第25話


 泣き止んでから目元は冷やしたが、あれだけ泣いたからかどこか熱をもっているように感じる。鏡で確認もしたが、ほんのり赤く染まっている程度だった。

 しかし、母なら気づいてしまうだろうな、と思った。

 半分になった夕日を追うように足を進めて帰宅し、夏生は玄関前で深呼吸を一つ。

「ただいま~」

 なるべくいつも通りに声を出して靴を履き替えた。廊下にひょこりと母が顔を出して、いつもの調子で「おかえり」と言いかけたが、途中で目を瞠って固まってしまった。

「……体育祭、楽しくなかった?」

 まさか転んだの? なんて深刻そうな雰囲気を分散させようと少し揶揄いまじりにいうものの、その目は真剣そのもので――。

 夏生が首を振って「楽しかった」と笑うと、母はその笑顔に幼いころの夏生の面影を見て、はっと息を呑んだ。そして、目尻を下げて微苦笑すると

「そっか……楽しかったか」

 と感極まった気持ちを堪えるように言ったのだ。

 そんな母の様子に、どれだけ心配をかけていたのだろうと、夏生は居たたまれなさを感じ、そしてそれだけ思われていることに嬉しさも感じてしまった。

「着替えてきちゃいなさい。ご飯、もうすぐだから」

「はーい」

 階段を上り始めたところで、夏生がふいに足を止める。

「……お母さん」

 キッチンに戻ろうとした母が、振り返ったところで「あのさ」と次の言葉を躊躇うように間をあける。

「あー、今日って、葵んちにお裾分けとか……行く?」

 互いの家が近所で母同士が仲が良かったため、葵の家に夕飯のおかずなどを時折お裾分けに行くことがあった。

 昔であれば、それを運ぶのは夏生や葵の役目だったが、部活をやめたことを機に頼まれることもなくなった。多分、二人の様子から母たちが気を遣ったのだと思う。

 しかし、今も母同士での交流が行われていることを、夏生は気づいていた。

 数秒経って、ぽかんとしていた母は夏生の思惑を察したのだろう。嬉しそうに笑うと、「ええ、今日は作り過ぎちゃう予定だから。頼むわね」とどこかうきうきした様子で戻っていく。

(そんなに仲直りすんのが嬉しいのかな……)

 話をしようとは思っているが、葵が夏生を許してくれるかは分からないのに。もしかしたら、会った直後に帰って欲しいと頼まれるかも知れない。

 しかし、そんな心配は杞憂だったようで、夏生が鍋を持って家を出たとき、ちょうど葵の家の前に人影が見えた。ゆらりと、尻尾が揺れている。

 塀を背にして寄りかかる葵がいて、そこで母同士が気を利かせたのだと分かった。

 すっかり日の暮れた秋空に、星がぽつぽつと浮かんでいる。

 白い街灯の光から外れるように立ち、夏生は言葉を探った。

「あ、あの、これ……おかず作り過ぎちゃったから……お裾分け」

 鍋を前に出すと、葵は「う、うん」なんてどもった返事とともに受け取った。

「あ、肉じゃが……おばさんの肉じゃが好き……」

「お母さんも喜ぶよ……伝えとく」

「うん……」

 ひゅうっと二人の間を冷えた夜の風が吹き抜ける。訪れた沈黙に、夏生は息が詰まった。

 いざ話がしたいと思っても、どう切り出したらいいんだろう。

 ぐるぐる頭を回して考えても、なんにもいい案が出てこない。そのうち、沈黙に焦れたのか限界だったのか、葵が「それじゃ」と踵を返した。

 咄嗟に夏生は口を開く。

「ごめん!」

 ピクリと葵の耳が揺れ、足が止まった。

「ひどいこと言ってごめん! ……私、嫉妬してた……副種族ないとダメなんだって思い込んで、葵は悪くないのに勝手に嫉妬して恨んで……」

 背中を向ける葵は、どういう顔で聞いているだろう。怖かった。でも、ひどいことを言ったのだ。受け取って貰えなくても、謝罪ぐらいは逃げずに誠実でいたい。

「葵がたくさん練習してたの知ってたくせに、それ全部なかったことにしてひどいこと言ってごめん」

 頭を下げ、もう一度「ごめん」と言った。

 頭上で、葵が近づいてきたのが分かった。緊張で体が強ばる。視界に葵の靴先が見えた。

「頭、あげてよ……」

 怖々と上げると、顔を歪めた葵がいて、ああと夏生の胸に罪悪感がひしめき、痛みを感じた。許してもらえると思っていた訳じゃない。

 でも、こうも目の前でどれだけ傷つけたのか目の当たりにすると、やはり後悔で胸が一杯になって苦しい。

「……謝らなきゃいけないのは私のほう……」

「え?」

 つい間抜けな音が喉から漏れた。

(どういうこと……?)

 なんで葵から謝罪をもらわねばならないのだろうか。

「私、どこかで夏生のこと下に見てた。絶対私のほうが速いって……でも、本当はそう思わないといけないぐらい、夏生に嫉妬してたの……」

「な、なんで……?」

 どうして葵が夏生に嫉妬したりするのか。純粋な疑問と、溌剌とした幼なじみからもたらされた発言のショックが混ぜって、ただ短く問うことしか出来なかった。

「私には、最初から走ることしかなかったの。でも、夏生は違うでしょ? なんでも選べて、その中から陸上を選んで……自分が好きだからって楽しそうに走ってる夏生を見て、どうしようもなく羨ましかったの。私は絶対、そんなふうにはなれないから」

 副種族の特性によって部活動や職業を決めたり、というのはすでに当たり前の常識となっている。

 葵のように動物の副種族をもつ者は幼少期からスポーツクラブに通うものだし、反対に魚の副種族の者は泳ぎが得意なことが多く、水泳をやっているものが多い。

 鮮やかな花を携えた者は、子役など小さい頃から芸能界に入ることもある。

 そうやって、副種族がなにであるかによって、その子の習い事や将来の方向性というものはある程度レールが引かれるものだ。

「だから、夏生に勝てると安心してた。いくら夏生が頑張ったって私に勝てることはないんだからって……そうしないと、羨ましくって仕方なかったの……私は勉強も出来ないし、他の運動は下手だし、本当に走ることしか出来ないんだもん……!」

 街灯の真っ白な照明の下で、葵の青白い顔が浮かぶ。苦しむように眉間に寄った皺が深くなって、口元は自嘲するような笑みを象っていた。

「本当は、知ってたよ。中学に入った頃から夏生が私とのタイムとか気にしてたの。それでも私は、ずっと大会でメダル取ったら一緒に写真撮って、それでどこか心が満たされてたの……だから、夏生に生まれつき持ってるからだって言われて……図星だったから、なんにも言えなくなっちゃった……だって本当だもん。私はなんにも努力したわけじゃなくて……走るのに向いてる体を最初からもらったの」

 乾いた笑いの後に、葵は俯いてしまった。三角の耳が、同じようにぺたりとうなだれた。

「罰が当たったんだって思ってたよ。今までずっと自分の気持ちを保つために心の中で馬鹿にしてたから、とうとう自分がそういうふうに言われる番だって……だから最初から怒ってないの。むしろ、謝んなきゃいけないのは私……ごめんなさい……」

「あおい……」

 衝撃に頭が固まってしまう。ショックだった。まさか、ずっと一緒だった幼なじみに見下されていたなんて知って、なにも思わない方がおかしい。

 ただ、怒りは微塵もなかった。

 どこか安堵と親近感を覚えたと言ってもいい。

(なんだ、葵もそうなんだね)

 この世界はないものねだりなのだ。欲しいものを全て持ち得る人間なんて存在しなくて、みんな誰かを羨んで生きてる。

 その感情に、副種族も無種族も関係ない。そう思うと、自分も葵たちとなんら変わらない一人の人間なのだと思えた。

「……私ら、似たもの同士だったってことだね」

 へらりと、不器用な笑みを浮かべれば、葵の固まった体から力が抜けて強ばった頬が溶ける。

「そうみたいだね」

 目が合って、どちらからともなく泣きそうに笑って、そうして秋の夜空の下で小さく笑い合った二人は、最終的にすっきりした顔で各々の家に帰った。

 中に入ると、廊下で落ち着きなくそわそわしていた母が待っていて、帰ってきた夏生が「ただいま」と笑うと、ほっと安心したみたいに母も笑った。



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