第19話

 クーラーのきいたリビングは、涼しく快適だ。レースカーテンを通してもなお目映い陽差しは、午後の室内を明るく照らしている。

「夏生~あんたまたソファでゴロゴロして……宿題やったの?」

 ダイニングテーブルでテレビを見ていた母が、思い出したように声をかけるので、夏生は寝転がったままひらひらと手を振った。

「今日の分は終わらせたから大丈夫」

 夏休みが始まってすでに一週間――長期間の休みとは言え、学生の本分は勉強である。もちろん、各教科でたんまりと宿題が出されていた。

 けれど、夏休み期間の約一ヶ月でコツコツと進めれば、一日の分量はさほど多くはならない。むしろ、今のペースで行けばあと一週間――休み期間を半分ほど残して終えられるだろう。

「あんた夏休みどこか出かけないの? 友達と遊びに行ったりとか」

「え~みんな部活とかで忙しいし……」

 クラスメイトたちと前ほど壁がなくなったと言っても、わざわざ休日に会うほどではない。

 岩瀬は文化祭に向けた演劇部の活動があるし、朝川はそもそも外に出ることを家族からいい顔をされない。遊ぶとしても、彼女の幼なじみである萩野も一緒に行動することになるだろう。

(萩野さんとはほとんど話したことないし……)

 そんなメンバーで集まっても、それぞれが気を遣って楽しくはないだろう。そもそも幼なじみである二人の間に挟まれるのが嫌だ。明らかに邪魔者は夏生だ。

 そうして候補二人を頭から消すと、それ以外に思いつく人がいない。自身の交友関係の少なさに改めて愕然とした。

(まあ別に困ってないしな……)

 しかし、夏生は元来一人行動が苦でもなく、そういったことを気にする質でもないので、次の瞬間にはけろりとしていた。

「和佳ちゃんとは遊ばないの? 今年で卒業でしょう? 大学生になったら遊ぶ時間なんかなくなっちゃうんじゃない?」

「……んー……和佳さんは無理かなあ……」

 寝返りを打ちながら言えば、「まあ受験生だもんね~」と母は一人で納得する。

(そりゃ私だって遊べるなら遊びたいけど……)

 夏生だって、それとなく会えないかな、と匂わせてはみたのだ。鈍いわけではない和佳はすぐに夏生の言いたいことを察してくれた。

「ごめんなさい。遠足に行ってから、母がすごく私の体を気にしてて……だから、しばらく大人しくしてようかなって思うの」

 せっかく声をかけてくれたのに、ごめんなさいね。

 試験が終わって、終業式までの間のことだった。日傘の影で、和佳はそう残念そうに微笑んだ。

 なんだよそれ。大人しく……っていつも通りじゃん。なんて、ふてくされる思いもあったが、遠足に続いてここで駄々をこねても、和佳が両親との板挟みになって苦しむかと物わかりのいい顔で頷いたのだ。

 ソファの上で俯せになり、クッションを顎の下に敷いてスマホを見る。メッセージアプリの和佳とのトーク画面は、初めて稼働した日から動いてはいない。

 なんとなしに指をふっと滑らせて画面をスクロールすると、そこで目に入ってきた名前に、(そういえばまだ候補がいたな……)と思い出した。

 和佳の名前が出ている一つ上には、『荒木涼音』と律儀にフルネームの入った蝶のアイコン。

 トーク画面はまっさらで、ただお互いのアカウントを交換しただけで話をしたわけではない。

 あれから涼音と再び顔を合わせたのも、試験後のことだった。弁当を持って校舎を出るところで、食堂に向かう涼音と偶然鉢合わせたのだ。

 夏生を見て硬直したものの、彼女はすぐに隣にいた友人と別れ、夏生を廊下の隅に呼んだ。

 涼音の目元にはうっすらと隈が出来ていて、試験勉強でそうなったわけではないと夏生には分かった。白い肌からはさらに血色が抜け落ちていて、憔悴――という言葉がピッタリとはまりそうな様子だ。

 しきりに目をしばたいて辿々しく夏生に声をかけると、最後にはぺこりと頭を下げて見せた。

「……ごめんなさい。私、そんなつもりは全然なくて……気づかなかった。あの人が自分と違うなんて、当たり前なのに……」

「……別に。私こそ、大きい声出してすみませんでした」

 ただでさえ身長差があり、威圧感を与えているのに、さらに怒鳴るように声まであげてしまって……。

 きっと、怖かっただろうなと夏生は思った。

 高身長でつり目で、しかも無愛想。夏生は、自分が他人から――とくに同年代ぐらいの女子からどう見られるかをよく理解しているつもりだ。

 怒ってる? と訊かれたことは数え切れないほどあるし、怖いよねとヒソヒソ話す同級生の女子の声を聞いてしまったこともある。

 なんの隔たりもなく話しかけてくる和佳や朝川たちなどが例外なのだ。

 だから、言ったことに後悔はないが、怖がらせたのは悪かったかな……とは思っていた。

 お互いに謝って、そうして少しだけ気まずい沈黙が流れる。涼音の手元のランチバッグを見て、「一緒に食べますか?」と誘ったのは、完全にその場の勢いだった。

 来ないかな、友達も一緒だったし――と、しまったと内省する夏生をよそに涼音は少し考えてから頷いた。誘った夏生のほうが驚いて、「本当に?」なんて再度確認してしまったほどだ。

 そうして歩いている最中、涼音は夏生の大きい体に隠れてスマホで友人に連絡を取っていた。代桜女は校内でのスマホの使用は禁止だ。体を盾にされ、夏生はちゃかっりしてるなと思ったものだが、わざわざ意地悪するのも子どもみたいなのでそのまま影を作っていた。

 しかし、和佳に会うやいなや涼音は泣きそうに頭を下げて、「ごめんなさい」と謝るものだから、その勢いや必死さに(私のときと全然違うじゃん)と白い目で見たが、しくしくと泣く涼音に駆け寄って抱きしめた和佳はどこか手慣れた様子で、そんなふうに涼音を宥めることがよくあったのかな、と思うと胃の辺りがきゅっと絞られた。

(涼音さんも、高校入るまではずっと外に出たことなかったんだっけ……)

 体のことを嘆く涼音を、和佳が抱きしめるときがあったのだろうか。涼音は心配されることは嬉しいと言っていた。

 もしかしたら、和佳にそんなふうに体を気遣ってもらっていたのだろうか。

 それまで、涼音も和佳のように狭い世界しか知らなかったんだろう。そんな狭い世界の中で、彼女の仲間は和佳だけで、そしてああして甘えさせてくれるのも、和佳しかいなかったのかも知れない。

 なんとなく、そう思えた。

 真っ白な保健室の片隅で、初等部から中等部までの九年間。彼女たちはそうして身を寄せ合っていたのかな、ともやもやした気持ちを抱え、しばらく見守ったのちに夏生は二人の間に割って入ったものだ。

 そこで、赤く腫れた目をした涼音をからかって、言い返されて、そうして最後に成り行きで連絡先を交換していた。

 ――結局、使ったことはないけれど。

 じとりと『荒木涼音』の名前を見て、また画面を暗くする。

(和佳さんがいるならまだしも、二人で遊びに行くような仲でもないしな)

 ぽいとスマホをソファに置き、そういえばと夏生は体を起こして母に問う。

「来週さ、お祭りあったよね?」

「ああ、いつものやつね。珍しいじゃない。行くの?」

「考え中……だけど、多分行くと思うからその日は夕飯いいや。屋台で済ませちゃうから」

「そう? じゃあその日は面倒だしお母さんたちも出来合いにしちゃおうかしら」

 放り投げたスマホでぽちぽちと詳しい日時を検索していると、母の窺う視線が突き刺さる。

「ねえ、夏生……お祭りって、誰かと行くの? ほら、葵ちゃんとかしばらく会ってないでしょう?」

「一人で行く」

 出てきた名前に咄嗟に低い声が出た。ハッとしてすぐに

「ほら、私たちが一緒に行ってたのって小学校の頃だけだし……葵だって高校の付き合いあるじゃん? だから一人で行こうかなって。和佳さんにも写真送ろうかなって思ってるし……」

 我ながら言い訳がましいとは思った。しかし、母はそれが分かりながらも「そっか」と頷いてくれた。

 


 祭り当日。

 白いシャツに黒のハイウェストパンツをまとい、ローヒールのサンダルをはいて夏生は夕暮れの沈む頃に家を出た。

 本当はもう少し早く家を出たかったのだが、部屋着同然のTシャツハーフパンツで出かけようとしたところ、母から苦言を呈されて着替える羽目になったのだ。

 どうせ近所だしと思ったが、急かす母に渋々従った。

 夏生が住む地域の祭りは、駅に繋がる大通りと交差した一本を交通規制してずらりと屋台を並べたものだ。一部の区域はフラダンス同好会やダンスチームなどのパフォーマンスの場にもなっていた。

 日が暮れてくると、近くの河川敷で花火もあがり、地元の者は結構顔を出すことが多い。

 駅に向かって歩いて行くと、雑多な人混みと屋台の照明が並ぶ賑やかな姿が見えてきた。

 人の波に入る前にと、隅にあったイカ焼きを一つ買って写真を一枚。続いて、祭りの通りの写真も撮る。

 そして、和佳とのトーク画面に写真を貼り付けて、『地元のお祭り』とだけ入力して送った。

 いつ気づくかな、と思ってとりあえずスマホはポケットにしまってイカ焼きにありつく。この醤油の匂いがたまらない。

 途端に空腹を刺激されて、数分もかからずに食べきってしまった。次はなにを食べようかな、と周囲を見渡していれば、ピコンと通知音がなる。

『わあ、すごく賑わってるのね!』

『これは……イカかしら? 美味しい?』

 予想通りの反応に嬉しくなる。

『イカ焼き。美味しかったよ』

『今から食べ歩きするんだ。和佳さんはご飯まだだよね?』

 打ち込んでから、夏生は口元を緩ませて人の流れに乗った。

 フランクフルトにたこ焼き、チョコバナナ……目についたものは、自分の胃の欲求に従ってあれこれと買いまくった。

 とくに、チョコバナナは可愛らしくラッピングされていて、和佳の反応が良かった。さっきまでは絶えずメッセージでやりとりしていたが、和佳が夕飯だからと退席中なので、スマホも静かにポケットで眠っている。

 夏生は、小休止にとベビーカステラをつまみながらのんびり歩いていた。十分祭りの雰囲気も和佳に伝えられたし、最後に花火の写真を撮って今回は終わりにしようかな、と考えていると、ふいに屋台の一つに目がとまった。

「……電球ソーダ?」

 暖簾に書かれた文字をそのまま呟く。同じような風貌の屋台が並ぶなかで、それはパッと目を引くカラフルなものだ。

 人気らしく、数人が列を作っている。その後ろから、ひょこりと覗くと確かに「電球ソーダ」という名前の通りのものが置いてあった。

 電球の形をした容器に、ソーダなのだろう――カラフルな飲み物が入っている。ネジのようになっている口金部分を上にして、そこにストローをさして飲むらしい。

「メロン、イチゴ、コーラ、レモン……へえ~色々あるんだ」

 眺めていうるうちに、並んでいた人たちは捌けてしまって夏生だけになっていたらしい。店員の若いお姉さんに「どれにします?」と訊かれて、その時になって夏生はそのことに気づいた。

「え、えっと……」

 興味本位で近づいてしまったが、そもそも夏生は炭酸や甘い飲み物が得意ではない。

 ――すみません、大丈夫です。

 そう言って店を後にしようかと思ったが、気づけば目に止まった一つの容器を指さしていた。

「これ……このピーチソーダください」

 はーい、と元気な返事が響いて、ちょうどの小銭と引き換えに飲み物を受け取る。渡されたソーダは、ひんやりと冷たい。表面が結露で濡れているし、容器が丸い形だから滑りそうで怖くて、両手で持ってそそくさと道路の隅に移動した。

「……買っちゃった」

 試しに一口、と少量口に含み、舌に訪れたしゅわしゅわした刺激に口を引き結んでじっと絶える。

 味はピーチの甘さはあるが、思っていたよりはしつこくなくてスッキリしている。

(ちょっとずつなら飲めそう……)

 電球の容器は意外と大きいので、帰る頃まで付き合う羽目になりそうだ。

「あ、そうだ……写真写真……」

 こういった珍しいものこそ、和佳に見せたい。カメラ越しに全体を映し、シャッターを切る。桜のように薄桃色の液体が、屋台の明かりを受けてぼんやりと光っている。

「つい、買っちゃったんだよな……」

 だって、夏生がよく見る花弁に似た色をしていたのだ。

『電球ソーダだって! 炭酸飲めないのに綺麗だから買っちゃった』

 笑ったうさぎのスタンプも一緒に送る。すると、すぐに同じスタンプが送られてきて、

『飲めないのに買っちゃったの?』

 と、和佳が言う。

 それに夏生は、少し考えてから『だって……』と続けた。

『だって、和佳さんの色に似てたから』

 送ってから恥ずかしくなって、きゅるんと目を輝かせたうさぎのスタンプでも送って冗談にしようかと迷う。しかし、そう悩んでいるうちに既読がついてしまって、ああ……と内心で頭を抱えつつ返事を待った。

 しかし、数分経っても返事が来ない。

 ちびちびと飲んでいたピーチソーダは、既に三分の一が飲み終わってしまう。

 首を傾げ、夏生はもしやと考えを巡らせた。

 ――もしかして、

『もしかして、和佳さん、照れてる?』

 打ち込めば、瞬間的に既読がつく。画面を開いたままなのは明白だ。

 それからまた数分待っているとピコンとようやく通知音が鳴った。

『私のこと、思い出してくれてるんだなって嬉しかったの』

 続けざまにスタンプも送られてくる。

 うさぎが両手を顔の前で合わせて頬を赤くしている照れ顔のスタンプ。

「思い出してるに決まってるじゃん……」

 呟き、夏生はごくりとソーダを飲む。痛い、とまではいかない刺激が、喉の粘膜をしゅわしゅわとひりつかせながら降りていった。

 胃の辺りで、泡が弾けたように温かいものが広がる。

「和佳さんに見せたくて祭りにだって来てるのに」

 でも、そんなことは和佳は知らなくていい。伝えれば、彼女は自分のせいで手間をかけていると気にするだろうから。

 だからなにも言わずにただ写真を送って、見たものを和佳と共有したい。家から出なくたって、外への興味を失って欲しくなかった。

 学校がない夏の日を、和佳が家でどうやって過ごしているのかは分からない。ただ、以前言っていたように部屋に閉じこもって音楽を聴いたり、本を読んでいるのだろう。――ただ時間をやり過ごすために。

 だから夏生は、夏休みの期間は出来るだけ外に出て和佳に写真を送るようにしていた。和佳の変化の薄い日常で、どうか今日はいつもと違う日になりますように、と勝手な願いを込めて。

 数年足を運んでいなかったが、祭りに来たのはやはり正解だったと思う。

『もうすぐ花火だから。ビデオ通話してもいい? カメラつなげて電話するやつ』

 いくつか会話を重ねて、夏生は最後にそう送ってから河川敷へと向かった。



 河川敷にはすでに多くの人が集まっていた。

 花火の開始時間はもともと決まっていたので、レジャーシートを広げて場所取りをしているひともいて、みんな今か今かと花火があがるのを待っている。

 腕時計を見ると、あと一分もせずに始まるはずだ。

 和佳に送ったメッセージには、『OK』のうさぎのスタンプ。

『そろそろ花火始まるから、電話してもいい?』

 追加で一言入れると、すぐに和佳から『大丈夫よ』と返ってきたので、メッセージアプリ内のビデオ通話ボタンから発信する。

 呼び出し音は数秒もならずに、通話中の画面へと切り替わった。

『も、もしもし……夏生ちゃん?』

 緊張したような上擦った和佳の声が届く。夏休み前に、夏生が和佳のことを名前で呼ぶようになったのを機に、和佳も夏生のことを名前で呼んでくれるようになった。

 呼ばれ慣れていないのもあるが、和佳と電話で話すのは初めてで、耳元すぐで和佳の声が聞こえると、こそばゆいくすぐったさを感じる。

「和佳さん? 今、大丈夫?」

『ええ、大丈夫よ』

 頷きが返ってくると同時に、川の水面を眺めていた夏生の頭上で、ドンと重たい破裂音が響いた。

 周囲がわっと歓声を上げるように騒がしくなる。見上げた先には、大きな光の花が広がって瞬くように消えていった。

「和佳さん、花火! 花火始まった!」

 すぐにカメラを向ければ、和佳にも見えたのか片方だけ耳につけたイヤホンから、子どもみたいな歓声が聞こえた。

『すごい……こんなに大きいのね……きれい……』

 うっとりとした声は夏生の耳にしみるように広がる。

 相づちをうつように「綺麗だね」と呟いた。

『きっと、実物を見たらもっと綺麗なんでしょうね』

「……うん、すごく綺麗だよ」

 花火なんて、いつぶりだろう。鼓膜に響く重低音や、パッと華やかに広がって溶けるように夜空に消えていく光の花弁たち。その迫力に、肌までびりびりと刺激を感じてしまう。

 ただ惜しいと思うのは、今、画面の向こうの和佳の顔が見られないことだろうか。

 声だけじゃなく、あの琥珀色の瞳が隣で輝くところを見たかった。

「夏祭りなんてたくさんあるしさ、今年が無理でも来年とか……それこそ夏じゃなくても花火は上がるし……いつか、一緒に見に行こうよ」

 内心で恐々としながら言った言葉に、期待なんてしていなかった。むしろ、ダメだろうな、とそんな気さえしていた。でも――。

『そうね……いつか、行けたら……そうしたら、きっと楽しいでしょうね……』

 響く声に、ふいに泣きたくなった。

 行くと約束したわけでもなく、ただもしもの話。もしも行けたなら……そうしたら……。

 否定されなかった。ただそれだけなのに、夏生には嬉しかった。

 なにもかも、自分の体のせいで諦めることを受け入れている和佳から、前向きな返事が返ってきた。

 遠足のときでさえ、夏生の勢いに押されて渋々という体で両親に訊いてくれた和佳が、だ。

「絶対楽しいよ」

 そう断言して、夏生は気づかれないように静かに鼻をすすった。

 ほんの少し、ほんの少しだけ……花になって欲しくないと思う夏生の想いは、和佳の中のなにかを変えてくれているのかも知れないと思った。

 夜空の輝きに揃って見惚れていると、終わりの時間が近づいてきたらしい。花火が続けざまに上がって、勢いを増していく。イヤホンがなければ、和佳の声は聞き取れなかったかも知れない。それほど、花火の音は大きくて、夏生の体全体に振動を伝えてくる。

「夏生……?」

 けれど、そんな花火の音も周囲の人々の歓声も、全て一瞬でかき消えたように耳に届かなくなった。

 息を飲んで振り向くと、Tシャツに短パン姿の女性が一人。彼女の頭上には、動揺を表すようにしきりに揺れる獣の耳があった。

「葵……なんで、」

 よく考えれば、葵だって近所なのだ。来ていたって不思議じゃない。でも、なんの前ぶりもなく訪れた幼なじみの再会は、夏生の心を揺さぶる。

 葵はどうやら友人と来ていたらしく、隣にいた少女に断って夏生に近づいてきた。

「久しぶり。元気にしてた? 代桜女合格したっておばさんから聞いて……遅くなったけど、おめでとう」

「……ありがとう」

 警戒するように身を竦めてしまうと、葵はそれ以上距離を詰めようとはしなかった。お互いにどう話をしていいのか戸惑っている。最後の会話があれだ。無理もない。

 むしろ、あんなことを言った夏生によく話しかけてくれたものだと思う。

「私ね、夏のインターハイ……表彰台のぼったんだ」

「へえ……」

 胸元で、スマホを包むように両手で握り込んだ。真っ暗になって驚いた和佳は、『夏生ちゃん?』と戸惑いの声を上げた。

 胸の奥で燻っていた燃えかすに風が送り込まれ、再び火がついた。じわじわと、胸を焦がすように火は大きくなっていく。

 恨めしい。妬ましい。忘れていた――割りきったと思っていた感情が、また芽吹いてしまう。

「よかったじゃん。おめでとう」

 あまりに無感動で、抑揚のない声。ビクリと葵の体が怯えるように震え、尻尾がゆらりと大きく揺れた。夏生とは違うその体に、しくしくと胸が痛む。

 言わなきゃいけないことは言った。だからもういいだろう。

「それじゃ……」

 それだけ言い残して、夏生は花火の余韻に浸る人々の隙間を縫って逃げ出した。

「夏生! 陸上、高校でやってないの?」

 背中から葵の言葉が突き刺さる。

「するわけないじゃん……」

 あんたと違って、私には走る資格がない。

 聞かせるつもりなんてなくて、思わず口をついたように小さく吐き捨てた。

 静かな暗闇を取り戻した空の下を、夏生は走る。

『夏生ちゃん……?』

 さしたままのイヤホンから、戸惑いの声が届く。忘れてた。和佳と通話が繋がっていたんだ。

(聞かれたかな……今の……)

 しかし、今の荒れた心で和佳と話がしたくなかった。人混みを抜けて家までの夜道を走る途中で、なにも言わず通話の終了ボタンに指を置く。

(ごめん……あとで謝るから……)

 ぷつりと音がして、途端に静かになったイヤホンを乱暴にとり、鞄に突っ込む。ローヒールだから、少し重心がぐらつく。それでも構わず、家まで走り続けた。

 昔だったら、こんな足を痛める恐れのあることはしないな……。そんなふうに思ってしまう自分に、今もあの頃を忘れられていない自分に、心底嫌気がさした。

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