第14話
楽しい遠足が終われば、次は学生の楽しみである夏休み――とはいかず、その前には期末試験がある。
梅雨明けは発表されていないものの、七月に入ってから憂鬱な雨の日は少なくなってきていた。けれど、晴天とはいかず、曇った灰色の空を見ていることが多い。
じっとりと夏の暑さが肌に纏わり付くこの季節が、夏生は苦手だ。
(先輩も日傘をさしてるとはいえ、暑いよな……)
雨の日は保健室にお邪魔させてもらっていたが、そうでない日は変わらずあのベンチで弁当を食べている。
今日だって、そんな昼食後の帰り道だ。曇っていて陽は顔を出していないが、それでもやっぱり日に日に暑さは増している。
高等部の校舎が見えてきて、やっと屋内だ……! と夏生は足が自然と速くなる。
そうして日陰に入って涼しげな風を感じ、ほっと一息ついたとき
「ねえ、そこの一年生」
誰かが話しかけてきた。予鈴よりも幾分かゆとりのある時間だ。周囲にはまだ人影はない。
もしかして自分かと振り返れば、そこには二年生の証である青いタイをした少女が立っていた。
(誰この人……しかもめっちゃ睨んできてるし……)
背丈は和佳と同じぐらい。全体的にほっそりとした印象の女子生徒だ。青ざめているような真っ白な肌と漆黒の髪――そして表情の薄い顔。和佳とは対極な冷気を思わせる美しい少女だ。小さな頭の両脇――真っ黒な蝶の耳がときおりパタパタと揺らいで、神秘的に見える。
しかし、そんな美しさも目を眇めて眉間に皺を寄せていては、「きつい人」というイメージを助長させる要素にしかならない。
「あの、なんでしょうか?」
他学年に知り合いなんてほとんどいない夏生からすると、この先輩にこんな顔で見られる覚えはない。
「あなた、どういうつもりなの?」
「は?」
「和佳先輩を外に連れだしてどういうつもりなの?」
――和佳先輩?
出てきた言葉に、つい反応してしまう。なんでこの二年生から、和佳の名前が出てくるというのか。
少女は、親の仇でも見るような顔で夏生を睨めあげ、
「あなたは知らないかもしれないけれど、和佳先輩の体はすごく繊細なの。分かったら、もう和佳先輩を外に連れだすのはやめなさい」
言うだけいって、少女はふんと鼻を鳴らして去って行った。
怒濤の展開に、ぽかんと口を開けて言われ放題だった夏生は、彼女の姿が見えなくなってからじわじわと怒りに震えていた。
(は? なにあれ。そもそもお前誰だよ)
なんで見ず知らずの女に、しかも片桐先輩のことで説教されなきゃいけない?
ムカムカした感情が絶えず湧いてきて、夏生は肩をいからせ大股でズカズカと教室に戻る。朝川や岩瀬はすでに席に戻っていたが、気にする余裕もなく、少し乱暴な仕草で腰掛けた。
その音で夏生に気づいた二人は、互いに目配せしてからそっと夏生を窺い見る。
「……夏生さん、なにかあったんですの?」
「そうそう。いつもは昼休みあとってご機嫌なのに」
先手を取ったのは朝川で、その後に同意を示すように慌てて岩瀬が続けた。
どうしたの? と二人のつぶらな瞳がじっと心配そうに見てくる。言うか言うまいか数秒悩み、夏生は躊躇しつつも「……さっきね」と呟いた。
「なんか知らない二年生に喧嘩売られた、っていうか……急に怒られて……意味わかんないし」
「え~なにそれ……最悪じゃん」
「まあ、災難でしたわね」
気の毒そうな二人の眼差しに、少し苛立ちがおさまる。
「嫌なことがあったらさ、ストレス発散するのが一番だよ!」
パン、と空気を切り替えるように岩瀬が手を叩いて言うと、朝川も「それがいいですわ」とニッコリ笑った。
「ストレス発散……」
以前だったら、嫌なことがあったって走って汗を流せば大抵のことは忘れてしまえた。しかし、今同じことをすると、別のストレスがかかりそうだ。
唸って考えてみたが、それらしきものが浮かばず、夏生は「例えば?」と逆に二人に訊ねてみた。
「私は灯里ちゃんと一緒にショッピングでしょうか? 大好きなお友達と一緒に色んなお店を回るのは楽しいですよ」
「さっすが幼なじみ……いつも一緒にいるもんね~」
「はい。それに、お祖父さまやお祖母さまが私一人だと外に出して下さらないので」
「あ~……なるほど……」
黒い水晶みたいな瞳を伏せ、憂い顔で朝川が言うと、途端に岩瀬が気の毒そうに声を上げた。
夏生はさっぱり訳が分からず、朝川の言葉にぎょっとして驚いていると、朝川本人が微苦笑して
「実は私のお母様はお父様と駆け落ちして、家を飛び出してしまったんですの。でも、私が幼いときに二人とも事故で亡くなって……私のことはお祖父さまたちが引き取って下さったんですが、お母様のことがトラウマなのか私も一人にするといなくなると思っていて、常に誰かと一緒じゃないと落ち着けないんですの」
「……まじか……それは、なんていうか」
可愛らしい困り顔で言うようなもんじゃないだろ……重い話に夏生はつい言葉が詰まる。言葉を振り絞る夏生の様子に朝川は「気にしないで下さい」とくすくす笑った。
「詩乃ちゃんちの駆け落ちは有名な話なんだよね。そのあとのお祖父さんたちの憔悴具合がすごかったみたいで、お孫さんに過保護なのもそのせいだってみんな知ってるし」
「うっそ……みんな知ってんの?」
岩瀬の潜めた声に、夏生も小声で驚く。
自分の家庭事情を学校の生徒も周知しているなんて、居心地が悪くないだろうか。ちらりと本人の様子を窺うが、朝川に気にした様子は見られない。
「とくに初等部の方は、ご両親などもみんな昔からの顔見知りということが多いですし、知っていても不思議じゃありませんわ。変に噂されているわけでもなく、事実の伝達だけですから気にもなりませんし」
むしろ詳しく説明せずに理解を示してくれるので助かってますの。と朝川は朗らかに笑う。夏生は思わず感心してしまった。
(本人がこう言ってるんだし、気にしすぎるのもかえって失礼かな……)
と、夏生は思い直した。
(それにしても、幼なじみと二人なら許可が出るってことは、そうとう家族から信頼されてるんだ……)
二人がある程度大きくなってから、と言うわけでもなく昔からそうだと言うのだから、祖父母からの信頼度の高さが窺える。
一見すると、下手したら小学生に見えるのに……と夏生は意外そうに朝川の幼なじみ――萩野灯里を思い出す。
いつも怒ったように眉と目をつり上げてむっつりとした顔の洋風人形みたいな少女だ。母が海外の人らしく、日本人離れした金の髪に青い瞳が特徴的で、副種族である鳥の羽根の形をした耳は、彼女が話すとパタパタと小さく羽ばたいていてよく印象に残っている。
いつも怒りがちな萩野を、まあまあと横で宥めているのが朝川だ。どちらかというと面倒を見ているのは朝川のように見える。
「芽依さんは、ストレス発散になにかしますの?」
「私? うーん、やっぱり舞台の上で大きな声を出す、かな?」
「岩瀬さんて演劇部だっけ?」
入学して間もなく、背の高さを見込まれて入部を勧められたことを思い出し、夏生が訊けば「そうだよ」とVサインと共に笑みが返ってくる。……もちろん入部はやんわりと断った。
「ママみたいな女優になるのが夢なんだ~!」
両手を組み、岩瀬をぽっと夢見るように瞳を宙に向ける。
「岩瀬さんのお母さんて女優なの?」
「あら、夏生さん知らなかったんですか? そっくりですわよ」
珍しく笑みを崩し、目を丸めた朝川に言われて、居たたまれなさに襲われた。
「ごめん、あんまテレビ見なくて……」
ニュース番組なら目にする機会もあるが、ドラマとなると全くといっていいほど見ない。
「そりゃ全人類に知っててもらえるなんてあるわけないし、気にしないで! でも、ママの演技ってほんとすごいの……機会があったら見てみてね」
ちなみに、これがママなの。と岩瀬がスマホのフォルダを開いて一枚の写真を見せてきた。そこには、腰までのストレートな茶髪に、花冠のように真っ赤なアマリリスを咲かせた美しい女性が写っていた。手には台本と思しき冊子を持っていて、一心に読み込んでいる。カメラに気づいた様子はない。
(たしかに、雰囲気よく似てる……)
つり目がちなぱっちりとした瞳に、真っ直ぐに伸びるサラサラの髪。写真の女性は無表情で手元を注視しているが、たしかに岩瀬が笑みを消せばこういう顔になるだろうと想像がつく。
「綺麗な人だね……」
率直な感想だった。凜とした女性の雰囲気と、真っ赤な主張の激しいアマリリスがよく合っている。
「そうなの! ママってとっても綺麗なの! 私も似てるってよく言われるし、顔は悪くないと思うんだけど……これじゃあねえ……」
爛々とした瞳から一転、岩瀬はしょげるように肩を落としながら「これ」と額から伸びる枝を指で軽く揺らした。
「アオモジじゃだめなの?」
「枝物って地味でしょ? 芸能人てパッと見で華やかな人が多いし、あとは女優ってなると出来れば臨機応変に調節できる人の方が重宝されるんだよね」
「調節?」
「あんまり目立ちすぎちゃダメな役柄とか花はいらないなってときに花を切って見た目を変えるの。でも私は枝物でしょ? 一回切るともとに戻るまでに花よりも時間がかかるし、しかも額から出てるからどうしても見えちゃうしね」
ママには向いてないって言われてるんだ。とため息交じりに岩瀬はぼやいた。
「アオモジの花、可愛いけどな」
岩瀬のアオモジが花を咲かせていたのは出会ったばかりの頃だったが、それでも小ぶりな白い花がたくさん付いている姿は可愛らしかったと記憶している。
「ええ、それにアオモジの花言葉は友人が多い。まさに明るくて友達の多い芽依さんにピッタリ。きっとたくさん縁に恵まれますわ」
「ほんと~?」
うるうると瞳を揺らし、岩瀬は顎を机に置いて二人を見上げる。揃って頷けば、「ありがとう~」と大袈裟なほどに感激している。
「今年の嶺桜祭で、私ヒロインやるから絶対見に来てね!」
「まあ、それはすごいですわ! 絶対見に行きます」
「文化祭だと、初日と二日目か」
嶺桜祭とは、秋に行う文化祭二日間と体育祭一日を合わせた、計三日間の代桜女の恒例行事である。
演劇部は毎年文化祭中に演劇ホールで公演を行っているし、ダンス部や吹奏楽部、合唱部や有志の人たちは、体育館のステージを貸し切って順にパフォーマンスが披露出来る。
「ちなみにお相手の王子様役は、三年の珠季先輩だから! 楽しみにしてて!」
「……その人って有名な人なの?」
ちょっと戸惑いがちに訊けば、岩瀬もそうだが朝川も大きく頷いた。
「中等からの外進生なんだけど、夏生ちゃんぐらい身長が高くてショートカットのボーイッシュな先輩なの。ちょっと垂れ目がちなのがまたアンニュイな雰囲気でかっこいいんだ~……」
「中学の頃から、王子様の役というと下田先輩で決まっていましたからね」
それ目当てに演劇部を見に行く方もいるんですよ。
ふんふんと聞いていた夏生だったが、朝川の言葉に引っかかりを覚え、「ちょっと待って」と手を上げた。二人は律儀に口を閉じる。
「珠季先輩って……下田珠季?」
つい最近聞いたことのある名を、そろそろと告げてみる。すると、二人は互いに目を合わせてから夏生に戻し、こくりと頷いて見せたのだ。
(あのバスのときの先輩じゃん……!)
苦い思い出に、夏生は頭を抱える。年甲斐もなくやきもちなんてやいて和佳を困らせた記憶が蘇ってきて、暴れたい衝動に駆られた。
顔を伏せ、バタバタと長い足を揺らしている夏生に、朝川と岩瀬は不思議そうに首を傾げ合った。そうこうしているうちに予鈴が鳴って、同時に教師が姿を現す。
途端に静けさを取り戻した午後の授業中も、度々頭を過る記憶に羞恥を覚えつつ、夏生はなんとかやり過ごした。
下校中の電車内で、夏生は鞄を前に抱えてつり革を持ちながら、ぼんやり外を眺めていた。
夏に入って陽も長くなってきたので、まだ真っ赤な夕暮れが雲の切れ目から空を広く染めている。
窓に薄く映った自分の姿に、
(丸くなったな……)
と感慨深く思った。別に見かけが太ったとか言うわけではなく、入学当初の他者へ向ける壁が薄くなったな、という意味だ。
(前だったら、二人に言わなかっただろうし……)
見知らぬ二年生の行いにどんなに苛立っていようが、きっと以前の夏生なら「大丈夫」「なんでもない」と適当に笑って誤魔化していただろう。
そもそも、二人に気取らせるようなことはなかったと思う。二人に対して、どこか甘えが出てきたのだろうか。
「……なんか、普通の友達みたいだったな」
ぽつりと漏れて、ハッと我に返って周囲を目だけで見渡す。あいにくと、夏生の独り言に気づいた人はいなさそうだ。声が小さかったのと、電車の走行音が大きかったのが幸いした。
(……前ほど、副種族持ちの人を妬んでないからかも……)
だって、あんな情報を見てしまったあとだ。羨ましいだなんてどの口で言えるだろう。
それに、副種族があろうがなかろうが、大なり小なりみんな苦労していることがあると知れた。それだけで、なんとなく世界が広がった気がしたのだ。
(いや、今まではただ私が拒んでただけか……)
自分はみんなと違う。副種族もち、ってだけで恨めしくて妬ましくて距離を作ってた。都合の悪いことは見ないようにしていた。
だって、持って生まれてこれたのに、それをいらないなんてずるいじゃないか。きっと少し前の夏生なら、そう思ってやさぐれていたはずだ。
でも今は、和佳のおかげで気づけた。少しは受け入れられるようになった。理由もなく、副種族を持っているからってだけで、周囲に壁を張ることはなくなった。
(先輩、今頃なにやってるかな……)
車窓に映った夏生は、鞄の持ち手に腕を通して胸の前に抱えている。鞄のファスナーには目玉焼きのキーホルダーがついていて、遠足で行った食品サンプル店で和佳とお揃いで買ったものだ。窓ガラス越しにそれを見て、なんとなく和佳に思いをはせた。
そして、ショップで目玉焼きとゆで卵のスライス、どちらにしようかとうんうん唸る和佳の姿まで思い出して、押し殺した笑いが漏れてしまった。
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