第6話(土)
仕事を終えてから揚々と向かった銭湯は休業していた。
原因は給湯設備の故障らしい。一週間ほど休むと張り紙がしてあって、ミノルは盛大に肩を落とした。近辺に終日営業している銭湯は存在しない。つまり、ミノルに許された選択肢は一つだけだった。
「……なんでいるの?」
いつもの河原。いつもの景色の中に、昨日見知ったばかりの人間が混じっている。隅に寄せていた段ボールを勝手に引き出して敷き、その上に座ってちびりと酒を飲んでいた。
「夜は危ないって言ったよね?」
「大丈夫。傘も持ってきたし、危ない時は笛を吹いて音を出すから」
「笛は防犯には向いてないから。ボタンを押すとかピンを引き抜くタイプじゃないと、とっさに音なんて出せないよ」
「そう言われればそうかも」
首元にぶら下げた笛を取り出して、アズサが頷く。その無防備な姿に、呆れを通り越して怒りが湧いてきた。普段であれば口にしないことが、容易く飛び出してくる。
「あと傘も。鍛えもしてない女の人が振り回しても、なんにも怖くないから」
「そんなことある? 遠心力で結構痛いと思うけど」
「やってみて」
少し好戦的な気分になったミノルは、かかってこいとアズサに手招きする。すると、その気になったのか、彼女は興味深そうな顔をして立ち上がった。ぎこちない動きで傘の柄を握り締めた彼女はしかし、とても棒状のものを扱った経験があるようには見えなかった。野球のバットのごとく振り回した切っ先は、あえなく空を切る。
「わっ」
目測が外れて、バランスを崩したアズサがたたらを踏む。
「避けたよね、今」
「微妙な当たり方しそうだったから」
もう一度、といってアズサが近付いてくる。意外と負けず嫌いなんだな、と思った。酔って気が大きくなっているだけかもしれないけれど、やる気に満ちたその瞳は嫌いではなかった。
先ほどよりも近い距離で傘が迫ってくる。今度はタイミングを合わせて、右腕でガードした。ついでにがら空きになったお腹に左手を伸ばして、軽く押してやる。
また数歩よろけたアズサは、次の瞬間、手品を見た子供のように歓声を上げた。速すぎて見えなかったと喜ぶ彼女を、ミノルはなんとも言えない表情で見ていた。夜に出歩くことの危険をわかってもらおうとしたのに、逆に喜ばれてしまうという状況が理解できなかったからだった。酒が悪いのか、彼女の性格がそうなのかわからないけれど、このままここにいさせてもいいことはなさそうだなとミノルは思った。
「送るから、乗って」
「え、ヤだよ」
アズサがくるりと背を向けて、また段ボールの上に座り込んだ。仕舞っていた寝袋も勝手に引っ張り出してきて、その上に押し広げていく。
「一緒に寝よ」
ぽんぽんと寝袋の萎れた綿を叩く。ふざけるような甘えた声を出して、アズサがミノルを見上げてくるけれど、心は全く動かなかった。
不発を悟ったのか、アズサは打って変わって真面目な表情で、夜にニケツは危ないでしょ、と言った。それは確かにそうだった。そもそも危険だから禁止されたのであって、事故の起こりやすい夜にそれをするのは愚行以外のなにものでもなかった。けれど、アズサの提案もミノルにとっては受け入れがたいものだった。
「わかった。歩いて送るから帰ろう?」
「もう布団に入っちゃったからイヤ」
この酔っ払いが! と声を荒げそうになって、なんとか留まる。アズサを見れば、楽し気にこちらを眺めていた。ミノルの反応を面白がっているのか、どこか意地悪そうににやにやと笑っている。憎たらしいその表情を、神妙なものに変えてやりたいと、ミノルは強く思った。
「怒った?」
「むかつく」
からからと笑う女は、寝袋の中でおいでおいでとミノルを誘っている。その余裕ぶった表情をなんとか崩したくなって、少しだけ脅かすことにした。
アズサの招きに応える形で寝袋に入ると、素早くその腰を捕らえて引き寄せた。ぐっと近くなった体温に、アズサが目を丸くする。
「わたしが女を抱ける女だってこと、まだ言ってなかったよね」
覆いかぶさるような姿勢で、静かに囁く。目と鼻の先で、驚き固まっている彼女の様子を見て、ミノルは溜飲を下げた。
くるりと身体を回転させて、寝袋から出ようとする。けれどもその背中に腕が伸びてきて、半端に起きていた身体を押し留められた。
「一緒に寝よ」
背後から声がする。予想外の言葉に、身体が固まる。
「……抱こうと思ったらアズサさんも抱けるんだけど、わかってる?」
「でも、しないでしょ?」
それはそうだ。嫌がっている相手を無理やりなんて、萎えて仕方がない。リミの場合も喜んでくれるからできるのであって、彼女が冷めた目で見てくるようになったら関係は終わるに違いなかった。
腹の方に回っていた腕に力が入り、浮きかけていた身体を優しく沈められる。
「落ち着いて。力を抜いて、ただ目を閉じればいいんだよ」
穏やかな声が聞こえる。その静かで安心感のある声音に、驚きで不規則に動いていた心臓が落ち着きを取り戻していく。深く呼吸をして、その体温を無理やり引き剥がすかどうか迷って、結局は受け入れた。自分でも不思議な決断だなと思った。
「なにがしたいの?」
「なんだろね」
くすくすと笑う声を聞き流して、目を閉じた。お風呂に入っていなから臭いだろうな、と思ったけれど、この状態から動くのが億劫だったのであきらめる。
眠気は来ない。後ろの女はミノルが大人しく言うことを聞いたことに満足したのか、このわずかな時間で眠りに落ちたようだった。規則正しい寝息が聞こえてきて、呼気が当たっているのか、背中が少しだけ湿っぽく感じられる。ミノルはそれらを感じながら、ただ目を閉じ続けた。どこか緊張していた身体が、時間とともに次第に柔らかくなっていく。
そうしてそれなりに長い時間が経った頃、ミノルの意識は完全に落ちていった。
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