第28話

「あんた、よく二年の教室に我が物顔で入って来れたわね……図太すぎない?」

 パックの野菜ジュースを飲みながら、涼音は据わった目で夏生を見た。黒い蝶の耳が、パタパタと苛立ちを表すように揺れている。

「今日に限って教室で食べてる涼音さんがいけないんじゃないですか?」

「まあまあ涼ちゃん、せっかく後輩が来てくれたんだもん。一緒にご飯食べるぐらい、いいじゃない」

「絢、そんなこというとまた来るわよ、この子。こんな不機嫌そうな顔で来られたらせっかくのお昼も台無しじゃない」

 いつも涼音と一緒にいるふんわりとパーマのかかった茶髪の女子生徒――絢は、そう言い放つ涼音に「もう」と窘めるように漏らした。

 いつもならば昼休みは中庭のベンチに向かう夏生だが、昨日の今日で和佳の顔を見る気にならず、こうして一つ上の階にある二年生の教室を訪れていた。

「……和佳さんの話が出来るの、涼音さんしかいないんですもん」

 黙って弁当を食べていた夏生が小さく言うと、涼音はわざとらしく大きくため息をつき、

「で? なにがあったわけ?」

 と、呆れた顔で訊ねた。

「そうそう。溜め込むよりも話した方が楽になるわよ」

 机を向かい合わせにして食べていた二人に、横から割り込むように座っていた夏生は、ムスッとした涼音と朗らかに笑う絢の顔を見比べて「実は……」と昨日のことを掻い摘まんで話した。

 進学しないことを言ってもらえなかった。

 死ぬまで家に閉じこもって過ごすつもりで、一緒に外に行きたいという夏生の手を取ってもらえなかった。

 それで喧嘩になった、と。

 喧嘩と言うよりは、夏生が一人だけ駄々をこねているようなものだが、和佳が頑固なのも変わらないので「喧嘩」と伝えた。

 ぶつぶつと愚痴るように言い切った夏生に、涼音は更に目を細めて「あのお母さんか……」と思い出すように言った。

「会ったことあるんですか? 和佳さんのお母さん」

「中学に上がった頃に一回だけ見たことある。和佳先輩が歩いてるだけで横でハラハラしながら見てたわ。ごめんねごめんねってずっと謝ってたっけ」

「どうしてお母さんが謝るんですか?」

「さあ? でも、植物系の副種族みたいだったし、そのせいじゃない?」

 首を傾げる夏生の横で、得てしたように絢は声を上げた。

「あ~自分のせいだと思っちゃってるのね、片桐先輩のお母さん。だからあそこまで過保護なのかしら」

 副種族というものは、ほとんどが遺伝によるものだと考えられている。そのため、両親が植物ならば子も植物、両親が魚と植物であれば子はそのどちらかの副種族を発現する。

 しかし、アマリリスの花を持つ母から生まれた岩瀬がアオモジの花を咲かせているように、個別の種まで同じと言うことにはならない。植物、という共通点だけが遺伝する。

 つまり、花の副種族である和佳は、植物の副種族をもつ母からの遺伝である可能性が高いのだ。

 それを絢に丁寧に解説され、理解した夏生は「はあ?」と驚愕の声を上げた。

「なにそれ……別に謝ることじゃなくない? どういうふうに副種族の特性が出るかなんて、誰も分からないんだもん」

 表面的に花が咲いている場合もあれば、和佳のように傍目には分からない場合もある。涼音は耳のところにその蝶の特徴が出ており、絢は花冠のように頭に枝が巻き付き、小さな蜜柑の実がなっていた。

 ぶすくれた顔で机に顎を置く夏生を、二年生二人は顔を見合わせて笑った。涼音の方は、どこか馬鹿にしたような感じだったけれど。

「分かってないわね~。そんなでかい図体でもまだ子どもね」

「小川さん、親としてはどうしても気にしてしまうものよ。自分のせいで、子どもが苦しんでるって思ってしまうのも無理はないわ」

 ――ごめんね、夏生。

 中学生の頃に聞いた、泣き濡れた母の声を思い出してしまった。ツキン、と胸が痛む。

「ふーん……」

 それを悟らせないように、興味がないような素振りで相づちを打った。そんな夏生を横目に、涼音が野菜ジュースの最後の一口を飲み干し、パックを潰している。

「うちは親が小児科医で、私よりも重症な子を知ってるから、ほとんど心配なんてされなかった……空調を整えておけば死ぬこともないしね。だから、心配されるのって嬉しいことだと思ってた」

「……涼ちゃん」

 難しい顔で、涼音がぽつりと漏らす。

「けど、あそこまでしきりに謝られると息が詰まるわよね」

 けろりと笑って言うが、涼音の瞳の奥には幼少期の拭えない淋しさが見えた。

 夏生は改めて、(この人は本当に自分がして欲しかったことを、和佳さんにしてあげていたんだな……)と実感する。そして、涼音に対して言い過ぎてしまったかな、とちょっぴり心が痛んだ。

 あの時は、感情のままに言葉を向けてしまったから――。

 シュンと珍しく落ち込んだ夏生に気づかず、涼音の瞳がじろりと見下ろす。

「あんた、和佳先輩が受け入れてることに怒ってるみたいだけど、逆にあの和佳先輩が親の言うことに逆らって親に無駄な心労をかけてまで自分の意志を優先すると思うの?」

 半年間一緒にいたんでしょ? と、さっきまでのしおらしさを吹き飛ばした涼音が言う。夏生は言葉に詰まるしかない。

「私は、あの人の中の外への欲求っていうか、そういうのが少しでも大きくなって自分の心に従えたらなって思って……遠足にだって誘ったし、たくさん写真送って動画だって送った……喜んでくれてたし、それが和佳さんの中でなにかを変えてくれてるって思ってたのに」

 自分の都合良く解釈していただけなんだろうか。

 ――これだけあれば、十分なの。

 心底そう思っている満足げな声を思い出し、また気分が沈んでいく。あれっぽっちじゃ和佳の未練にはなれないのだと、本人から突きつけられたのだ。

 もっと見たい。もっと色んなところに行きたい。あの人に、そう思って欲しかったのに――。

(全然十分じゃないよ……足りなさすぎるよ……)

 背中を丸めて机に突っ伏してしまった夏生に、今度は困ったように二人は顔を合わせた。そして再びため息をついた涼音が、夏生のつむじを見下ろす。

「渡された物を受け取るとの、自分で手を伸ばして掴むのじゃ違うでしょ?」

「つまり渡されれば喜ぶけど、自分から手を伸ばすほどじゃないってこと? あいたっ!」

 起こした顔に、涼音の手刀が入った。鼻の頭を押さえて夏生が痛みに呻く。

「涼ちゃん、手を上げちゃだめよ」

「こいつが馬鹿なみたいなこと言うからよ」

 びしっと人差し指を向け、涼音は夏生の額をトントンと叩いた。

「労力が違うでしょって話。心の労力が。しかも、そのネックになってるご両親は別に和佳先輩が憎くて閉じ込めてるわけじゃない。好意で縛り付けられてるからこそ、それを振り払うには、それだけ和佳先輩にも強い意志がないとダメなの。あの優しい先輩が、人の好意をいらないって言えると思える? しかも母親は自分のせいでって気に病んでるのに」

 夏生は静かに首を振った。

 自分よりも他者を重んじる和佳が、他人の心配を振り払えるわけがない。しかもそれは大事な家族からで、和佳が受け入れなければ母がさらに心労を募らせることとなる。

 涼音の言うことは、夏生だってよく分かっている。分かっているのだ。

 でも、自分のしてきたことが全部無駄だったように思えて、夏生の心を重くする。

「……じゃあ、どうすればいいんですか」

 そんなの、絶対無理じゃないか。和佳が人の好意を無下にしているところなんて、想像がつかない。この半年間、夏生が頑張ってきたってダメなのに。泣き言を言う夏生の額を、涼音は指で弾いて叱咤する。

「ふん。随分弱気ね。私にあんな啖呵切ってたくせに」

 ――私は、和佳さんを花にしたくない!

 数ヶ月前の自分の言葉が、ぐさぐさと胸に突き刺さる。あれだけのことを言っておいて、この様だ。

 あの頃の涼音は随分夏生を敵視していて、冷ややかな目を向けられたものだった。じっとうなだれたまま見上げてみると、スンとした表情の涼音と目が合った。

(……冷たいのはデフォか……)

 ゴツンと、また机上と額が音を発する。

 でも、あれ以来涼音は和佳のことを過剰に心配することはなくなった。まず和佳がどうしたいかを気にかけているようで、夏生が外へ連れ出そうとしているときも和佳の反応をよく見ている。

「……そうだよ」

 一筋の光が差したような心地だった。

「和佳さんが無理なら、他に変えられるものがあるじゃん」

 独りごちる夏生の目に光が戻る。突然やる気に満ちた夏生に、涼音はある考えに思い至ってしまい、歪に口角を上げた。

「ちょ、ちょっとあんた……なに考えてんの? まさか……」

 顔を青くした涼音の手を取り、夏生は身を乗り出す。

「涼音さん、ちょっと頼みがあるんだけど」



 夏生は難しい顔でリビングの天井を見上げていた。

 ――いい? あんたがなにしようと勝手だけど、それをするならちゃんと責任持って最後まで和佳先輩を支えるのよ?

 思い出されるのは、昼間のこと。念を押すように何度も言い含んだ涼音の言葉だ。

 「責任?」と首を傾げた夏生の額を小突き、涼音は険しいというよりも思案気な顔でさらに重ねた。

「だから、それをしたあとの和佳先輩の人生の責任とりなさいよってこと! 勝手に縁を切ってバイバイなんてしたら地の果てまで追いかけてぶん殴るからね?」

 拳を握って夏生の前にかざし、涼音は何度もそう言っていた。隣で見ていた絢も止めなかったので、涼音が間違ったことを言っているわけじゃない、と思う。

(責任、か……)

 その覚悟があるのかと問われても、実感が湧かないとしか言えない。今までずっと、和佳の笑顔が見たくて突き進んできたから、急に人生の責任と言われても、ピンと来ないのだ。

 ただ、和佳が死ぬまで自分は傍にいるだろうという確信はあった。

「なーに怖い顔して考えてるの? ご飯できるよ?」

 ダイニングテーブルを拭きに来た母を見上げる。夏生は、ふいと視線を天井に戻して訊ねた。

「ねえ、お母さん……」

「んー?」

「死ぬのが怖くないって人に、未練を作らせようとするのはひどいことかな」

 照明を反射するつやつやのダイニングテーブルの半ばで、母の腕がぴたりと止まった。

「それさ、和佳さんのことなんだけど……私は自由に外を見て、楽しんで生きて欲しいの。でも、それをすると和佳さんは予定よりも早く死ぬ可能性があって……閉じこもってなんにも見ないで長く生きられた方が、和佳さんにとっては幸せなのかな?」

 現に、夏生はそれを伝えても振られてしまった。それが和佳の意志と言うことなのだろうか。

 母は心あらずな状態で問いかけた夏生の横顔を見て、夏生が横たわるソファの隅にゆっくりと腰を下ろした。そして、同じように天井を見上げた。

「どう思ってるかなんて、本人に訊かなきゃ分かんないよ。夏生は和佳さんじゃないから」

「でも、訊いても答えてくれなかったら? ……もう振られちゃってるんだけど」

 弱音を吐く夏生の足をぺちんと叩いて、母は「しっかりしな」と叱咤する。

「和佳さんは、嫌だと思ったらなあなあにせずにはっきり言ってくれると思うよ? とくにこの場合は、はっきり言わないとあんたがいつまでも引きずりそうだし……どうなの? やめてくれって言われたの?」

 そう言われてよくよく考えてみるが、和佳が拒絶するような素振りは見えなかった。ごめん、と彼女はずっと謝るばかりだった。

 目をじわじわと見開き、なにかに気づいた夏生の顔に、

「それが答えじゃない?」

 と、母は最後にそう言ってキッチンに戻った。ガスコンロの火のつく音がして、コンソメスープの香りが漂ってくる。

 夏生は弾かれたようにソファから身を起こした。そして、母の背中に問いかける。

「誰かの人生の責任とるのって、どうしたらいいかな?」

 ちょうど帰宅した父が、その言葉に足を滑らせて扉の角に頭をぶつけてうずくまった。痛みに呻く父をそっちのけで、母は振り返って夏生を見ると、白い歯を出してニッと笑った。

「そんなの、最後まで一緒にいてあげられれば十分よ」


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