第3話
(結局、特別な何かなんて手に入んなかったけど……)
昼休憩に入ってざわめきが増した教室で、夏生は内心で独りごちた。
「夏生さん、私たちは食堂に行きますがどうされますか?」
隣の朝川が席を立ちながら伺ってくるので、夏生は弁当を出して「私は大丈夫」と笑った。
こうも毎度声をかけてくれるのは律儀だよな、と思う。
そして、毎回のように断っても、朝川たちは嫌な顔せずに笑って頷いてくれる。
代桜女には、食堂の他に小さなカフェテリアもあり、どちらもメニューが豊富だ。もちろん夏生のようにクラスや外のベンチで弁当を食べる者もいるが、やはり食堂に行く生徒のほうが多い。
人の少なくなった教室で、夏生は一人で弁当を広げた。中学のときは給食だったが、この一ヶ月で一人で食べることにも慣れた。むしろ、元々交友関係が広い方でもなかったので、一人でいたところで淋しいと思うようなこともなかったのだが……。
大勢での給食が一人での弁当に変わり、制服だって校舎だって変わった。けれど、学生であることに変わりはなくて、登校して、授業を受けて、下校……基本の生活は変わらない。高校生になって始めてのこともあるが、それも革靴や制服が少しずつ肌に馴染んでいくように、慣れれば日常の一つになる。
入学して一月経った今じゃ、どうやっても自分は特別ななにかを手に入れることは出来ないのだと実感していた。
あの日――駅で、特別に輝いて見えていた少女は、いざその学校に入学すれば、たった一人の特別ではなく、大勢の中の一人だったのだと思い知った。
(やっぱり、生まれたときから持っていなかった私は、ダメなんだよな……)
副種族を持つ人が羨ましい……自分だけのなにかを持っているから。
「あれ……?」
いざ弁当を開けて食べ始めようというときに、夏生は普段なら一緒に入っているおにぎりがないことに気づいた。
保冷バッグの中を確認しても空っぽ。もしかして……と弁当箱の蓋を開けてみたが、普段と変わらずおかずだけが詰め込まれている。
「……主食なし?」
どうやら、大事なものを家に忘れてきたらしい。
さすがにおかずだけで夕方までやり過ごすのは厳しいだろう。一瞬だけ思案した夏生は、早々に諦めて弁当を綺麗に蓋して保冷バッグに戻す。
鞄から小銭入れを出してポケットに突っ込み、購買でおにぎりを買ってくることにした。
すでに生徒たちは食堂に移動し終えたのか、廊下は静かだった。ときどき、通りがかった教室から少女たちの話し声がかすかに響いてきている。
(よく考えたら、購買に行くのって初めてかも……)
ずっと弁当生活だったので、昼休みに出歩くというのも初めてだ。そう思うと、少し胸が浮つく。
外に出てまっすぐ進み、中等部の校舎のほうに向かう。購買は西校舎と向かい合うようにあった。一階が雑貨や教科書販売、軽食を取り扱い、二階にはカフェテリアが入っており、スイーツやランチなどが食べられる。
ロータリーを避けるように本校舎前を歩いていると、夏生の進行方向で生徒が二人、道ばたで屈んでいるのが見えた。
一人は夏生と同じ制服だが、もう一人はグレーのセーラー服……中等部の生徒だ。ちらりと見えたが、ばらまいてしまったプリントを拾っているらしい。
落ちた紙をかき集める少女たちの隙間を縫うように、プリントが一枚、風にあおられて二人の背後に回る。
二人ともそれに気づいていない。
歩きながら、夏生がそれを拾おうと腕を伸ばしかけたとき、ざわりと木々が大きく騒いだ。
目の前の二人が強風に短く悲鳴を上げ、体を丸めて、プリントを守るように手をかざした。仲間はずれになっていた一枚は、夏生の手が届く前に簡単に舞い上がり、風に浚われる。
「あっ」と思わず声が出て、それに気づいた生徒二人も、そこで夏生とプリントの存在に気づいた。
ひらりと白い紙が視界を横切り、咄嗟に夏生はそれを追っていた。
石畳と革靴が触れ合ってコツコツと速い足音を立てる。
夏生の目はじっと宙の紙を見つめていた。スカートが風のせいで足に纏わり付いて走りづらさがあるものの、そう進まずに夏生はひょい、と軽い調子で跳んだ。
(花……?)
刹那、重力から解放されて空を見ていると、白い紙とともに視界を薄桃色の花弁が舞っていた。
しかし季節外れな花に気をとられたのは一瞬で、すぐさま夏生は我に返って当初の目的を思い出す。
「よっと……」
プリントにはギリギリ手が届き、ほっと安堵していたために着地がおろそかになった。
「わっ、とと……」
前に転げそうになりながら、なんとか体勢を整える。つかまえたときに力を入れたせいか、プリントの端のほうに皺が出来てしまっていた。
それを引っ張って直しながら、まだ屈んだままで驚いたように夏生を見ていた生徒たちのところに戻った。
プリントの持ち主は中等部生の物のようだ。丸い眼鏡の奥でぽかんとしていたが、夏生がプリントを差し出すと慌てたように立ち上がって受け取り、しきりに頭を下げる。
それに恐縮して夏生がなんとか宥めていれば、それまでじっと夏生を見ていた高等部の生徒が、声をかけてきた。
「……すごく、綺麗に走るのね」
それは夏生に向けたというよりは、つい独り言が漏れてしまったような、そんな声だった。 風で簡単に浚われそうな細い声で、しかしその奥に含まれたどこか陶然とした響きは、夏生の胸を打つ。
そこで初めて、夏生はその生徒をちゃんと見た。
柔らかそうな胸元までの栗色の髪を持つ、優しげな雰囲気の生徒だ。髪と同じ色の瞳は、陽光をいっぱいに吸い込んできらきらと輝き、まるで見入るように夏生に向けられている。
ほっと感嘆の息を漏らすように、その口元と瞳が緩むので、夏生はドキリとした。
(綺麗な人……)
学年を示す胸元のタイは赤。三年生の証だ。
陽に晒されたことのないような真っ白な肌。立ち上がる姿勢はゆったりと優雅で、しかし凜として見えた。
朝川ほど小柄でもないが、どうしても夏生と比べると低い。
琥珀のように透き通った瞳でそっと見上げられると、どうしてかドキドキした。
まるでヒーローを見る子どもみたいな目に、くすぐったさを覚え、夏生は逃げるように顔を逸らした。
「……綺麗に走れたって、速くなければ意味ないですから」
つい、そう口から出た言葉は、自分でも分かるほど捻くれた声音をしていた。中等部の生徒は、おろおろとした様子で二人を見ている。
初対面の先輩相手になにをしてるんだろう、と思ったが、いまさら出た言葉は引っ込められない。
(生意気だ、とか言われるかな……)
振る舞いを見るに、多分内進生だ。そこまで狭量な者はいないと思うが、怒らせて親に告げ口されても困る。そこから学校に話が行けば、夏生が受けている優秀生の学費免除制度にも差し支えるかもしれない。
面倒だな、と眼を伏せる。どうしようと焦るような気持ちにはならなかった。きっと、この学校生活が終わっても構わないと、心のどこかで思っているからかもしれない。
どこに行ったって、夏生がなにも持っていないことに変わりはないから――。
「でも、どこまでも走って行けそうだったわ」
ハッとして顔を上げた。その先輩は微笑んでいた。さっきの夏生の卑屈な言葉なんて聞こえてないように真っ直ぐこちらを見つめながら――。
その視線があまりに純粋でまっさらだったから、夏生は背筋がむずむずする感覚に襲われた。
「……そうですか」なんて、これまた素っ気ない言葉だけ置いて、夏生は二人の前から立ち去る。早く逃げたくて駆け出しそうな体をどうにか抑え、気持ちばかりの早足で進んだ。
走ったら、あの先輩に見られると思った。今だって、気のせいだろうが背中に視線を感じる。
あの眼差しで、自分の走っている姿を見られる……そう考えただけで、ドキドキと心音が速くなって駆け出したい衝動に駆られる。なのに、同じぐらい見られたくないとも思ってしまう。
複雑な胸中を鎮めようと、夏生は視界にある緑を取り込むように息を吸った。でも、全然変わらない。
結局ドキドキしたまま、そそくさと購買に入ってやっと、夏生はほっと息が出来た。
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