第7話(日)

 にゃー。

 顔に当たる柔らかな感触で目が覚めた。

 頬に首筋にと擦りつけられている白い毛をひとつ撫でて落ち着かせると、寝ぼけ眼のまま近くにあるドライフードの袋に手を伸ばす。すると、ぐっ、と身体の下からくぐもった音が聞こえてきて目を瞬いた。なんだろうと首を傾げつつ視線を落とすと、女が苦しそうに呻いていた。ちょうどお腹の上に乗ったミノルの身体が、彼女を強く圧迫しているらしかった。


「ごめん」


 袋を手に身を起こす。

 途端に白猫がじゃれついてきて、せっつかれるままに茶色い餌を差し出してやる。起き出してきたきたアズサが、うつろな表情でその様子を見守っていた。


「平和な夢を見てたはずなのに、突然ビルが崩れ落ちてきて生き埋めにされたよ」


 どう応えたものかと考えていると、猫ちゃんの名前は? と聞かれて、ネコ、と答えたら微妙な顔をされた。


「安直なネーミングにも限度ってものがあると思うんだよ。白猫ならシロ、とか、ユキ、とかさ」

「猫を見つけるたびに、ネコだ、って言ってたら反応するようになっちゃって」

「さようで」

 

 ネコ、とアズサが呼ぶと、白猫が耳をぴくりと動かした。視線は餌を捉えたまま動かないけれど、聞いてはいるらしい。アズサが手を伸ばすと、さっとその身を引いて躱す。ご飯の邪魔をされたのが嫌だったのか、機嫌を悪くしたみたいだった。それに気付かず、なおも追いかけようとする彼女を軽く制して立ち上がる。


「送るから、帰ろう」

「うん」

 

 寝床の後始末をして、自転車に跨る。二回目ともなれば慣れたもので、彼女も危なげなく荷台に納まった。

 空を見上げれば、分厚い雲が垂れ下がっていた。今日は降るかもしれないな、と心に留めて、再び重くなったペダルをこぎ始めた。



 アズサを送り届けてから、少し遠くにある銭湯へと足を伸ばすことにした。彼女から部屋へ誘われたけれど、それは断った。なんとなく、彼女に手懐けられているような感じがして距離を取りたくなったのだ。彼女に寝顔を見られたことも、彼女のそばで熟睡してしまったことも事実だけれど、これ以上はこちらに踏み込んでこられたくなかった。


 洗い場で昨日落とし損ねた汚れを洗い流し、大きな湯船で手足を広げる。まだ午前中だから、客もまばらでゆっくりと利用することができた。風呂から上がった後は、休憩室で昼寝をする。限界まで寝たあと、うつらうつらとしながらぼんやりと過ごすか、漫画で暇を潰すのがミノルのいつもの行動パターンだった。気が付けば日が落ちていて、お腹も減っていたので銭湯をあとにする。


 スーパーで安くなっていたおにぎりを買い、いつもの河川敷に戻って食べた。途中で雨が降り出したから、ブルーシートで雨を防ぎながら寝床を作って、さっさと寝転がる。

 今日は日曜日だから仕事はない。あまり早い時間からここにいると見咎められる可能性もあったけれど、雨ならば多少は平気だろうとくつろぐことにした。


 雨の音が辺りに響いている。

 ぽつぽつと降っていた雨が次第に本降りになっていき、コンクリートを激しく叩いていく。街灯の弱い光が、水たまりに反射してミラーボールのようにきらきらと瞬いていた。

 雨のせいで気温が下がったのか、肌寒く感じて寝袋をかき寄せた。仕事のために契約しているスマホを手にして、天気予報を確認する。どうやら今日から数日間、季節が逆戻りするらしい。服装に注意、という文字を読み流し、警報や注意報の欄も確認する。特に表示がなかったので、ミノルは胸をなでおろした。河川敷で寝ている以上、大雨や洪水には敏感にならざるを得なかった。

 昼間にたくさん寝たからか、眠気はあまりなかった。それでも横になっているとうとうととし始めるもので、しばらくの間気持ちよくまどろんでいると、急に冷たいものが寝袋ごしに押し付けられて、びっくりして跳ね起きる。するとミノルの動きに反応したのか、冷たいそれも驚いたように後ろに下がったようだった。しばらく様子をうかがうようにうろついて、今度は無理やり寝袋の中に潜り込もうとしてくる。


「こらネコ。濡れるでしょ」


 ミノルにつまみ出されたネコは、にゃーと哀れっぽく鳴いた。どこにいたのか、全身ずぶ濡れの状態で小さく震えている。かわいそうではあったけれど、この状態ですり寄ってこられる方もたまったものではない。しばらく一人と一匹で寝袋を巡って争うことになった。たまに見かける野良猫はミノルを見た瞬間逃げるから、ずいぶんと人馴れしたネコは、どこかで飼い猫をしていたのかもしれないな、と思った。

 結局、最終的に折れたのはミノルの方だった。ネコをタオルで拭いてやってから、いそいそと寝袋に入り込んでくるその背中を許すことにした。

 

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