第11話
遠足当日。大型バスが何台もグラウンドに並んでいる。バスのフロントガラス内側の上部には、夏生たちの学校名である『代桜山女子高等学校』とともに、それぞれの行き先が書かれたステッカーが掲示されていた。
生徒たちは一旦学校に集合し、その後それぞれのバスに乗って向かうのだ。
梅雨はまだ明けていないが、幸運なことに今日は快晴。重たい傘を持ち歩かなくていいので、気分はそれだけで上がる。
指定された集合時間まではまだ優に時間があり、生徒は数人見た程度だ。揃うまでにはまだまだ時間がかかるだろう。
夏生は「東京スカイツリー」行きのバスの横を、落ち着きなくうろうろとしていた。
(待ち合わせ早すぎたかな……でも、和佳さんのこと考えればさっさと乗っちゃった方がいいよな……)
遠足前日――昨日の昼休みに集合時間や持ち物やらと二人で確認していたとき、和佳がぽつりと
「三学年一緒なのよね……」
と少し浮かない顔をしていた。もしかして同級生と顔を合わせるのが嫌なのかも、と思った夏生は、
(一番初めにバスに乗って、一番最後にバスを降りれば誰にも会わないのでは?)
と考えた。
早めの集合時間とともに、「他の人が来る前に乗っちゃって席確保しよ」と言えば、ほっとした顔をしていたので、多分夏生が感じたことは間違っていない、と思う。
そうして、まだ教師しかいないような時間にやってきたものだが、まだ和佳の姿は見えない。一人でバスに乗るわけにも行かず、今か今かと夏生は和佳を待っているのだ。
数分と経たない頃、一台の黒い車が裏門からグラウンドに入り停車する。
自宅から送迎車で通学する生徒も多いため、裏門すぐの場所は、乗降用としてスペースが確保されていた。
そこに止まった車から、一人の女子生徒が姿を現す。
(片桐先輩……!)
その姿を見た夏生は、身を乗り出すように手を振った。気づいた和佳が顔を上げ、緊張を滲ませた顔にほっと安堵の色をみせる。
運転席から降りてきたパンツスーツの女性になにか声をかけ、そのまま真っ直ぐに近づいてくる。夏生も、こちらから近寄って出迎えた。
じっと和佳を見送っていた女性にも遠目にぺこりと頭を下げれば、同じように会釈が返ってきた。
「片桐先輩、おはよう」
「おはよう、小川さん」
「まだうちらのバス誰も来てないよ。一番乗り」
笑って言い、夏生はバスまで誘導する。先に行ってと和佳に続いてバスに乗り、一番後ろの五人席ではなく、その一列前の二人席に和佳を窓際にして腰掛けた。
「さっきの人って、お手伝いの佐々山さん?」
「ええ、そうよ。学校の登下校は佐々山さんにお願いしてるの」
「へ~。そういえば前に言ってたもんね」
声を上げながら、ちらりと和佳越しに窓から佐々山を見た。バスまで乗るところを見届けたからか、ちょうど車に乗って出て行こうとしていた。
昼休みの談笑で、和佳から時々名前は聞いていたのだ。
無表情で、なにを考えているか分かりにくいが優しい人だと。
(確かに真顔だったし、怖い雰囲気だったな……)
顔色が変わらない、と言うのもあるが、黒のパンツスーツに、几帳面なほどピッチリとまとめられた乱れのない黒髪のポニーテールも、その雰囲気を助長させている気がする。
和佳が木漏れ日のような温かさと穏やかを想像させられるのに対し、佐々山は真逆だ。なにもかもが冷えた空気に包まれて微動だにしない冬を連想させられる。
(でも、今回の遠足も後押ししてくれたっていうし、良い人なのかな……?)
そわそわと落ち着かない様子の和佳に、お菓子を分けたり話をして和ませていると、気づけばバスの座席はいっぱいになっていて、最後に教師が乗り込んで来て声を響かせた。
「点呼とりますからね! 呼ばれたら返事をするように!」
「はーい」
一名ずつ名簿から名前を読み上げていくのは、佐々山のように黒髪を一糸乱れず後ろでお団子にした女性教諭――天川だ。黒縁のスクエアタイプの眼鏡をかけ、その奥からは切れ長の鋭い目が覗く。
いつだってむっつりとした顔で、それ以外の表情を見せたことがなく、また自身の担当教科である国語以外に、生活指導も担当しているので生徒たちからすると苦手意識が強い教師だ。
今だって、名前を呼ばれた生徒は、どこか控えめにびくびくと返事をしている。
天川は小鳥が副種族らしく、うなじのところに尾羽らしき羽根が見え、体格もひどく小柄だ。夏生と比べると頭一個分は差があるので、夏生自身はさほど苦手意識を持ってはいなかった。
「小川夏生さん」
「はーい!」
少し伸ばした声で挙手とともに返事をする。こちらの姿を確認するように一瞬ギロリと視線が向いたが、確かにあの目つきの鋭さは悪いことをしていなくてもドキッとするな、とぼんやり思った。
最後に和佳の名前が呼ばれ、隣で弾かれたように和佳がわずかに腰を浮かせて「は、はい!」と半分裏返った可愛らしい声を出す。
本人はそれを気にしているらしく、そっと手で口を押さえ恥ずかしそうだ。
「……返事、変じゃなかった?」
「変じゃなかったよ」
むしろ、夏生みたいに気だるげな声の方が問題だろう。
少しして、天川も前方の席に着き、エンジン音とともに車体が揺れ、順々にバスが裏門から出て都会の街並みを進み始めた。
学校を出てそう経たない頃、夏生たちの前から声がかかる。
「和佳ちゃん、和佳ちゃん」
座席の隙間から小声で呼びかけられ、和佳は驚いたように周囲を見渡した。そこで、さらに存在を主張するように、一列前の窓際――ちょうど和佳の前座席からひらひらと手が振られた。
次に、ショートカットの女子生徒がひょこりと顔半分を乗り出してみせた。すっきりとした輪郭は、短髪と相まって青年のように見えた。横にすっと伸びた瞳はわずかに垂れて鋭さは感じさせない。爽やかな微笑を携えた中性的な人物だ。
「下田さん?」
どうやら知り合いらしい。和佳は目をしばたたいてその人物を凝視している。
「久しぶり! 今日来れたんだね。知らなかったからビックリしたよ」
「今日は、許可が取れて……私もビックリした。下田さん、スカイツリーにしたんだね」
「高いところが好きなんだ。一回展望台登ってみたいなって思っててさ。もしよかったら一緒に行く?」
素知らぬ顔で二人の会話に耳を傾けていた夏生は、ドキリとしてハッと下田を見やった。彼女は真後ろの和佳に目をやっているので夏生には気づいていない。
(いやいや、先輩は私と回るし。急になに言ってんの?)
もしかして、学年が違うから友人同士だとは思わなかったんだろうか。和佳の事情も知っているようだし、もしかしたらその立場を気遣っての言葉なのだろう。
どちらにしろ、いい迷惑だ。
ハラハラして、夏生はそろりと和佳を横目に入れた。彼女も誘われるとは思っていなかったのか、目を丸くして驚いている。
すぐに否定の言葉を出さない和佳に、隣で夏生はやきもきしていた。
(もしかして同学年の方が気兼ねなくていいとか?)
ちらりと見えた下田の胸元には、和佳と同じ三年生の象徴である赤いタイが結ばれていた。
和佳が今さら夏生を放って行くわけない、と思っていても、どうにも嫌な想像ばっかりしてしまう。
そもそも、和佳に同級生の知り合いがいることすら知らなかった。よく考えれば、代桜女に十年以上通っているのだからそんなことない、と分かるが、ずっと保健室登校だと聞いてたから、関わりがあったとしてももっと希薄なものだと勝手に思い込んでいたのだ。
(こんなに仲よさげな人がいるなんて知らなかったし……)
もやもやした思いを抱えている夏生はじっとしていられずに足を組んだ。すると、膝の上に置かれた夏生の手に、宥めるようにそっと和佳の白い指先が触れた。
ハッとして彼女を見る。琥珀色の瞳は、下田のほうをじっと見ていた。誠実さを秘めた双眸に、ほんのわずかに心苦しさがよぎる。
「誘ってくれてありがとう。でも、私約束した子がいるの。だから、ごめんなさい」
「いいのいいの! こっちこそ急に誘ってごめんね。そうだよね、約束してるよね?」
あはは、と陽気な笑いと共に「お互い楽しもうね」と下田は引っ込んだ。
二人の間には沈黙が走る。遠くのひそひそ話と、ガタガタとバスの車体が揺れる音が随分大きく聞こえた。
手は、まだ重なったままだ。
「……オッケーすると思った。……一瞬だけ」
拗ねたような口調になっているのは自分でも理解できた。でも、あれだけハラハラさせられたのだから、ちょっとばかし恨み言を言っても許されるだろう。
和佳はそんなことを言われるとは思っていなかったのか、今までで一番大きく瞳を開き、唖然としていた。
それを見ていると、なんだか自分がひどく子どものように思えてきて、夏生は恥ずかしくて「やっぱ今のなし」とそっぽを向く。
「小川さん、私、小川さんと約束してたんだもん。オッケーするわけないでしょ?」
前席の下田に聞こえないようにか、身を寄せて和佳が囁く。その声音は宥めるような意図を持っていた。
そっと重なった手を撫でられ、その手つきの優しさに、和佳が年上だということを意識させられた。
いつもは夏生が世間知らずな和佳に教える側だ。子どもみたいにはしゃぎ、表情を大きく変えるのは和佳で、それを見守るのが夏生。
だから忘れていたけれど、元来のこの人は面倒が良く優しい人なのだ。初めて会ったときも、中等部生のプリントをわざわざ日傘を畳んで拾い集めていたのだから。
「なんですぐそう言ってくれなかったの?」
まんまと和佳に宥められ、もうほとんど拗ねる気持ちは消失していたが、微妙な間があったことは事実なのでそこは気になる。
和佳の目が一瞬だけ下田を見て、さらに夏生と距離を詰める。背の高い夏生の耳に身を乗り出すようにして手を添えて口を寄せ、「あのね」と内緒話をした。
「下田さんはいつも課題のプリントとかを持ってきてくれる子なの。その時に付箋に授業中の要点とかまとめてくれてて、私の体調も気遣ってくれて……こんな日も私のこと気にしてくれたのに、断るのが申し訳ないなって思っちゃって……」
ああ、そっか――。
この人は人の好意を断ることが苦手なのだ。だからこそ、夏生が弁当を持って現れたときも、先手を打って釘を刺したのだろう。
「本当はあっちと一緒に行きたかったとかない?」
「ないわよ。私が約束したのは小川さんだし、遠足に来たのだって、小川さんと回るためだもの」
もう……と困った子を見るような慈愛の色が乗った目に、すっかり夏生は機嫌を良くした。
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