第4話
チャイムの音とともに、生徒のざわめきが起きる。いつものように朝川たちの昼食の誘いを断り、夏生は弁当を取り出した。
昨日は教室に帰ってくるまでの帰路も、あの先輩がいやしないかと気にしていたせいか、思ったより時間がかかってしまい、買ってきたおにぎりと一緒に弁当をかきこむ羽目になった。
(まあ、今日はそんな心配ないけど)
昨日の「おにぎり忘れ事件」のせいか、今日は二段の弁当箱になっていた。片方には白米が、もう片方にはいつも通りおかずが詰め込まれている。
母が、忘れ物対策に、と考えてくれたのだ。「これなら忘れないでしょう?」と、今朝方、朝食を食べる夏生に、弁当の中身をみせながら得意げに言っていた。
弁当の蓋を開けようとしたところで、ふと言葉が耳の奥に返ってくる。
――すごく、綺麗に走るのね。
そんなこと初めて言われた。顧問や監督から、フォームがいいと言われたことはある。もしかしたら、そのことを言っているのかもしれない。
でもあんな純粋な目で、ただただ「すごい」と手放しで褒められるような経験はなかった。
多分きっと、そのせいだ。こんなに頭から離れないのも、思い出してドキドキするのも……。初めて、あんなふうに自分の走りを褒められたから。
(迫力もない、前座で走らされるような走りなのに……)
思い出して、ツキンと胸が痛んだ。
ちらりと時計を見る。昼休みは始まったばかりだし、時間はまだある。一回外に出て、ぶらりと散歩をするぐらいの時間は――。
開きかけた弁当を再び保冷バッグにしまいこみ、それを手にして夏生は立ち上がった。
校舎を出て、昨日と同じ道順で歩きながら、きょろきょろと視線を巡らせた。まだ食堂や購買に向かう生徒の姿がちらほら見える。しかし、その中に昨日の先輩はいなかった。
はあ、と落胆の息が出て、夏生は自分でも驚く。
(私、あの人に会いたいのかな……)
自分でも分からない感情だった。
走ることに未練なんてない。あれ以上走っていたって自分が惨めになるだけだったと思う。
副種族を持って生まれてこなかった――そんな夏生は走る資格を持っていない。
(なのに、なんで嬉しいんだろう……)
昨日感じた背筋のむず痒さは、嬉しかったからだと夏生は遅れて気づいていた。
朝川に速いと褒められたときは、そんなこと思わなかった。
(どうして、あの先輩の言葉だけ……)
しかも、速いと褒められたわけでもないのに――。
気づけば、夏生は昨日と同じように購買まで来てしまっていた。そのことに気づき、慌てて校舎に戻ろうとしたところで、ひらりと花びらが降ってきた。
「……桜?」
薄桃色の花弁だ。しかし、手に取ってみてすぐに桜じゃないと分かった。さほど花に詳しくない夏生でも、桜の花びらぐらいは分かる。
花弁は、桜と同じように淡い桃色だったが一枚がずいぶんと大きい。そして、波打つように柔らかく揺らいでいる。
一体どこから来たのかと夏生はぐるりと見渡した。しかし、五月に入って緑が更に生き生きと映える季節になったが、先月に比べると花の数は少なく思う。近くに桃色の花は見当たらなかった。
首を傾げ、手元の花弁を見下ろす。すると、もう一枚どこからか同じ花びらがやってきた。
咄嗟に、夏生はひらりと飛んできた方向を見る。どうやら購買の奥の中等部校舎、さらにその奥かららしい。
つい興味本位で夏生は校舎の脇を覗く。中等校舎の奥にはたしか球技コートがあったはずだ。夏生は使用したことがないので分からないが、校内図ではそう記載されていたはず。
球技コートに繋がっているであろう整備された芝生の道が、校舎沿いに一本真っ直ぐ延びていて、沿うように植え込みがある。植え込みの内側は他と変わらないように色んな種類の木々が植えられていた。
花はどうやら植え込みの奥――林の方から流されてきているらしい。風に乗ってまた一枚、花びらが夏生の見ている方角から飛んできた。
そろりと周囲に人影がないことを確認して、植え込みの切れ目から中に入る。芝生の柔らかな地面を踏みしめて木々を避けながら奥に行くと、開けた空間にでた。
教室の半分ほどのそのスペースは芝生で覆われ、ベンチが一つだけぽつんと置かれていた。そのベンチに人影が見えて夏生は息を呑んだ。
(あ、昨日の人……)
昨日会った生徒が、一人でベンチに座っている。陽が差しているからか真っ白な日傘をさしてぼんやり木々を眺めている。夏生にはまだ気づいていない。
なんだか急に怖じ気づいて、夏生はこのまま教室に戻ろうかと思った。
(てゆーか、会ってどうする気だったんだろう……)
会いたいと思っていたのは嘘じゃない。けれど、自分でも感情が整理できないまま外に出てきてしまった。
そっと足を後退させ、忍び足で戻ろうとしたとき――革靴越しになにか硬い感触がして、「あっ」と思ったときにはもう遅く、しっかりと踏みしめてしまった。
パキッと枝の折れた音とともに自分からも声が漏れた。
気づいた生徒の目が夏生に向けられる。
琥珀色の瞳が、夏生を捉えてきょとりと瞬く。そしてすぐに弧を描くように細められて
「あら、昨日の」
と、どこか嬉しそうに微笑まれた。
さすがに声をかけられているのに無視して逃げる――とは出来ず、呼ばれるまま彼女に近寄って、夏生は隣に腰掛けた。
夏生にスペースを空けるために端に寄った彼女は、日傘を閉じて綺麗に巻いている。
どうしよう、と夏生は静かに戸惑っていた。
誘われるまま座ってしまったが、用事があるわけではないのだ。考えた末に、「なにしてるんですか?」と無難な質問を繰り出した。
「ただ眺めていただけよ。この時間しか外に出てこられないから……」
夏生みたいに気まずい思いはしていないのか、微笑を浮かべながら言われる。その笑顔に、内心で「ん?」と首を傾げてしまった。
先輩の様子は昨日と変わらず穏やかなものだ。しかし、どこか張り付けたような空虚な印象を持ってしまった。
(昨日は子どもみたいだったのに……)
きらきらした瞳を思い出し、なんとなく残念な気持ちになる。
「この時間しか……って、なんでですか? 病気、とか?」
昼休みが長いから、とかそんな理由じゃないことは想像がついた。もしかしてどこか悪いのかな、と思い付け足してみたが、病人のような青白さも体調の悪さも感じない。
筋肉のついた夏生の手足に比べればほっそりとしているが、健康体に見える。
つい、ジロジロと見てしまった夏生の考えを、見透かしたように女性はくすくすと控えめに笑う。
「病気ではないのよ。ただ、副種族がね……」
途端に夏生の心臓が跳ねた。嫌な言葉を聞いたとばかりに体が強ばった。
そっと目を伏せ、彼女はふいに自分の手の甲を指で擦ってみせた。
すると、不思議なことに肌がほんのりピンクに色づき、はらりと花びらとなって落ちていく。驚き、夏生は言葉をなくした。
目をしばたたかせて落ちていく花を追っていたが、すぐに風で遠くに飛ばされてしまった。
そうして彼女に視線を戻すと、驚いた顔の夏生をおかしそうに見ていた。
「私の副種族は花なんだけど……こうして少しの刺激で体が花になってしまうの」
肌が擦れたり、陽に焼けたり……と言われ、なるほど。だから日傘かと納得し、慌てて「差さなくていいんですか?」と閉じられた日傘を見る。
「いいのよ。少し陽に当たったぐらいじゃ変わらないもの……ただ、若いうちは欠けても細胞の生成速度が上回ってるからいいけれど、年をとるに連れて補えなくなっていって、最後には体が崩れて花びらになってしまうんですって」
お医者さんが言ってたの。三十までは厳しいだろうって。
のんびり告げられた言葉に、悲観するような色はなくて淡々と事実を告げていた。それが、夏生には不気味さを感じさせる。
(三十までって、あと十年ぽっちしかないじゃん)
……いや、三十までは厳しいと言うのだから、正確には十年もない、というほうが正しいのか。
夏生は、ゾッとするような薄気味悪さを感じた。自分があと十年も経たずに死ぬと、飄々と変わらぬ態度で言い放つこの人のことが途端に分からなくなる。
昨日の屈託のない表情を知っているからこそ余計に、今隣にいる人が同一人物なのかと疑いたくなった。
流れる空気に重苦しさを感じているのは夏生だけだ。彼女は、のんびりした様子で周囲を眺めている。俯く夏生に気づいて、ようやくハッとしたように「こんなこと話してごめんなさい。気にしなくていいのよ?」とあたふたしつつ笑った。
夏生は副種族を持つ人を羨んでいる。でも、目の前でそれに苦しむ人を見て胸がすくような、そんな性悪ではない。素直に可哀想と思ってしまうだろう。
なのに、この人があんまりに普通すぎるから、そんな同情心よりも先に気味が悪いと思ってしまうのだ。
「……あの、」
「ん? どうしたの?」
おもむろに膝の上に載せていた弁当を持ち上げ、「食べますか?」とそろそろと告げる。どうにか今の空気を変えたくて、咄嗟に口から飛び出ていた。
大きな琥珀の瞳が瞬く姿に、さっきまでの不気味さが霧散し、ほっと体が楽になった。
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