第3話(金)

 終日営業している銭湯に行ってからいつもの河川敷に帰ると、見知らぬ人間がいた。

 ミノルがいつも寝ている場所のそば、コンクリート製の階段部分に座り込んで缶を傾けている。足元に目を向ければ、ナッツの入った小袋が階段の蹴込み部分にもたせ掛けられていた。暗くてよくわからなかったけれど、髪を後ろで緩く束ねていて、恐らくは女だった。

 ミノルが立ち止まってから数秒後。ようやくミノルに気が付いた女は、オバケでも見たかのように目をまん丸に見開いた。


「え……」


 その顔に最初に浮かんだのは、恐怖だった。

 びくりと、大げさなほどに身体を震わせた女はしかし、一目散に逃げることはしなかった。いや、できなかったのかもしれない。目を見開いたままがっちりと手すりに掴まる女は、ただただその場で身を硬くしただけだった。


 犯罪にあった被害者に、どうして抵抗しなかったのかと詰め寄る人がいる。

 バラエティ番組やネット等でたまに見かける考え方だ。こうすればよかった、ああすればよかったと、すべてが終わった後に被害者に対して無責任に批評するのだ。

 でも実際に自分がその立場に立った時、まともに抵抗できる人がどれくらいいるのだろう。それが、自分よりも身体も大きくて力も強そうな相手であった場合、どれだけの人がうまく対応できるのだろう。

 実際は、目の前の女のようになるのではないだろうか。

 ミノルのように、暴力に慣れた人間でない限りは。


「なにしてるの?」


 彫像のようにぴくりとも動かなくなった女が、少しかわいそうに思えてきて声をかけた。

 きっとここに人が来ることを想定していなかったのだろう。今、女の頭の中は大荒れの様相を呈しているに違いなかった。


「えっと、お酒を飲んでて……」

 

 痰が絡んだような声だった。

 ぱち、ぱちとわかりやすく瞬きをして、浅く早い呼吸を繰り返している。

 改めて見下ろせば、地味な女だった。大きな眼鏡をかけていて、首元がよれた長袖のTシャツを着ている。下はスポーツブランドのロゴの入ったジャージと汚れた運動靴だ。服装といい態度といい、どう考えても近所の人間が散歩ついでにここに迷い込んだのだろうと思われた。


「夜は危ないから、早く帰りなよ」

「あ、はい」


 自分のことを棚に上げて忠告すると、ミノルは女から視線を外して寝床に向かった。折りたたまれた段ボールを広げて、丸めていた寝袋を広げる。

 しばらくの間、ごそごそと寝る準備をしていると、ふいに背後から声がかけられた。


「あの、ここでなにをしてるんですか?」


 振り返れば、興味深そうにミノルの荷物を眺めている女がいた。

 落ち着きを取り戻した瞳は、なぜか好奇心に輝いている。


「家がないからここで寝てる」

「危なくないですか?」

「見つからないように気を付けてるから平気」


 唐突に、女が手に持っていた缶を傾けて、豪快に嚥下した。

 その様子を横目で見ながら、早くどこかに行ってくれないかな、と思った。ひとまず無視することに決めて、靴を履いたまま寝床で横になる。少し汚く感じるけれど、寝袋から足を出すような形をとって我慢する。いざというとき靴下では走れないし戦うこともできないため、仕方がない措置だった。

 すぐ近くで、ぐしゃりとアルミ缶の潰れる音がした。次いでビニールの擦れる音がして、また女が話しかけてくる。

 

「寝心地はいいんですか?」

「いいわけないじゃん」


 固いコンクリートのせいで朝は身体中が痛いし、害虫だって寄ってくる。雨の日は濡れないようにするので必死だ。

 頭の方に足音が近づいてきた。見上げていた橋桁に女の顔が被さってくる。アルコールの匂いが鼻について、ミノルは顔をしかめた。

 

「なに? 強盗する気なら怪我する覚悟はしといてよ」


 不用意に近付くのも、近付かれるのもあまり好きではない。

 牽制の意味も込めて軽く睨むと、女がくすりと笑った。なんとなく馬鹿にされたような気がして、ますます眉間にしわが寄る。

 

「なにもいりませんから、少しだけ試させてください」


 そう言うと、女は素早い身のこなしでミノルの寝袋に入って来た。さきほどの、捕食者に睨まれた小動物のような姿からは想像もできない動きだった。不幸にも寝袋は封筒型で、そこそこに横幅のあるものだったから女の侵入を容易に許してしまう。

 反射的に飛び出して距離を取った。女は気にした風もなく、にこにこと寝袋の中で体勢を整えている。


「キャンプとはまた違った感じですね。コンクリートの上で寝るのは初めてなので、新鮮です」


 突然の奇行に唖然としてしまって、とっさに言葉が出なかった。見知らぬ人間に対する距離感ではないし、こんな真夜中に人気のない場所でしていい行動ではなかった。けれども女は、具合のいい姿勢を見つけたのか、満足したような表情をしたまますぐに動かなくなってしまった。


 ちょっと、と控えめに肩を掴んで揺する。また強くアルコールが香ってきて、思わず顔をそむけた。

 どれくらい飲んでいたのだろう。端に寄せて置かれていたビニール袋の中には潰されたロング缶が数本入っているようだった。そのどれもが度数が高くて有名な銘柄の酒だ。

 口呼吸に切り替えてから、その身体を強めに揺する。それでも女は反応を示さなかった。寝袋は広く占領され、女の手足が気持ちよさそうに伸ばされている。


「どうしたらいいの、これ」

 

 ミノルは肩を落としてその場に座り込んだ。

 夜はまだまだ明ける気配がなかった。

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