第20話

 九月に入り、早々に夏休みが明けた。

 といっても、急に涼しくなるわけでもなく、外は体を蒸すような暑さが充満している。

 早帰りだったのは始業式当日だけのことで、翌日からは普段通りの生活が始まった。

 陸上部だった頃は、夏場での外の練習なんて慣れたものだが、だからといって暑さに不快感を覚えないわけじゃない。

 うんざりとした様子で、夏生は窓枠の形に切り取られた空を見る。入道雲が、もくもくと大きな白い山を作っていた。

 クラスメイトたちもそんな暑さに辟易としているかと思いきや、休み明けの教室内はどこか浮き足立つようなふわふわした雰囲気が広がっていた。

 どうしたのだろう。不思議に思った夏生は、前の席に座る岩瀬の背中をつんとつつく。

「どうしたの? 夏生ちゃん」

 岩瀬は、椅子ごと後ろに下がって振り返った。いつもどおりの二つ結びの栗色の髪が、ふわりと揺れる。

 夏生は少し前屈みになって、声を潜め

「なんかみんな雰囲気ちがくない? そわそわしてる?」

 と訊くと、岩瀬は一度ぐるっと周囲を見てから「ああ」と納得する。

「ほら、嶺桜祭が近いから。クラスの出し物とか部活のパフォーマンスとか……色々決めなきゃいけないこともあるけど、学校の外の人も来るからみんな張りきってるんだよ」

 私だって、舞台のお披露目だしね! と岩瀬は片手をあげて力こぶを作りながら言った。

「嶺桜祭ねえ……」

 毎年十月半ばから後半にかけての三日間を使ってひらかれる、代桜女の中でも大きなイベントの一つだ。

 ということは、近日中に出し物や体育祭での出場競技の決定などが話し合われるのだろう。

(出たくないな~)

  さすがに一種目も出場せず、とはいかないだろうから、出来れば玉入れや大玉転がしなど、複数人で出来て走らないものがいいな、と夏生は思った。

 大勢の前で走って競い合うのは、出来れば避けたいものだ。



 木陰を選んでぐねぐねと進むか、それとも陽を浴びて直進するか。夏生は後者を選んで手で目元に影を作りながら進んでいた。

 校舎を出るときに、ちょうど友人と歩いている涼音を見つけ、あちらも夏生に気づいたのでぺこりと礼儀程度に挨拶をした。あっちも相変わらす冷ややかな雰囲気をまとったままふんと鼻を鳴らす。

 夏生の進行方向とは別なので、きっと食堂にでもいくのだろう。わざわざ話すこともないし、とそのまま通り過ぎようとしたのだが、「あっ」と思い出して背後から声をかけた。

「ねえ涼音さんこれ知ってる?」

「はあ? ……なにこれ」

 話しかけられるとは思っていなかった涼音は驚いていたものの、夏生がさしだしたスマホの画面を見てぐっと眼を細めて怪訝そうに見てくる。

「電球ソーダ」

「……あなた、電球を使ってドリンクを飲むの? 他人が口をだすのもあれだけれど、体に良くないんじゃない?」

「いや、本物の電球じゃないし」

 あらぬ疑いをかけられ、夏生が呆れながら訂正するけれど「本当に?」と涼音からの疑いは晴れない。

「そういう形の容器に入ってるだけの普通の飲み物だよ」

 和佳は真新しいものや知らないものを見たとき――とくにこういう目で見て楽しむようなものはきらきらさせた目に好奇心を詰め込んで見る。しかし、涼音は真逆で、知らないものを見るとまず警戒するように顔をしかめてじっと見つめる。野生動物みたいな警戒心だ。

 想像していた反応だったので、それに満足してスマホをしまい、「じゃあね」と手を振って別れた。

「は? なんだったの」

 意味が分からない。そう嘆く声が聞こえたが、夏生は気にせず和佳の待つベンチに向かった。

 ちょっとドキドキしながら芝生を踏みしめる。

 夏祭りの日、通話を切ってしまったことはあのあとメッセージで謝罪を入れた。和佳はそれに関してなにも言わなかったが、多分葵との会話は聞こえていたはずだ。

 花火の日以降も、電話はなかったもののメッセージのやり取りは何度かした。散歩がてら通りかかった公園の風景や、道ばたに咲いていた花たち。なんでもないようで、でもちょっと誰かに見せたい。そんなものを写真に撮っては和佳に送った。

「和佳さん久しぶり」

「久しぶり、夏生ちゃん」

 朗らかに笑うそ和佳は、真っ白な日傘の影で美しい瞳を向けてくる。

「これ、お弁当です」

「ありがとう……ふふ、休みの間、お弁当が恋しくなっちゃったわ」

「それ聞いたらお母さん喜びますよ」

 傘を閉じた和佳は、手を合わせて「いただきます」をすると、逸る気持ちを押さえるようにゆっくりと口へ運ぶ。待ち望んでいたものを与えられ、ふわりと頬が緩む。

 相変わらず一口は小さいが、食べるスピードはいつもより早い気がする。そんな和佳の様子を眺めながら、夏生も弁当を平らげる。

 腹が満たされると、さっきまで空腹で紛れていた暑さが再び襲ってくる。そこで夏生は、今日のためにと用意したものをバッグから取り出した。

「和佳さん、これ使ってください」

「……なあに、これ? 扇風機?」

 パステルカラーのピンクと水色の扇風機は、棒付きキャンディみたいな形だ。手のひらサイズの円に真っ直ぐ持ち手が付いている。

 扇風機を持って目をぱちくりさせる和佳の前で、持ち手の付け根にある丸いスイッチを押すと、羽根が動き出して風を送り出す。

 一度押しただけなのでふんわりと頬を撫でるような微風だ。これなら、さほど刺激にもならないだろう。

 和佳は風に浸るように目を閉じて満喫している。

 夏生も自分のほうの扇風機にスイッチを入れる。

 この扇風機の風速は三段階あり、本当なら一番強くして風を浴びたいところだが、それで和佳が散ってしまっては大変だ。

 ときおり、鳥の鳴き声が響くのを聞いて二人で風を浴びていると、ふいに和佳が言いづらそうに瞳を揺らした。

「あの、夏生ちゃん……花火を見せてくれたときあったでしょう?」

 切り出された話に、夏生は息をのんだ。でも、動揺していると知られたくなくて、平静を装ったまま「うん」と頷いた。

 もしかしたら聞き流してくれているかもって、期待してたんだけど……。

「話してたの聞こえちゃってて……ごめんね? それで、インターハイってなにかなって調べたの。運動の大会なのね。そしたら競技してる人の動画も出てきて……」

「見たの?」

「ええ、みんなすごかったわ」

 笑って褒める和佳の可愛らしい顔が、ひどく憎たらしく思えた。

 そっか。見ちゃったんだ。

(そうしたら、もう私が走ってる姿なんて色あせて見えるだろうな……)

 咄嗟に落胆した自分に驚いた。どうしてそんな分かっていたことにショックを受けているんだろう。

「そりゃ、みんな豹とかチーターとか馬とは……そういう競技に適した副種族ばっかだもん。迫力あるよね」

 混乱して、考える前に口を開いてしまった。和佳へ向けて棘のある言葉が吐き出される。なのに、その棘は自分の心に刺さった。

「そうね。たしかに動画だったけれど迫力はあったかも……」

 和佳が話す度に、痛みが走る。顔を見ていられなくて、夏生は俯いた。和佳は気づかず、「あっ」と楽しそうに声を上げる。

「でも、私は夏生ちゃんの走りが一番綺麗だなって思ったわ」

 刺さった棘を、押し込まれた気分だった。防御反応のように反射的に「やめてよ!」と叫んでいた。

 大きな声に和佳の体が怯えるように震える。でも、口が止まらない。

「綺麗、綺麗っていうけどさ、和佳さんはちゃんと私の走りなんて見たことないでしょ?」

 風に浚われたプリントを追って、数メートル駆けた姿を見ただけじゃないか。

「それに、フォームが出来てたって速くなきゃ意味がないの! 勝てなきゃ意味がないんだから! 所詮、私たちのレースなんて前座で、どう頑張ったって副種族持ちには勝てないんだよ……」

「そんなひどいことを言われたから、やめちゃったの?」

「気づいたからやめたの。持って生まれてこられなかった私に走る資格なんてないって」

 悲痛そうに顔を歪める和佳は、まるで夏生の表情をそのまま写し取ったようだった。

 沈黙の中に、手元の扇風機から微かな稼働音が響く。

「やめよ、もう終わったことだしさ! 私はもう陸上やる気はないし、関係ないよ!」

「……あの子はやめて欲しくなかったみたいだけど……」

 葵のことを言っているのだとすぐに分かった。

「葵は、ずっと一緒だった幼なじみが勝手に一人でやめたから理由が知りたいだけだよ。なんでなんでって……そればっかり訊いてくるんだから……」

 嘲笑した夏生を、和佳が戸惑いの眼差しで見る。

 ああ、こんなふうにやさぐれているところを見せたのって初めてだっけ。

(和佳さんは私のこと優しいって言うけど、どうしようもなく醜いヤツなんだよ……)

 過去の自分の言動を思い返し、はっと投げやりな笑いが出た。

 幼なじみの六科葵とは、中学の卒業式以降会ってはいなかった。

 「卒業おめでとう」の垂れ幕のついた記章を胸に付け、温かくなり始めた気候に春の兆しを感じながら、当時の夏生は代桜女への入学を夢見ていた。

 涙を交えて別れを惜しむような友人もいないので、泣き濡れて抱き合うクラスメイトを後目に荷物をまとめてさっさと帰宅した。そのとき、友達と話し込む葵とすれ違った。一瞬……もしかしたら勘違いかも、そんな風に思えるほどのわずかな時間、目が合っただけだ。会ったと言ってもその程度。

 最後に話をしたのは、部活をやめたとき。話というよりも、お互いに自分の思っていることを一方的に投げ合っただけだ。

 大会が終わって、そのまま部活には一度も顔を出さずに顧問に退部を申し出た。引き留められはしたけれど、それを無下にしてほぼ無理矢理に退部届を渡した。

 それを知った葵は、最初こそ募るように「どうして」とうるさかったが、夏生の様子からなにかを感じ取ったのか、次第にこちらの顔色を窺うように訊ねてくるようになった。それでも、訊くことをやめはしなかったのだから、当時の夏生はしつこいなとうんざりしていた。

(たかが無種族が一人、部活をやめたって葵にはなにも関係ないのに)

 べつに同じレースに出るわけでもないし……。夏生はそう思っていた。

 適当に「飽きた」「面倒になった」と言ってみても誤魔化されてはくれなくて、葵は心底分からないと困惑しきった顔で何度も夏生の前に現れた。

「部活をやめてからあんまりにしつこかったから言ってあげたの。あんたと違って私は走る資格を与えてもらえなかったからやめるんだって。あんたが速いのなんて、豹の副種族だからでしょ? って」

 隣に座る和佳は息をのんだ。

 幻滅したかな……。夏生はそんな彼女の顔が見たくなくて目を伏せた。

 ――いいよね。葵は生まれたときから与えられてて。私が走ってる姿を見てどう思ってた? どうせ意味なんてないのに走ってて馬鹿みたいだったろうね。

 嫉妬心をこめて、傷つけるという意思を持って、なじるように吐き出した。ショックを受けた様子の葵から目をそらし、そのまま背中を向けた。

「私の苦労なんて知らないくせにっ!」

 肌がびりびりと震えるような叫びが、後ろから飛んできた。刹那、夏生は瞠目し、そうして目を据わらせる。

「そっちだって知らないでしょ。私がどんな思いでいたかなんて」

 だから、あんなにしつこく無神経に辞めた理由なんて訊いてくるのだ。

 聞こえてもそうでなくてもどうでもよかった。わざと大きく声を出すでもなく、振り向きもせずに言った。会話をしたのはそれが最後だ。それ以来、葵は「どうして」と訊ねてくることはなかったし、夏生から話をすることもなかったから。

 今だって羨望や妬心がなくなった訳じゃない。ただ、昔のようにそれに呑まれてなにもかもが憎く見えるようなことはなくなった。

 今なら、もう少し落ち着いて話が出来るかも知れないけれど、言った言葉は消せやしない。

「最低でしょう? 同じクラブにいたんだから、葵が練習してる姿だって見てるのに、まるで生まれ持ったそれだけで勝ち上がってるみたいな……そんな今までの努力をなかったことにして、ただ傷つけた」

 夏生は、自分が欲しいものを持っている葵に、八つ当たりしただけなのだ。

 あーあ、言っちゃった。夏生はがくりと首を落とし、薄く笑った。

(和佳さん、なんて言うかな……)

 優しいこの人だから、どうしてそんなひどいことをって怒るかな?

 うなだれて落ちる髪の隙間から、そろりと窺い見る。ゆっくりと顔を上げていき、和佳の表情が目に止まる前に手の甲を温かい熱が包んだ。

「最低だなんて思わないわ。確かに夏生ちゃんの言葉は葵さんを傷つけたかも知れない。でも、夏生ちゃんは自分でそのことをちゃんと分かってる。だってこんな顔で笑うんだもの」

 白い指が夏生の頬にかかる髪を優しく払い、そのまま輪郭を撫でた。

「後悔しているあなたを、最低だとは思わないわ」

 そう言った和佳の顔に、侮蔑も失望も浮かんでいなくて、まるで母が子を見るような慈愛のこもった瞳がひたと夏生を見つめていた。

「でも私……副種族持ってる子はやっぱり羨ましいし、妬んじゃうよ……」

 この醜い心は、どうやったって消えてくれない。

「夏生ちゃんは、本当に走るのが好きなんだね」

「え?」

 ――走ることが好き?

 どうしてそんな話になるんだろう。

 こてりと首を傾げた夏生に、和佳はおかしそうに笑う。

「前に訊いたでしょう? どうして走るのかって。勝ちたくて? 誰かに見て欲しくて? 夏生ちゃんは勝てなきゃ意味がないって言ってたね。確かに競技をしてるんだし速くないとダメかも知れない。でも、夏生ちゃんは勝ちたいから副種族を持ってる人が羨ましい訳じゃないよね?」

「なに、言ってるの?」

 それ以外に、一体なにがあるっていうんだ。ドキドキと焦燥を示すように鼓動が脈打つ。じりじりと背中になにかが近づいている気がする。

「だって、夏生ちゃんは勝ちたいとか速くなりたいとか関係なく、走る資格が欲しくて羨んでるみたい。走ってもいい理由が欲しいんだよね?」

 するりと頬を撫でていた手が落ちて、夏生の手を包む。琥珀の瞳が柔らかく笑む姿に目が離せなかった。

「そんな夏生ちゃんは、やっぱり走ることが好きなんだなって……私はそう思うよ?」



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