第5話(土)

 睡眠は三大欲求の一つだ。当然、それがなければ人は発狂して、簡単に死んでしまうことだろう。

 見知らぬ窓から見えた空は、綺麗な茜色に染まっている。つまり、今は夕方ということだ。問題は、今日の日中の記憶がほとんどないということだった。

 被った覚えのない布団をめくって、馴染みのないベッドから足を下ろす。靴下を履いていない足裏が、板張りの床についてひんやりとした。

 

 あのあと、幸い警察に見つかることもなく、事故が起きることもなく女を自宅マンションまで送ることができた。送った後、女の押しに負けて部屋にあがると、シャワーを借りて簡単な朝食を食べた。そこで初めて自己紹介らしきものをして、女――アズサもシャワーを浴びに行って、手持ち無沙汰になったミノルは使っていいと言われていたベッドに横になった。眠くて仕方がなかったから、誘惑に抗えなかったのだ。

 人の気配には敏感な性質だから、どうせ彼女が上がってくれば勝手に目覚めるだろうと思っていた。それが、とんでもない間違いだった。とりあえずそこから先の記憶がなくて、気付けば夕方、アズサはどこにいるのか姿が見えなかった。

 立ち上がると、捲れあがっていたTシャツが肌を撫で落ちた。これもアズサから借りた服だった。身長はミノルより十センチ程低いにもかかわらず、服のサイズはさほど変わらないらしい。新品の下着とともに借りているけれど、違和感がないことが逆におかしく感じられた。


「どうしよ……」


 ベッドから見て右手にスライド式のドアがあるけれど、勝手に開ける気にはなれない。物音もしないので、声をかけるのもはばかられた。

 目の前にはダイニングテーブル。その上にはペットボトルのお茶が置かれている。

 壁に目をやれば、巨大な棚の中にずらりと本が並べられている。専門書もあれば、漫画や雑誌などもあった。ここに初めて入った時は、じろじろと見回す気にもなれなかったから気にしなかったけれど、少し異様な雰囲気だった。立ち上がって好奇心のまま近付いてみる。すると近くにあったらしいゴミ箱が、足先に当たってカツンと音を立てた。ぐらりと傾いだそれを、慌てて手で押さえて事なきを得る。

 

「あ、ミノルちゃん。おはよ」

 

 物音に気が付いたらしいアズサが、隣室から顔を出した。ドアを閉めてこちらに寄ってくるその姿は、今朝よりも随分と元気そうに見えた。

 

「気持ちよさそうに寝てたから起こさなかったけど、予定とか大丈夫だった?」

「それは、大丈夫だけど」


 気まずい。ミノルは気恥ずかしさに自然と渋面を作っていた。

 Tシャツと下着という、そのまま外に出れば通報されそうな格好を見られてもなにも思わないのに、寝こけている姿を見られると居たたまれなくなる。昔からそうだった。他人の前で自身の弱い姿を晒すことに抵抗があるのだ。心を騒めかせるだけの話題を嫌うように、ミノルは別の関心事を口にした。

 

「服、乾いてる?」

「できてるよ」


 自転車を数十分こいでいたから、ここにたどり着いたときにはミノルは汗だくになっていた。気を使ったアズサが洗濯と乾燥をしてくれるというので、それに甘えた形だ。ゆったりと歩く彼女の後ろについて、洗面所に向かう。目の前で乾燥機から取り出された見慣れた服は、ほんのりとした温かさを宿していた。

 その場で服を着替え、着ていたTシャツを返す。下着は流石に返せないので、貰っておくことにした。


「ミノルちゃんって、思い切りがいいよね」

「どういう意味?」

「ためらいなく服を脱ぐよねって意味」

 

 アズサが笑う。

 揶揄うものではなく、純粋に呆れている様子だった。


「銭湯とかで慣れてるから。……あと、鍛えてるし」

「それは私への皮肉?」

 

 アズサは見るからに筋肉が乏しかった。少し丸みを帯びたその身体を見て、学生時代は絶対に文化部か帰宅部だったに違いないと思った。まともに日焼けをしたことがなさそうな白い肌と、柔らかな肉をまとった身体。好きな人は好きであろう身体を持った本人はしかし、それらを全く気にしている様子もなく笑っている。二十八歳だと言った彼女は、そんなことよりも最近胃もたれをし始めたことに悩んでいるらしい。二十二歳のミノルにとっては未知の世界だった。

 服も返してもらったので帰ろうとしていると、アズサが夕飯をおごると言い出した。特に断る理由もなかったので了承して、近くのファミレスに入る。土曜の夜だったためか、それなりに忙しくしているようだった。


「本当に危ないことしたなって、反省してたんだ」

 

 熱い鉄板の上でチキンステーキを切り分けながらアズサが言った。ミノルの側には二百グラムの牛ステーキと、大盛りの白米。どこかのじいさんのように、アズサもミノルに食べさせて楽しむ趣味があるらしい。嫌いなものだけ聞かれて勝手に頼まれたのだから、食べきれなくて残しても文句を言われることはないだろう。


「だから、ありがとうね。ミノルちゃん」

 

 改まってお礼を言われると、途端に居心地が悪くなった。切り分けたステーキを口に放り込んで誤魔化すように咀嚼する。大したことをした覚えはないし、彼女が寝ている時に結構ひどい悪態もついていたから、輝くような笑顔を向けられても困ってしまう。

 

「そもそも、なんであそこにいたの?」

「冒険したくなっちゃって」


 バカなのか、と言いそうになって口を閉ざした。口は災いの元だ。

 事情を詳しく聞くと、在宅で仕事をしているからたまには外に出たくなって、仕事終わりの週末の夜のテンションで散歩に出かけたらしい。ひたすら歩いていると喉が渇いてきて、コンビニに寄って酒を買ったはいいけれど、調子に乗って普段は飲まない酒を選んだおかげで酔っ払い、あの場所で休憩がてら座っていたのだという。


「バカなの?」

「たまに言われる」


 アズサはあっけらかんと笑った。反省しているのかしていないのかわからなくて、少しだけ注意したくなった。


「夜は危ないから、あんまり出歩かない方がいいよ」

「それはミノルちゃんもだよ」

「わたしは鍛えてるから大丈夫」

「それでもダメ」

 

 対面にあった顔が、ぬっと近づいてきた。

 笑っているけれど笑っていないような、そんな表情だった。


「実家に帰るか、家を借りるか。とりあえず友達の家でもいいから、ちゃんとしたところで寝なさい」


 その言い方に少しだけムッとした。出会ったばかりの、それもミノルに迷惑をかけるようなダメな大人に言われたくはなかった。けれど、それが正論であるということもどこかでわかっていた。

 実家に帰れれば苦労はしない。家を借りるお金もないし、友達に至ってはもう何年も連絡を取り合ってすらいない。けれども、道はあったはずだった。なりふり構わず助けを求めるか、必死でお金を貯めるかすれば、今頃はまともな家で貧しいながらも一般的な生活を送っていたことだろう。

 そうならなかったのはひとえに、ミノルにやる気がないためだった。頑張ろうという気持ちが全くわかなかったためだった。

 

 「面倒くさい」


 結局はその一言に尽きた。

 アズサが難しい顔をしてミノルを見ている。考えるようなしぐさをした後、彼女は備え付けのナプキンとアンケート用のボールペンを取り出し、なにかを書き付けた。


「困ったことがあったら、電話して」


 突き出されたそれは電話番号だった。最近はチャットで電話もできるから、電話番号を交換すること自体があまりなくて新鮮だった。

 少し迷ってから、それを受け取った。持っていてもミノル自身に害はないと思ったからだった。

 会計をアズサに任せてファミレスを出る。結局、セットでついてきたサラダとスープもまとめて完食したミノルの胃は限界まで膨れ上がっていて、ただ歩くだけで少し苦しかった。

 外は既に暗い。仕事に行かなければならない時間だった。車を運転して、酒臭い人を運ぶだけの簡単な仕事だ。最低限生きるためだけにしている仕事だった。

 

 アズサと別れて、自転車に跨る。

 大きく踏み込んだペダルが妙に軽く感じられて、そのことになぜか違和感を覚えた。

 

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