第15話

「二年生で、蝶の耳に黒い髪のきつい顔立ち……?」

 きょとりと瞬く和佳の瞳に、夏生は首を何度も上下に振って頷く。久方ぶりの燦々とした晴天に、わずかに汗を滲ませつつある昼休み。

 一本の日傘の影にそっと二人の少女の姿を押し込んでいる中、夏生は昨日のことを和佳に訊ねていた。

 すでに夏生の弁当箱は空になって保冷バッグに戻されている。二人の間で食事のスピードに差があることなどすでに承知の上で、先に食べ終わった夏生がこうして和佳の日傘を二人の頭上にさすのも慣れたものである。――といっても、夏生は今さら日焼けなんて気にしないので、傘は和佳のほうに傾いている。

 和佳は、小さい口をもぐもぐと動かしつつ、考えるように視線を宙に飛ばした。そのうちこくりと細い喉が動いて、

涼音すずねちゃんかしら……? 蝶の副種族なんだけれど……きつい顔立ちじゃないのよね……うーん、でも私の知り合いってそう多くもないし……」

 と、独り言みたいに悩ましく告げた。

「絶対その人。す、涼音だっけ? 黒い蝶の耳でしょ?」

「そう。荒木涼音ちゃん。クロアゲハの副種族で、昆虫と同じように変温動物の気質まで受け継いじゃったらしくて、ずっと病院で入院してたみたいなの……中等部から学校に通えるようになったけど空調の整った保健室でずっと通ってて、私ともその時に会ったのよ」

「へ~……変温動物……」

 外見的特徴以外で副種族の特性を引き継いでいるのは、あまり見ないがいないわけでもない。

 変温動物ということは、外の気温によって自身の体温も変化してしまう。そうなると夏や冬に外に出るのは確かに厳しそうだ。

(あれ?)

 そこで夏生は首を傾げる。ねえ、と和佳のほうに身を乗り出した。

「でもその人、今は保健室通いじゃないよね? 今まで一回も見たことないし、この前は外にもいたし」

 すると、和佳が「そうなの!」と表情を緩めた。

「中等部を卒業するころには変温動物の特性も弱まってて、高校からは他の生徒と一緒に教室に通えることになったの!」

 自分のことみたいに喜ぶ和佳を横目に、

(だからあんなに懐いてんのか……)

 と、納得がいった。

 きっと和佳のことだから、可愛い後輩の世話を喜んでやくだろう。いや、本人は世話をしている自覚はなく、人として当然の気配りをしていただけかも知れない。

 しかし、相手はきっと和佳のそれに助けられていたのだろう。

 昨日の氷のような冷えた鋭い瞳を思いだし、夏生はぶるりと身震いする。

 あんな目で夏生を見るぐらいに、和佳を慕っているのだ。

(いやでも、あんな勝手に決めつけて言ってくるのもどうなのよ……片桐先輩の体のことぐらい私だって知ってるし、その上で外に出てきてるのに……)

 言い返すことが出来なかったせいか、ずっともやもやしたものが夏生の胸に燻っている。

「……でも、元気に通ってるみたいで良かった」

「会ってないの?」

 あんなに慕ってるのに? 和佳の言葉に驚いてしまう。

「たまに顔を見せてくれるけど、やっぱり忙しいみたいで……」

 和佳の薄く笑った口元は、たしかに後輩の健康を喜んでいるようだが、睫毛が影を落とす瞳はどこか淋しそうだ。

(意外と薄情なヤツ……)

 それだけ慕ってるくせに、自分の調子が戻れば和佳のことなんて気にもしていないのか。

 頭に浮かぶ氷の視線に、今度はぺっと唾を吐きかける。

 そんな人が今さら出てきてなんだというのか。昨日の出来事に、さらに苛立ちが加算された。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした。作ったの私じゃないけど」

「ふふ、今日も美味しかったって伝えて」

「お母さん調子乗っちゃって、片桐先輩が好きそうなレシピばっか集めてる。最近じゃ、私のがおまけ扱いだからね」

 うちの子はなんにも言わないから作りがいないわー、なんて朝のキッチンで母がわざとらしくぼやいていた。

「相変わらず仲がいいのね」

 くすくすと鈴みたいな声が心地よい。横に置いた保冷バッグをとって和佳は弁当箱をしまう。それに合わせて、夏生は傘の角度を変えた。

 白い首に汗の滴が見えて、ハンカチをそっと押し当てた。和佳はぴくりと肩をふるわせ、じっとされるがままになる。

「最近暑いね」

「……言ってくれれば自分でふくのに」

 ぽっと和佳の白い頬が赤らんだ。和佳は、夏生のハンカチで汗を拭かれることが恥ずかしいらしい。夏場になってから知った新たな一面だ。

 拭いてもらうことではなく、夏生のハンカチを汚すのが嫌らしい。和佳のハンカチで汗を拭いてやったときはこんな反応はしなかった。

「……片桐先輩さ、暑いのしんどくない?」

 別に、荒木涼音に言われたから気にしてるわけじゃない。梅雨明け発表はまだだが、確実に終わりは近くなっていて雨の気配は遠のいている。

 夏休みに入るまであと二週間程度。

 その間にも、気温は高くなって陽差しは強くなるだろう。夏休みが終わったばかりの九月だって、暑さは残っている。このまま、ずっと外でこうして弁当を食べる、というわけにはいかない。

「たしかに暑さはあるけど……でも、大丈夫よ?」

「……そっか」

 本当に? て訊きたくて、でも夏生はなにも言えなかった。



 陽差しを避けるように木陰を渡り歩いて校舎に戻った。それを見計らったように背後から呼びかけられた。

(同じことが昨日あったな……)

 と、振り向くと思った通り、涼音が立っていた。

 じわじわと肌を焼かれるような暑さの中なのに、白すぎる肌と真っ黒な髪のコントラストのせいか、彼女の周囲だけがひんやりと冷気を持っているように見える。涼音の瞳が涼しげに

「昨日言ったわよね? 和佳先輩を外に出すなって」

「……私も先輩の体のことは知ってます。でも、外に出るか出ないかはあなたには関係ないことでしょ」

 ムッと涼音の顔がしかめられる。そんな顔をされても怖くはない。

 今さら出てきてあれこれ言われたって、夏生には微塵も痛くはない。

 しかめっ面のまま、涼音は「あなたが……」と呻いた。

「あなたがあそこに行くから、和佳先輩はあそこに行くのよ。先輩は優しいから……あなたが和佳先輩に無理をさせてるんでしょう!?」

 ドキリとして、心臓に冷たいものが走る。なにか鋭いもので串刺しにされたような、そんな気分だ。さっきまでこちらがやり返してやった気分だったのに、今じゃ谷底に突き落とされた。

 ――私と会う前から、片桐先輩はあのベンチにいた。

 そう言おうとして、でもそれは春先のことでしょう? と冷静な頭が止める。夏に入ってまで、彼女はあそこに一人でいただろうか? と。

 遠足でいつもより花を散らす姿。日傘の下で、暑さに息をつく姿。

 思い当たる姿が頭に浮かんで、それが夏生の喉をつっかえさせた。見ないようにしていただけで、本当は心の中で自分も同じことを思っていたから。

 ――私が弁当を持って行くから、片桐先輩はあそこに来るんじゃないか?

 和佳は優しいから、自分からやめて欲しいと言えるわけない。

 突きつけられた言葉に、夏生は悔しそうに唇を噛み、黙り込むしかなかった。

 ズキズキと針の突き刺さった心が痛む。

 そんな夏生を鋭く一瞥し、

「知っているなら分かるでしょう?」

 と、涼音は静かに言い聞かせるように言った。

「夏の暑さも陽差しの強さも、和佳先輩の体に障るわ……もう、外には行かないで」

 あなたが行けば、先輩も行く。

 言外に匂わされた言葉が、容易に頭に浮かんだ。

 鋭く突き刺すような瞳の中に、涼音は最後に後輩を窺う気遣いを一瞬見せ、しかしなにも言わずに去って行った。

 校舎の中は、外の眩さに比べると薄暗い。窓ガラス越しに刺すような陽光を眺めて(暑そう……)と夏生は思った。

 見ただけで分かる。そんな暑さだと。

 蝉が必死に鳴いている声が、耳にぐわんぐわんと木霊する。陽炎が石畳の傍を揺らいで視界を狂わせ、蝉の声に鼓膜が五月蠅いぐらい揺さぶられる。

 頭がぐらぐらするような錯覚の中で思い出したのは、白い肌に浮かぶ汗の粒とベンチに零れた薄桃の花弁だった。

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