健室に向かったのだが、珍しくカーテンが引かれて中の様子が分からず、扉には鍵がかかっていた。

 仕方がない、とさっきよりも人の少なくなった廊下を通り、校舎内から向かっていると、正面からスーツを着た女性が歩いてくる。

 見慣れない容姿に目をとめたが、すぐに内心で首を捻った。

(あの人、どこかで見たことある……?)

 黒いパンツスーツに、物静かな凜とした表情。すれ違い、その後ろ姿を不躾に見ているうちに、夏生は思い出した。

(あ、和佳さんちのお手伝いさんだ)

 たしか、佐々山と言ったはず。遠足のとき、和佳を送ってきた彼女を遠目に見たことがある。

 彼女の来た方角は、夏生が向かおうとしていた保健室のある方向だ。ぞわりと嫌な予感が胸に湧き、慌ててスーツ姿の彼女を追った。

「あ、あの! 和佳さんに、なにかあったんですか!?」

 声をかけると、感情の薄い瞳が夏生を認めて瞬いた。じろりと足先まで一瞥してから、

「もしや、小川夏生さんでしょうか?」

 と、女性にしては低い声が訊ねる。

「そうです。小川夏生です。和佳さんにはお世話になってて……それで、あの、なにかあったんですか?」

 わざわざ保護者が保健室まで来るようなことが?

 と心配な夏生の思惑を感じ、佐々山は首を振った。

「いえ、保健室の依岡先生からは定期的に和佳さんの様子をお聞きしてるんです。今日がその連絡の日でして……」

「あ、そうなんですね……なんだ、よかった……」

 安堵する夏生を、佐々山は感情の分からないガラス玉で見つめていた。

「あれ? じゃあ和佳さんはどこに……?」

 周囲を見渡してもそれらしき姿はない。一緒ではないのだろうか。

「先生と私が話をしている間は、和佳さんは他の場所で待っていらっしゃいます」

 そう言って、腕時計に目を落とす。

「最後だからと長話をしてしまいました」

 ――最後……。

「ああ、和佳さん卒業ですもんね」

「ええ……」

 代桜女の生徒の多くは、学力試験を経て同じ系列の女子大に進む。その試験は九月にあり、その結果次第で希望を出せる学部などが決まる。

 その後、学部ごとに個別の面接があり、それは二学期中には終わるため、外部の大学を受ける一部の生徒以外は、冬休み明けの三学期は自由登校になる。

 そうなると、他と同じように系列大学に進むだろう和佳も二学期までで登校しなくなるのだ。

「初等部からだと約十二年……長いようであっという間でした」

 伏せた瞳が懐古するように懐かしさを滲ませる。ほっと出た吐息には和佳の成長を喜ぶような親しみがあり、初対面の際の「怖い人」というのは撤回した方が良さそうだ。

(ちゃんと、和佳さんのこと大事にしてくれてるんだ……)

 そう思うと、緊張していた体も和らぐ。けれど――。

「来年度からは日中のお世話も私がすることになりますから……そのこともあり、今回はより詳しく和佳さんの昼間のご様子を窺っていました」

 続いた言葉に、夏生は面食らってしまった。どうやら聞き間違いをしたらしい。そんな馬鹿な考えが浮かんで、いやいやと否定する。

 言葉がうまくのみ込めない。

(え、来年……昼間もって……え?)

 頭を働かせているのに、全然意味が理解できない。背後に、鳥肌が立つような嫌な予感がひしひしと迫ってきている気がした。

「あ、あの……来年度ってどういうことですか? 和佳さん、進学するんじゃ……?」

 へらりと笑って言った夏生だが、その額には冷や汗が浮かんでいた。

 だって、大学に行くのに昼間の面倒ってどういうこと? 学校に行っていたらそんなの必要ない。まるで……まるで、和佳が進学しないような、そんな口ぶりで……。

「聞いて、おられませんか?」

 そこで初めて、佐々山は表情を大きく崩した。目を見開き、驚きを向けている。

「和佳さんは奥様たちのご意向で、進学はされず、この後は家でゆっくりと過ごされると」

 わずかな躊躇いの末に佐々山が発した言葉は、夏生を唖然とさせるには十分なものだった。



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