第10話(火)

 タクシーは高い。その金額を考えるだけで胃がきゅっとなる。

 アズサが支払いを終える前にいそいそと車外に出て、マンションの張り出した屋根の下に駆け込んだ。メーターからは全力で目を逸らしたから、正確な料金はわからない。さすがに五桁はいっていないと思うから、外食を何回かと思えば高くないような気がしてくるけれど、時間をかければ歩ける距離に対して払うことを思えば、とても高いと言わざるをえなかった。特に余裕のある生活を送っていないミノルからすれば、嫌な汗の出る金額であることは間違いなかった。

 タクシーから降りてきたアズサに手首を掴まれて、連行されるように部屋に連れ込まれる。勢いのまま浴室に押し入れられて、手早く着替えも渡された。

 嫌だな、とミノルは思った。子どものように世話を焼かれることも、恩を売りつけられることも、それに対してなにもできないでいる自分も。アズサは恐らく見返りなど求めていないだろう。知り合った人間を見捨てられないだけの、善良な人なのだろうと思う。その善意が、今のミノルには痛みを伴う毒のように感じられて仕方がなかった。

 溜息をひとつ。ミノルは手早く服を脱ぐと、肩を落としたまま浴室のドアを開けた。


 

 「最近寝つきが悪いから、抱き枕になってほしいんだけど」


 なにを言っているのか、一瞬わからなくなった。

 濡れた毛先からひとつ、雫が落ちてうなじを流れた。驚き過ぎて、手に持ったタオルで拭うこともできなかった。

 

「……性的にってこと?」


 触られて、かわいく喘ぐことが自分にできるのだろうか。少し想像して、それをするくらいなら大雨の中を裸足で出て行った方がましだと思った。


「そんなわけないでしょ」


 アズサが呆れたように言った。


「まあ、ちょっと撫でるくらいかな」

「撫でる……?」


 どこを? と聞きそうになって藪蛇になりそうなのでやめた。その代わりにベッドの上で膝を抱えて小さくなった。

 交換条件、なのだろうか。しばらく泊まらせる代わりに夜のちょっとした相手をしろと、そういうことだろうか。けれども、先ほどアズサは性的なことはしないと言った。だから単純に、ぬいぐるみのようにじっとしておけばいいということなのだろうか。

 頭の中でぐるぐると混乱していると、いつの間にかアズサが目の前に迫ってきていた。後ずさろうとして、背後には壁しかないことを思い出す。


「そんなに怯えないで。変なことはしないから」


 ぶおん、と大きな音がして、強烈な温風が顔を直撃した。思わず目をつぶると、冷えていた頭皮が急速に温められていくのを感じた。

 毛が束になって宙を舞う。銭湯では絶対にお目にかかれない、強烈な風量だった。あっという間に乾いた髪を、仕上げとばかりに他人の手によって撫でつけられる。


「今日の予定は?」

「特には。夜は仕事だけど」

「なら、一時間くらい付き合って。めちゃくちゃ早起きしたから眠くて」

 

 手を引かれて、ころんとベッドに転がされる。抵抗すべきか逡巡していると、背後に回ったアズサに抱き着かれた。腕がお腹のあたりに巻き付いてきて、その感触に身を硬く強張らせる。肩甲骨に彼女の額が当てられてきて、Tシャツ一枚という薄着のせいで、他人の体温をはっきりと感じさせられた。その慣れない状況に、じわりと嫌な汗がにじんでくる。

 以前も同じようなことがあったけれど、あの時は服を何枚か着込んでいたし、いつでも逃げ出せると思っていたから大した負担ではなかった。今の状況とは全てが異なっていた。


「ちょっと我慢してて。たぶんすぐ寝るから」


 その言葉通り、アズサは数分もしないうちに寝息を立て始めた。

 ミノルはぎゅっとシーツを掴むと、なにかに耐えるように強く目をつぶった。


 リミとの行為は全てミノルに主導権があった。誘うのはリミでも、行為を始めるのもリードするのもミノルの方だった。それは彼女なりの気遣いの現れだった。他人の熱が苦手なミノルに配慮した結果、そのような形での関係が続けられていたのだった。だから、ミノルは自身の肌に好き勝手に触れてくる熱というものを知らなかった。振り払うこともできず、ただ縮こまって時間が経つのを待つことしかできなかった。もういっそ、性的な意図を持って触れられた方がましだと思った。そうすればこの手を振り払い、横殴りの雨が降っている外へと飛び出す決心がついたのにと。ミノルはままならない状況にガリガリと心を削られながら、そう思った。

 

 アズサは平均よりも少しだけ寝相が悪かった。ミノルの素足に脚を引っ掛けたり、手が偶然服の隙間に入ることはあったけれど、逆に言ってしまえばただそれだけだった。

 二人にとって誤算だったのは、ミノルはアズサが思っているよりも彼女の言葉を重視していて、そして我慢強かったことだった。一方、アズサはミノルが思っているよりも抜けているところがあって、ミノルの感じている苦痛が、アズサにとっても想定外だということにミノル自身が気付けなかったこともまた、状況を悪化させた原因の一つだった。

 

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