第8話(月)
目を覚ました途端耳に入ってきた雨音に、うんざりとした気分になった。
昨日見た天気予報の通り、今日は朝から雨模様だった。足元が妙に温かいので、ネコがうずくまっているのだろうなと思う。当のネコは、ミノルが目を覚ましたのを感じ取ったのか、にゃあと高く甘えた声を出した。いつものようにドライフードを与えて、にゃあにゃあとうるさくし始めたネコをいなす。
「今日はどうしようかな」
雨が降っているので自転車には乗りたくない。安物の雨合羽はあるけれど、どうしても太ももから下がびしょ濡れになってしまうので、できれば避けたかった。ミノルは仕方なく錆の浮いたビニール傘を取り出して頭の上にかざすと、寝床を片付けてから街の方へと歩き出した。
月曜日の朝。冷たい雨の下で、街は陰鬱に沈んで見えた。人々は皆、一様に視線を落として黙々と歩いている。
歩き回って、たまに屋根の下で休憩して、そうしてやっとたどり着いたのは小さな図書館だった。平日の、しかも開館してすぐにも関わらず、それなりに人が入っている。年配の人が多いけれど、学生のような人もちらほらと見かける。学校が近くにあるから、と誰かから聞いたような気がしたけれど、そういうものなのだろうか。学校にも図書館があるはずだから、そちらに行けばいいような気がしなくもないけれど。
ミノルはそれらの人々から隠れるように、本棚の影の目立たない場所に置いてある椅子に腰かけた。
ここに来ることは、あまり多くはない。
規模が小さい割に訪れる人が多く、居座るには向いていないからだった。それでもミノルがやって来た理由はごく単純で、まともな本が読みたくなったからだった。場所取り用の上着を椅子の上に置いて、適当に本を見て回る。実用書、文芸書、児童書、専門書。雑誌や漫画のコーナーもある。一通り見て回って、手に取ったのは猫に関して書かれた本だった。イラストと文字量のバランスがちょうどよく、気軽に見て楽しむ分には申し分なく思えた。その本を脇に携えて、通路を戻ろうと足の向きを変える。その時、背後から声がかけられた。
「
名前を呼ばれて、反射的に振り返った。
視界に入って来たのは見知った顔だった。以前よりも頬がほっそりとしていて、記憶にある印象よりも大人びて見える。道着をまとって汗を流す姿が瞬時に蘇ったけれど、名前はどこかに引っかかったかのように思い出せなかった。
「久しぶり……?」
「センパイ!」
小走りに近づいてくるその姿は、ミノルを慕ってあとをついてきていたあの頃の姿と容易に重なって見えた。それと同時に、今のミノルのぼさぼさの髪とよれた服装を思い出して、自然と女から距離をとる。
「センパイが大学を辞めたって聞いて、みんなで心配してたんです。連絡も取れないし」
話しかけてくる女は、ミノルのぎこちない様子にも気付かない様子で、興奮に顔を赤くさせていた。聞いてもいない他の部員のことや、自身の近況報告のようなものを一方的に話して聞かせる女は、また一緒に稽古しましょう、と実現するわけがない願いを口にさえした。
うんざりだった。今のミノルは過去のミノルの延長線上にいる存在ではない。全く別の、ただ見た目だけが似ているだけの、他の人間だった。
「センパイはなにしてるんですか?」
一通り喋り倒した女は、今度はミノルに興味を持ったようだった。
なにか素晴らしい答えを期待するかのような、一片の曇りもないその表情に、ミノルは辟易とした。
「なにも」
過去のミノルを知っている人が今の状況を教えられても、信じる人は少ないだろう。ミノル自身も、未来の自分がそうなると伝えられても信じなかっただろうから、おかしなことではない。女も、話しながらミノルの様子がどこか変だとは気付き始めているようだった。けれど、ただ信じられなかったのか、信じたくなかっただけなのか、見て見ぬふりを続けていた。
ミノルの答えに表情を強張らせた女が、なにかを言おうとして、失敗して口をつぐんだ。そんな反応をしている自分に焦ったのか、女の表情が情けなく歪んでいく。
「今年、就活だよね? がんばって」
くるりと背を向ける。はい、と返事が聞こえてきて、それに少しだけ慰められた気がした。拒絶を示したミノルの背中に、それ以上女が迫ってくることはなかった。
ミノルは確保しておいた椅子に腰かけて、静かに本を開くと文字を追うことに集中した。
◇
夜。お店の近くで待機する間は、それなりに自由が与えられている時間だった。
車にもたれながら、いじり飽きたスマホの画面を暗く落とす。丸一日以上身体を洗っていないせいで、頭皮が少しむず痒い。指先で軽くこすると、皮脂なのかよくわからないものがぽろりとアスファルトに落ちた。
アズサはどうしているだろうか。二日連続で会いに来て、お節介を焼くような真似をしていたけれど。
飽きたのだろうな、と思う。面白いおもちゃが落ちていたから、拾って触って、かわいがってみた。ただ、それだけのことなのだろう。それを悲しいとも寂しいとも思わない。静かで無機質な日常が返ってくるだけだ。どんな出来事も、過ごした日々にも、特別な意味などないのだから。
ぴこん、とスマホが反応した。
黒服からの送迎依頼だった。ミノルは車に乗り込むと、仕事をこなすために淡々とエンジンをかけた。
「ミノル、ちょっと臭うよ」
リミが後部座席でくつろぎながら、口をとがらせた。
わかっていたことだけれど、直接そう言われると少し傷ついた。
「シャワー使う?」
「でも、今日はそういう気分じゃないんでしょ?」
「そうだけど」
ならいらない、と答えたミノルは、自動的にハイビームに切り替えられたライトを手動でローに落とした。自動機能に助けられることも多いけれど、余計なことをと忌々しく思うことも多くあった。車のライトについたそれは、ミノルにとって邪魔な機能の一つだった。
「遠慮してる?」
「まさか」
遠慮とは違う。これは一方的に借りを作ることが嫌な、ミノルの性格のせいだった。普通の友人関係なら、一方的な関係ではなく貸したり借りたりが双方に発生するだろうし、それで結果的にチャラになったりすることもある。けれどミノルには、リミに借りを作ったあとに、それを返すあてが全くなかった。そんな状態のままで、リミの誘いに乗るわけにはいかなかった。自分でも細かいことを気にしてるな、とは思うけれど性格なのだから仕方がない。
それ以上、リミはなにも言わなかった。性欲が絡まなければ、彼女はいたって理性的な人間だった。無駄な絡みのない室内は快適ではあれど、どこかよそよそしい。
軽快に車をとばして、ミノルはその日の仕事を終えた。
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