第4話(土)
どう声をかけようと、女は目を覚まさなかった。
律儀に眼鏡を外して寝入っているのも小憎らしくて、頬を張ったり冷たい水をかけたりする事も考えたけれど、無理やり起こして口論になるのも面倒だと思い直してやめた。それに、この酔っ払いを深夜に放り出して、犯罪にでもあったら寝覚めが悪すぎた。
結局寝床は諦めて、その夜はしまい込んでいた冬物の服を被って寝た。当然、見知らぬ女がそこにいるのだから深く眠れるわけもなく、座った状態で浅くて短い睡眠を繰り返すことになった。
ゆっくりと日が昇る。いつものようにじゃれついてきた白猫に餌をあげていると、そこでようやく女が目を覚ました。
「ごめんなさい」
ミノルの寝床を奪ったことを理解した女が、素直に頭を下げてきた。
「ちょっと寝心地を確かめたかっただけなんです。あんなにすぐ寝ちゃうとは思わなくて」
明るい場所で見た女は、ミノルよりも年上に見えた。外で酒を飲んでそのまま寝てしまうような考えなしは、同世代か年下にしかいないと思っていたから意外だった。
夜が明けてもなおアルコールの匂いを漂わせている女は、頭が痛いのかしきりに眉をひそめている。その匂いがたまらなく強くて、ミノルがストックしておいたペットボトルの水を差し出すと、女は申し訳なさそうに受け取っていた。
寝不足で頭がくらくらする。それでも、重い身体を引きずって段ボールと寝袋をいつも通りに仕舞い込んでおく。ここに誰かが居座っているとばれるのは、できるだけ避けたかった。周囲を綺麗に片付け、人の痕跡を消す。あとは女を見送るだけだ。そのあとに銭湯にでも行って、ゆっくりと寝ようとミノルは心の中で算段をつけた。
女の方を見る。水を飲んで少しは落ち着いたようだったけれど、一向に立ち上がる素振りがなかった。嫌な予感がして、様子を見るために近付いていく。
「タクシー呼んでくれませんか?」
気弱に紡がれた言葉は、ミノルの予感が当たっていることを示していた。女は気分が優れないのか、こめかみを押さえて目を閉じている。風邪ではなさそうなので、典型的な二日酔いだろうと思った。
「時間も早いし、ここら辺は数も少ないからなかなか来ないと思う」
困ったな、とでもいう様に女が眉尻を下げた。顔色は白いけれど、見た感じ重症というわけでもなさそうだった。だから、このまま放っておいても勝手に帰るだろうとは思う。けれど、ここに人がいることを知られたくないミノルにとって、女をこの場所に置き去りにしてその危険を冒すことは、できれば避けたかった。
溜息をひとつ。
近くに止めていた自転車の鍵を開けて、使い古したサドルに跨る。
「駅まで送るよ」
「……自転車?」
「ニケツでいけるでしょ。ただし背中には吐かないでね」
女がどこか怯んだように自転車を見ていた。首を傾げていると、女が罪を告白するかのように言う。
「自転車乗れないんです」
「……荷台に座って、両足をタイヤの車軸のところに乗せて、あとはしがみついてればいいから」
「……練習していいですか?」
「いいけど……」
「あと、駅よりも家の方が近いので、そっちに送ってもらえると助かります」
自転車に乗ることに決めたらしい女は、真剣な表情で荷台に跨った。ミノルにとっては学生時代に経験した乗り方だったけれど、女はそうではないらしい。緊張を隠せない様子に、こちらのほうも緊張してしまいそうになる。
見知らぬ手がミノルの服の裾を掴んできて、少し身震いした。他人の熱を近くで感じることは、やはり気分のいいものではない。けれども、お腹に力をいれて我慢する。ミノルの平穏を守るためには、そうするよりなかった。
ペダルに足をかけて、さっとこぎ出す。危なっかしくおたおたとしていた女は、しばらく乗っていると次第に落ち着きを見せ始めた。しきりに深呼吸を繰り返す様子から気分が悪いことはうかがい知れたけれど、ミノルになにかを訴えることもなかった。
調子よく自転車をこぎながら目的地を聞き出し、そう遠くはないことに安堵する。頃合いを見計らって、走っていた勢いのままに堤防の上の遊歩道に上がる。途端に視線が高くなり、遠くの街や行きかう車が目に入ってきた。背後から回された手が、より強くミノルの服を握り締めてくる。環境が変わって緊張したのだろうか。女に気を使いながら、ミノルはじわりと速度を上げていった。
早朝の冷たい空気を浴びながら、ミノルと女は一緒に道路を走り始めた。
途中、ニケツは違法だから捕まったらごめん、と言うと、女が驚いたようにあたりを見回し始めたものだから、面白くてつい笑ってしまった。
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