荒んだ目をしたあなた
三笹
第1話(金)
どうしようもないな、と思った。
目の前でベッドを軋ませながら喘ぐ女のことではない。
そんな行為をしていても、一片の興奮も感じられない自分が、だった。
汗がこめかみを伝い、顎から滴り落ちた。さっきから動かし続けている右腕が、休ませろと訴えるかのように引き攣れる。
唐突に、早く終わらないかなと、そう思った。それなりに頑張ってはいたけれど、そう思ってしまった時点でもうダメだった。既に集中が切れてしまったことを自覚して、けれどそれを相手に伝えることは叶わない。
気持ちのこもらない行為は、どこか映像を見ているかのようだった。洋画で唐突に出てくる濡れ場のように、初っ端から最高潮に興奮して視聴者を置いてけぼりにする出来の悪いそれに似ている。唯一違うのは、視覚だけではなく五感のすべてでその映画を体験させられている点だった。普段からは考えられないような力で腰に両脚を絡めてきた女が、自重することなく興奮に身を捩らせている。マットレスのスプリングがその動きに合わせて揺れる。
きし、きし、と鳴る控えめな金属音と、女の吐く荒い吐息が場を支配する。汗にまみれ、全身を使って快感を求めようとするその姿勢はひどく動物的だったけれど、そういう風に本能を剥き出しにする姿は嫌いではなかった。少なくとも、全身を派手に装飾して作り物の言葉を吐かれるよりは、はるかにましだった。
動きが激しくなるにつれて自分の息遣いも荒くなっていく。興奮ではなく、運動による生理的なものだったけれど。しばらく続けていると、びくりと身体を震わせて女が大人しくなった。まるで電池が切れたおもちゃのように。
ささやかな金属音は止まり、室内には二人分のバカみたいに激しい呼吸音が響いている。一人は満足を、もう一人は安堵を湛えて息をつく。関係を持ち始めた頃はそうではなかったはずなのに、いつの間にか交じり合わなくなった感情は互いの心の隙間をくっきりと浮き彫りにしてしまっていた。すべきことが終わってしまえば、後には居心地の悪さしか残されていなかった。
大きく息を吸い込むと、つんとした刺激臭が鼻をついた。風呂に入らないまま事に及んだからだろうか。途端に鼻の奥がむず痒くなって、耐えられず大きなくしゃみをする。
どうやって使うのかもわからない化粧品と派手な服が乱雑に散らばった部屋の中。床に直置きされたセミダブルのマットレスの上から降りて、無言で浴室に向かった。止める声はなかった。身体に残っていた下着をぱっぱと脱いでから、頭から熱いお湯を被る。
誘うのはいつも彼女の方からだった。お店から引き揚げてくるキャストを送り届けたあと、最後まで車内に残った彼女がそういう気分になったときだけマンションに誘われる。
オートロック付きで、風呂とトイレはセパレート。築浅で多機能なマンションは、そのかわりに部屋自体が少し狭かった。物持ちの彼女には相性が悪いのだろう。雑然とした部屋はいつ来ても小さな埃が舞っていた。
こだわりの感じられるシャンプーを控えめに半プッシュして、がしがしと髪を洗う。
ぐしゅん、とまたひとつくしゃみが出た。
多分、アレルギーとかそういうものなんだろうと思う。一度出だしたら止まらなくなるのだ。
適当に泡を洗い流して静かに浴室を出た。女は未だにベッドの上に転がっている。
「リミ」
そばに寄って声をかけると、女――リミが薄っすらと目を開く。
「帰るから」
「……ん」
彼女はのろのろとした動作で起き上がり、ベッドに敷かれていたバスタオルを素肌に纏った。眠そうに目を瞬いている。
「オートロックだから、そのまま出てってくれてもいいのに」
「ドアガードもちゃんとしときなよ」
ぺたぺたと後ろを歩くリミが、やさしーんだね、と軽く笑う。そうじゃない、と言いたかったけれど、そうする時間の余裕も、言葉にする気力も持ち合わせていなかった。時刻は既に深夜を大きく回っている。眠気にぼんやりとする頭を抱えながら、流れるように靴を履き、外に続く扉をくぐった。またねミノル、と声がして目の前で静かに閉じられる。すぐにかちりと、リミが律儀にドアガードをかける音がした。
濡れた髪が風に揺れる。うなじまで伸びた髪は無軌道にカールし、不規則に肌を刺激してきてくすぐったかった。
最近めっきりと温かくなってきていたけれど、夜はまだまだ肌寒い。鳥肌が立った腕を軽く擦りながら、マンションを出て路駐していた軽ワゴンに乗り込む。
車内にはわずかに香水の匂いと女のべたつくような体臭が残っていた。なんとなく落ち着かなくて窓を全開にする。するりと抜けていく冷たい風を感じながら、歩道に食い込んでいた車体をハンドルを切って誘導する。頑丈なタイヤがごろりと転がって縁石を踏み越える感覚がした。
小さなエンジンをうならせて、舗装された道を走る。
住宅街は、春の訪れに気が付かないまま眠りこける熊のように、ただ静かにそこにあった。ビルが乱立するオフィス街は、木や塀に惰性でしがみつくセミの抜け殻のように生気がなかった。
バックミラーから垂れ下がったキーホルダーがゆらゆらと揺れる。最近流行りのキャラクターなのだろうか。黒々と大きく描かれた目が妙な気持ち悪さを与えてきて、これを選んだ人とは感性が合わないだろうなと感じさせられた。そもそも車をシェアする都合上、私物を置いてはいけないルールだったのだけれど文句を言う人はいないらしい。他ならぬ自分自身も、勝手に捨てることも管理者に文句を言うことも面倒くさくて、もう数週間はこの状態を許しているうちの一人だった。
いつもの駐車場。カーシェアの拠点となっている場所に車を停めて、併設された駐輪場から自転車を引っ張り出す。
軽くサドルを払ってまたがり、じゃりじゃりと錆の浮いたチェーンを鳴らしながら向かった先は、大きな河川だった。コンクリートでがっちりと固められた両岸と、広い河川敷があり、当然人気はない。
昼間であればほとんどの人がのどかな場所だと言うだろう。けれども今は、薄暗い街灯がぽつぽつと光るだけの薄気味悪い場所だった。
スロープから重力に任せて下に降りる。速度に合わせて点滅するライトを頼りにしばらく走ると、見えてきたのはコンクリート橋だ。まだ真新しさを残した橋桁の下。積み上げられた数枚の段ボールと泥で少し汚れたブルーシートが、今のミノルの家だった。
「ただいま」
応える声はもちろんない。
畳んでいた段ボールを冷たいコンクリートの上に敷いて、そこに腰を落ち着ける。瞬間、ふっと気が抜けてそのまま身体を横たえた。目を閉じれば、虫の声がする。ジーと長く伸びる音が耳を圧迫し、時折カエルが鳴いて、遠くでバイクのエンジン音が響く。さらさらと流れる水の音は耳に馴染みすぎてもはや意識に上らない。
隅の方に丸めていた寝袋を広げて、その中に芋虫のように入り込む。
触れた髪は大方乾いていて、手の中で柔らかく波打った。このまま寝ても風邪を引くことはないに違いない。
ミノルは街灯の光からも、空に昇る月明かりからも身を隠すように、黒く広がる影の中で丸くなり、静かにその目を閉じた。
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