第29話
十二月に入り寒さがますます厳しくなる中、部屋で試験勉強に励んでいた夏生のスマホがピコンと通知を知らせた。
そこには、つい先日連絡先を交換したばかりの相手の名前が表示されていて、夏生はその連絡をずっと待ちわびていた。
メッセージで送られてきたのは、相手の都合がつくという日時だ。
次の週末の日曜日だった。時間は午後の二時。もしかしたら、土日なら学校が休みだからとあちら側が配慮してくれたのかも知れない。
『分かりました。連絡ありがとうございます』
了承の返事を送ると、すぐに住所が転送されてきた。添付されていた地図は高層マンションが建ち並ぶ一角を示していて、(さすがお嬢様……)と今さらながらに一般家庭の夏生との違いを見せつけられた気がした。
(どんな人たちなんだろ……)
あの和佳の親族だから、そう怖い人はいないだろうと思いたい。同じように大らかで優しい人だったらいいな、と思ってしまうのは自分の都合だろうか。
心配なのは、和佳のことになるとややヒステリック気味になるという母親だったが、その人に分かってもらえないようでは、自分はまだまだということだ。
涼音からの話では、昔は有名なピアニストだったらしく、和佳が生まれて彼女が心配だからと引退したようだ。
それを聞いた時にまず思ったのは、和佳がこの事実を知って悲しんだかどうかだった。
優しいあの人は、他人に無理を強いることなんて心苦しくて仕方ないだろうから、きっと自分のために母の夢を潰してしまったことを、今も後悔しているのではないか、と。
そう思って、夏生はますます和佳をこのまま閉じこもらせるわけにはいかないと奮起したのだ。
一週間ほど前の放課後、和佳のことを涼音に足止めしてもらい、その間に迎えに来ていた佐々山に「和佳さんの両親と話がしたい」と告げて一方的に連絡先を渡した。
駄目元ではあったが、なんとその日の夜に佐々山からメッセージが来たのだ。
『お二人とも忙しい方なので、随分と先になる可能性もありますがご了承ください』
絵文字もスタンプもなく、その文面だけが送られてきた。佐々山のその見た目の通り、シンプルで簡潔な文章だ。
それに了承を示し、その後の連絡を待っていたところ、こうして返事がきたのだった。
(もっと時間がかかるかと思ってた……)
もし春にでもなったらどうしようかと不安だったが、想像よりもうんと早かった。
やっとここまで来た。細い糸がどうにかつながった。これがダメだったら、依岡や空谷など教員たちに頼み込んで連絡を取ってもらうつもりだったがそちらはあまりにも可能性が低すぎる。
(ここまで来たら、あとは私が頑張るだけだ!)
渇を入れるように自身の両頬をパンと叩いた。じんと痛みが広がり、それにぶるりと体を震わせた。
決戦は約一週間後。その日、夏生は和佳の人生をもらうために彼女の両親と対面する。
スマホの地図を見ながら、顔をあちこちに向けてようやく辿り着いたマンションは、真上を見ないと最上階が見えないほどに大きかった。
マンションの敷地は広く、建物の周囲には木々が植えられ緑が多い。メインエントランスへ続く歩道の脇に小さな水路が通っていて、水のせせらぎが聞こえる自然の豊かな場所だった。
(さすがにスカイツリーよりは低いけど、なんか遠足を思い出しちゃうな)
ぼけっと見上げていた夏生の前でエントランスの扉が開く。中からは黒髪を綺麗にまとめた女性――佐々山が出迎えに現れた。
「そろそろ来られる頃かと思っていました」
「今日は、本当にありがとうございます」
こうしてここにいられるのは佐々山のおかげだ。直角に下げた頭を見下ろし、彼女は小さく笑みを作ったが、夏生が顔を上げた頃にはいつもの無表情に戻ってしまっていた。
「奥様と旦那様がお待ちです。お二人には、和佳さんのことで話がある方が会いたがっているとしか伝えていません」
「それだけで十分です。あの、和佳さんは……」
佐々山の後に続いて長いロビーを進み、夏生が知るエレベーターの二倍は広いだろうそれに乗り込んだ。
上層階のボタンを押した佐々山は、そのまま夏生に目を向けずに答える。
「和佳さんにはまだ知らせていません。ただ、休日にご両親が揃っていらっしゃるので不思議そうにはされていましたが……」
「そうですか。ありがとうございます」
和佳に言わないで欲しいと頼んだのは夏生だ。もし事前に知らせてこの約束を反故にされたり、親になにか言われて夏生の話を聞いてもらえなくなっては意味がない。
(考える隙を与えない。そうすれば、きっと和佳さんの本音が聞ける……)
ゆったりとエレベーターのドアが開くと、バクバクと心臓が大きく鳴り始めた。
ああ、今まで試合の前だって緊張したことは無かったのに……!
どこか変じゃないかな。母に和佳の家に行くと言って服は見てもらったけれど、いまさら心配になってきた。
(いやいや涼音さんにだって確認とったし大丈夫でしょ)
普段、オシャレにとんと興味も関心もない夏生は、さすがにいつものゆるい私服じゃダメだよな、と涼音に意見を仰いだ。
『高校生だしあんま堅苦しすぎてもあっちがビックリしちゃうだろうから、カジュアルなかんじでまとめれば大丈夫じゃない? ジャケット着てればキチッと見えるでしょ』
と、彼女からはなんとも適当な返事をもらった。
基本スカートなんて履かない夏生のクローゼットにはパンツスタイルばかりなので、マニッシュムードな雰囲気でまとめることにした。
タートルネックにパンツ、足元のローファーまで黒一色でまとめ、アウターは柔らかなブラウンのチェックジャケット。
母にも涼音にも見てもらったので、きっと大丈夫だ。でもちょっぴり不安になって、鍵を開けようとしていた佐々山を引き留める。
「あ、あの……服とかって変じゃないですか……?」
きょとりと目をしばたたかせた佐々山は、そのまま足元まで視線を往復させてからどことなく雰囲気を柔らかくして答える。
「夏生さんの長身を生かしたお似合いのお洋服だと思いますよ」
「ならよかったです……」
「では、開けますね」
一瞥され、夏生はごくりと息を呑んでから頷いた。
3LDKの高層階フロアに足を踏み入れると、まず夏生の家の優に二倍は広いだろう玄関スペースに迎え入れられた。差し出されたふかふかのスリッパを借りて進むと、左右に廊下が伸びていて、佐々山は「こちらです」と左の扉に向かう。すると、ちょうど反対側の扉が開き、見慣れた顔がひょこりと現れた。
「あ、佐々山さん帰ってきて……夏生ちゃん?」
どうしてここに?
和佳がここまで驚愕した顔は初めて見たかもしれない。そんな暢気なことを考える余裕があった。
和佳は、夏生が想像していたように上品なフェミニンな装いだった。白のスリープブラウスにコクーンカーディガンを羽織り、花柄のフレアスカートが優雅に揺れている。
「なんで、夏生ちゃんが?」
激しく混乱している様子に申し訳なく思いつつも、(私服見られてラッキー)と思ってしまう程度には、夏生の腹は据わっていた。
「ごめんね和佳さん、勝手にこんなことして……でも、どうしても納得できないの」
「どういうこと?」
詰め寄るように肩に置かれた彼女の手に触れて目を合わせれば、和佳はわけが分からないとゆるゆると首を振った。
「佐々山さん? もう来られたの?」
背後で扉が開き、女性の声が響く。三人揃って振り返ると、茶髪を巻いた少しきつい目つきの美しい女性が困惑して夏生を見ている。
「あなたが、話があるって言う……?」
子どもじゃない、と小さく呟くのが聞こえた。
(もしかして、学校の教師とかが来ると思ってたのかな……)
それならすぐに日程を合わせてもらえたのも納得だ。忙しいのに申し訳ないことをした。
女性の背後からは、白髪交じりの温和そうな男性が顔を覗かせる。
(なるほど、たしかに和佳さんの親だ……!)
二人を掛け合わせた顔立ちの和佳を横目に捉え、内心でちょっぴり感動してしまう。あまりに両親の特徴を綺麗に受け継いでいる。
「初めまして。私、和佳さんの後輩の小川夏生と言います」
今日はお時間取っていただきありがとうございます。
戸惑いを含んだ和佳の両親の眼差しを受けながら、夏生は凜と声を張って頭を下げた。
「えっと、小川さんだったかしら? 私たちは今日、佐々山さんから和佳のことで話があるっていう人がいるからと……時間を取ったのだけれど……」
言外に「あなたが?」と窺う目で見る和佳の母に夏生は素直に頷いた。場所を二十五畳もあるだだっ広いリビングに移し、夏生と和佳は両親と向かい合うようにソファに腰掛けていた。
「それで、私たちに話したいこととはなんでしょうか?」
柔らかな口調で正面の父親が訊ねる。それは和佳も気になるようで、三人の視線が夏生に集まる。キッチンで紅茶の準備をしている佐々山だけが、我関せずと背中を向けていた。
「今日はお願いがあってきました。高校卒業後も和佳さんを自由に外に行かせて欲しいんです。和佳さんを連れて行きたい場所がたくさんあります」
和佳が息を呑んだ。咄嗟に夏生に伸びそうになった手が、自身の膝の上で握られる。
母親が、苛立ったようにひくりと眉を震わせた。
「ちょっと、私たちはなにも和佳のことを閉じ込めている訳じゃないのよ?」
「でも、許可を取らないと遠足にも行けないことを自由だとは思いません」
「あのね、あなたになにが分かるの? この子の命に関わるのよ? そんな簡単に外に連れて行くなんて言わないでちょうだい!」
心外そうに目を眇め、母親は語気を強めた。それでも夏生は怯んだ様子も見せず、じっと両親の目を見て言葉を紡ぐ。
「和佳さんがその生活を望んでいるなら私も納得します。でも、そうじゃないと思っているからここにいます」
「……和佳、そうなのか?」
気遣うように父親の優しい目が和佳に向く。逃げるように和佳は目を伏せ、膝の上で握った拳を見下ろした。
「私は……」
「そんなことないわよね? 和佳だって頷いたもの。高校を出たらあとは家の中で一緒にゆっくり過ごしましょうって……ね?」
身を乗り出した母の言葉に、和佳は頷いた。途端に母親の顔は「ほら!」と明るくなった。
「あなたの勘違いよ。全く……一体どこに自分で自分の体を傷つける人間がいるっていうの?」
「和佳、本当にいいんだね?」
再び父親が本人に訊ねたが、和佳はまたこくりと頷いただけだった。横でそれを見ていた夏生に、苛立ちに近いもどかしさが溢れる。
(全然よくないじゃん!)
けれど、両親の前で大きく声を上げるわけにもいかない。ましてやこの前のように子どもみたく泣き喚くことも。
落ち着け、落ち着け……。気づかれないようにゆっくりと深呼吸をして、どうにか心を静める。
涼音のときに学んだはずだ。感情のままに口を開くと相手を傷つけてしまうと。夏生は、なにも和佳の両親を傷つけたいわけじゃないのだ。
けれど――。
「私だって、本当ならこの子に外を見せてあげたいわ……本当にごめんね、和佳……私のせいでこんなことに……私がちゃんと産んで上げられれば、あなたを苦しませることもなかったのに」
「母さん……」
潤んだ瞳を見られないように母親が俯く。その震える肩を、父親がそっと抱いた。
「……そんなことないわ、お母さん」
母親を慰めるように微笑む和佳の横顔は、空虚で淋しいものに見えた。途端に、和佳さんの親だから、とどこか遠慮していた糸がプツンと切れたのが分かった。
「……親に謝られる子どもの気持ち、考えたことがありますか?」
静かに抑揚なく向けた問いに、和佳の両親は揃って面食らったように目を開いた。和佳の体がびくりと怯えるように強ばる。
「あなた、一体なにを言って……?」
「謝られるとね、今の自分じゃダメなんだって思うんです。どれだけその体で苦しんでたって、親にだけはそれを否定されたくないんですよ」
――ごめんね、夏生。
泣いた母の声が耳の奥に返ってくる。思い出すだけで、あの時の切ない悲しみと痛みが夏生の体を襲う。
そりゃ恨んだことだってあった。内心で、どうして? って八つ当たりしたこともある。面倒な子ども心だけれど、それでも親から謝られたくはなかった。
だって夏生は無種族で、それ以外は全部「たられば」でしかなく、夏生自身ではない。どれだけ羨望や嫉妬心を抱いていたって、変われるわけじゃない。受け入れないといけない。生まれたときから無種族で、その環境で生きてきたのが今の小川夏生である。
ずっと、この社会においての個性である副種族のない夏生は、自分を証明できるものなんてないと思っていた。
けれど、副種族があってもなくても、自分を証明出来るものなんて誰もが持ち得ている。今を生きている自分自身がその証なのだ。
(きっと、先輩だってそう思ってるよね?)
水族館の淡い照明を受けて、ぼんやり浮かんだ美しい横顔が瞼の奥に蘇る。
――恨んでないよ。
――これもひっくるめて私だもの。
副種族を恨んでいるかと訊ねた夏生に、和佳はそう言った。あの時は本心なのか夏生に気を遣って嘘を吐いていたのか分からなかったが、今なら分かる。
きっとあれは本心だった。
和佳は、副種族も含めて自分――片桐和佳――だと受け入れていて、そのことを悲観していない。世界を知らないからではなく、自分の運命だと前向きに受け入れているから死ぬのが怖いと思わないのだ。
(だって、そうじゃなきゃお母さんに謝られてそんな淋しい顔しないよね……)
和佳は、なんでも受け入れてしまう。親の心配も、他人からの干渉も、自分自身の運命も、体のことも――。
きっと夏生の嫌いなあの笑顔は、本心を――外に出たいという思いを、気づかないようにしまい込んでいるからなのだ。
「和佳さんは自分の体のことを前向きに受け入れています。恨んだり、卑屈になったりなんてしてない。それなのに、親である貴方たちがそれもひっくるめて和佳さんだって、受け入れてあげなくてどうするんですか? 一生! 死ぬまで! あなたたちが心配だからって、そんな身勝手な優しさで縛り付けて閉じ込めるんですか?」
「あなた、さっきからなんなの!? まるで私たちが悪いみたいじゃない! 子どものことを思ってなにが悪いの? いけないこと?」
肩を怒らせ、母親が立ち上がるのを父の手が止める。キッと厳しい目にさらされても、夏生は毅然として少し苛立ちまじりに放った。
「心配することが悪いことだとは思いません。親が子どもを思うことも悪いことだとは思いません」
そう、本当はなにも悪いことじゃない。ただ、それが本人の意に反して押しつけられたりしていなければ……。
「例えば夕飯の残り物を詰めたお弁当を見て、バスに乗って、水族館に行って……和佳さんがどんな顔で笑うか知っていますか? いつも大人びて一歩引いたように笑ってるのに、そういうときは目を大きくしてきらきらさせながら子どもみたいにはしゃいで笑うんです。あれはなに、これはなにって……指さして訊いてきて、どっちが先輩なんだか分からないぐらい」
思い出して、つい笑ってしまった。そう、夏生は和佳のあの笑顔が好きなんだ。
母親はどこか放心したように肩を落としていて、父親は感情の分からない顔で静かに夏生の言葉を聞いている。
「和佳さんは、外に出ることが好きです。色んなものを見て、体験するのが好きです。半年間の短い時間しかなくても、私は自信を持ってそう言えます。だから、これからは自由に外に出かけられるようにしたいんです。この人に、子どもみたいに笑って、楽しいって言っていて欲しいんです」
そこまで言って、夏生はもう一度頭を下げた。
「お願いします。ご両親に認めて欲しいんです。認めてもらえた上で、一緒に出かけたい……そうじゃないと、和佳さんはきっとご両親の心配をふいにしたって思って、自分を責めるから……心の底から楽しめないから……」
だから、お願いします。
再び響いた夏生の懇願に、部屋が静まりかえる。
佐々山はせっかく淹れた紅茶の出すタイミングを失っていた。四つの赤茶の水面が冷めていくのを見守っている。しかし、その目元は喜ぶようにわずかに緩んでいた。
頭を下げたまま微動だにしない夏生を見下ろし、和佳はこみ上げるものを耐えようと口角を下げて唇を引き結ぶ。そんな娘の様子を、父親はじっと見据え、母親はどこか愕然と眺めていた。
「……どうして、きみはそこまでするんだい? 会って半年の先輩だろう? この先、和佳が死ぬまで付き合うつもりかい?」
「はい。この人が、最後の花びら一枚になるまで傍にいます」
間髪入れずに答えた夏生の言葉に、ついに耐えきれなくなった和佳が、息を呑んで口と鼻を両手で覆う。美しい琥珀の双眼はゆらゆらと揺れていき、瞬きの瞬間にはらりと滴が零れた。
押し殺した嗚咽と、スンスンと鼻を啜る小さな音が聞こえ、夏生は驚いて顔を上げる。和佳の震える肩をそっと撫でた。
すり寄るように夏生の肩に頭を置く和佳に、母親が青ざめた顔で呟くように娘の名を呼んだ。
「和佳……あなた、ずっと無理してたの?」
それに和佳は首を振った。
「お母さんやお父さんが心配してくれるのは嬉しかったし、無理なんてしてない……ただ、考えないようにしていただけ。外はどんなところなんだろうって……」
考えなければ、知らなければ、欲しいと思うこともない。そう無意識に言い聞かせて和佳は自分の中を空っぽにしていた。
あれをしたいこれをしたい――そんなことを思わないように。
「前までは、その日の天気なんて気にしたことがなかったの……だって私には関係ないことだったから」
でも、今は違うのだと和佳は言う。
「晴れの日は同じ日傘に入れるから嬉しい。曇りの日は、日焼けを気にせずにたくさん話が出来る。雨の日はちょっと残念……いつものベンチで二人だけでお弁当が食べられないから……」
泣いたせいで普段よりも掠れた声で、和佳が詠うように紡いでいく。
「毎日、生きてるんだって実感してる。自分の心臓が動いてるのが分かる。私は、花じゃない……! この子が、全部教えてくれたのっ!」
ボロボロと落ちる涙を今度は拭いもせず、和佳はそう言った。
「私、自分の足で好きなところに行きたい。色んなものが見たいの。夏生ちゃんと一緒に……!」
和佳の手が夏生のものに重なる。さっき涙を拭ったせいか、手のひらは濡れていて、しっとりと吸い付くようだ。
和佳の願いは、夏生の心を串刺しにしたように響いた。それぐらい衝撃的で、全身が沸騰したように熱を持つほど嬉しかった。嬉しくて、涙が出そうだった。
そっと手を握り合う少女二人の前で、狼狽する母親の肩を抱き、父親は嬉しそうに目を細めていた。穏やかな笑みは、和佳とよく似ている。
「母さん、和佳の好きにさせてあげよう」
「でも、あの子の体が……」
「安静にして長生きして欲しいって言うのは、私たちの身勝手な優しさだ。小川さんが言うように和佳にその気がなければ、それはあの子を苦しめるだけだよ」
はらりと一粒涙をこぼしてから、やがて母親はこくりと頷いた。
「……あの子、昔から大人しかったから、子どもみたいに無邪気に笑うところなんて、見たことなかったわね」
悔やむように吐き出し、眉間に出来た皺を解してから「小川さん」と静かに呼んだ。
「は、はい!」
ピンと姿勢を正す夏生に、両親は顔を見合わせて互いに微笑むと、父親が代表して口を開く。
「娘のことを、どうかこれからもよろしくお願いします。私たちも協力できることはなんでもしますから」
揃って頭を下げられ、夏生が慌ててそれを止める。しかし、頑固なところは和佳にそっくりで、全然上げてくれないものだから、「はい」と返事をしてこちらも頭を下げたのだ。
「こちらこそよろしくお願いします」
夏生に続いて和佳もぺこりと頭を下げ、四人がちょうど顔を上げたタイミングで佐々山が温かい紅茶の入ったカップを持ってきた。
「随分と白熱されていたようなので、喉が渇いた頃合いかと」
そんな一言とともに、無表情の佐々山が音も立てずにカップを置くとすぐにキッチンに下がってしまう。
一度湯気の立つ紅茶を見下ろしてから顔を上げると、夏生は目元を赤くした和佳と目が合った。そして、どちらからともなくくすくすと笑い出す。
おかしそうに笑う子どもたちの姿に、両親も遅れて同じように喉を震わせた。
母親は、ちょっぴり苦いような、淋しいような笑みで。
四人分の笑い声を背中に受け、佐々山は一人、声も出さずに微笑む。
高く日が昇る午後のこと。きっと温かいと感じるのは、陽差しのせいだけではなかった。
紅茶に続いて佐々山お手製の焼き菓子まで頂戴してしまい、結局夏生がマンションを出たのは夕日が沈んだ頃のことだ。
送っていくと言われたのだが、丁重にお断りした。今は和佳と一緒にいてあげて欲しいと思ったからだ。
コートを羽織った和佳がエントランスまで見送りに来てくれて、外に出ようとした夏生を、抱きついて引き留めた。
「ありがとう、夏生ちゃん」
「私のほうこそ、勝手なことしてごめん……」
ううん、と和佳は首を振り、夏生の胸元から顔を上げる。
「でも、どうしてここまで……?」
「私がそうしたかったから。この先も、和佳さんと一緒にいたかったから」
もっと笑う姿が見たい。もっと喜んでいる顔が見たい。
夏生の走りが綺麗だと言ってくれた人。夏生の大事なものを思い出させてくれた人。
きっと春のあの日に出会えたことは、運命だったんだと――そう思う。
じんわりと目を潤ませて、和佳がふにゃりと相好を崩す。
「私も夏生ちゃんと一緒にいたい。これからもずっと、ずっと……私が散るまで、傍にいて!」
嬉しさで泣く和佳を抱きしめ返し、その耳元で夏生は誓った。
「うん、一緒にいよう。先輩が最後の一枚になるまで、一緒にいよう」
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