第15話(金)
意外と真面目そうな人だったね、とリミに言われて、とりあえず頷いた。真面目、と一言で彼女を表すには疑問が残るけれど、大まかには合っているはずだ。
淡く星が瞬く夜空。繁華街から離れるに従って輝きを取り戻していくそれらを見上げながら、ミノルはただ走っていた。
「今日も戻るんでしょ?」
「うん」
車内はいつも通り静かだった。途切れることなく話し続けていた今日の彼女を思い出し、もう少し喋りかけた方がいいのかな、と思案する。
話しかけてもすぐに途切れそうだな、と想像して、やはり黙っていることにした。
「……私のことは気にしなくていいからね」
「どういうこと?」
「そのままの意味だけど」
首を傾げても、リミからそれ以上の説明はなかった。
◇
深夜。日中の騒めきが嘘のように静まりかえり、音が闇の中に吸い込まれていくかのように錯覚する時間帯。
ミノルはマンションの入り口に一人佇んでいた。いくら待っても反応のないインターホンに溜息をひとつ零す。きっと寝ているのだろう。お酒を飲んだあとの、へらりと笑う彼女の表情を思い出す。
「どうしようかな」
動くことを辞めた街。
けれども暗い海のようなこの街にも、ぽつりぽつりと光は灯っている。
どこに行こうかと吟味し始めて、ふと野宿という選択肢が意識に上らなかったことに気が付いた。以前なら迷わず河川敷に向かっただろう。けれど、今のミノルはそうしなかった。暗い橋桁の下で眠る自身の姿を想像して、近くに迫る底なしの暗闇を思い出して、胸に冷たいものが去来する。
少し考えて、ああ自分は寂しいのだなと、そう理解した。誰も来ないような場所で一人寝ることに、不安を覚えて抵抗しているのだなと思った。
変わったな、と思う。この数日で自分はアズサに作り変えられてしまったのだと、この時ようやく理解した。一緒にベッドに入ることも、優しく触れられることも、以前と比べてはるかに許容している自分がいる。玄関での自身の不可解な行動も、それですべて説明がつくような気がした。
そんなことを考えながらマンションの植え込みに腰かけていると、目の前で住人らしき人がエントランスに入っていった。ミノルは驚きに声をあげてから、慌ててそのあとを追いかけた。
マンション内に入れたからといって、玄関ドアを開けてもらえなければ意味はない。ミノルは少し考えてから、心持ち控えめにノックした。インターホンのブザーで起きないのだから、ノック程度で起きてくるとは思えなかったからだ。起こす気のないノックを、間隔をあけて数度行う。そろそろ諦め時かな、と考えていると、突然室内から音が聞こえ始めてきて、そう間を置かずにアズサが出てきた。
ごめんね、と申し訳なさそうな表情をする彼女は、やはり寝入っていたようだった。寝ぐせのついた髪が、室内灯の下でゆらりと揺れている。
「ネコが起こしてくれてよかった」
アズサが褒めるように白猫を撫でようとして避けられていた。
ネコは警戒するように遠回りして彼女を避けつつ、軽快な足音を立ててミノルにじゃれついてくる。そんなネコを、彼女はじとりとした目で見ていた。
「なぜか私には懐いてくれないんだよね」
望みのままにその身体を撫でてやると、グルグルと機嫌のよさそうな音が聞こえてくる。餌をあげてればそのうち懐くよ、と励ましても、本当かなあ、と半信半疑の様子だった。
お礼の意味も込めて二人で一匹と遊んで、適当なところでシャワーを浴びに行く。ネコはアズサが隣の部屋から取ってきたレーザーポインターがことのほかお気に召したらしい。ミノルが浴室から戻ってきても、くるくると動き回る赤い点を楽し気に追いかけていた。
ベッドに腰かけると、アズサが遊びを切り上げて近寄ってくる。手にはドライヤー。電源を入れてモーターを起動させると、音にびっくりしたネコが部屋の隅の方に走って逃げていった。
白い手がミノルの頭を撫でていく。髪をすき、頭皮に触れて、その形を綺麗に整える。仕事を終えたドライヤーが沈黙すると、室内はしんと静まり返った。
「ちょっとお話しよっか」
アズサがダイニングテーブルの椅子を引っ張ってきて、椅子とは逆向きに腰かけた。背もたれに肘をつき、ミノルと相対する。
「雨、止んだね」
「うん」
「出ていくつもり?」
うん、と返事をしようとして、喉になにかが詰まったかのように返事ができなくなった。ごほっとひとつ咳をして、肯定する。
「私がいてほしいって言っても?」
それはどういう意味なのだろう。
ミノルはアズサにとって赤の他人だ。親戚や家族でもなく、恋人でもない。友人とすら呼んでいいかわからない関係だ。そんな人間が、理由もなく家に居座るのはいい考えとは思えなかった。
「わたしはホームレスだよ」
他人に求められるような価値があるとは思えない。
アズサのようなまともな大人がわざわざ気に掛ける理由もない。
抱き枕が必要ならいくらでも買えばいいし、温もりが欲しいならちゃんとした人を見つけるべきだ。それは絶対に、ミノルのような人間ではないはずだ。
そんな拒絶の態度を見てとって、アズサが困ったように眉尻を下げた。
「一緒に寝て、できればご飯も作ってほしいんだけど」
「恋人を作って、その人に言ったらいいんじゃないかな」
「じゃあ、恋人になったらいてくれるってこと?」
どこまで本気かわからないその言葉に、少しイラついた。
簡単に愛だとか恋だとか言われたくはなかった。そんなものは人間の作り出した幻想で、増殖するための一手段に過ぎないのだから。そういう自覚もなく、気軽に言葉にされるのは好きではなかった。
それに、彼女がミノルに対して抱いているのは、そういう類の感情だとは思えなかった。
「アズサさんはそういう指向の人じゃないでしょ」
「まあ、そうだね」
しばらく考え込んだアズサは、試してみたい、と言った。どうやって? とミノルは静かに問いかける。
「もうしばらくいて。その間に考える」
「考えるよりも、感じるものなんじゃないかな」
「いいから」
強引に話が切り上げられる。電気が消され、いつものようにベッドに引っ張りこまれた。
彼女の穏やかな体熱がミノルの背中をじわりと温める。ミノルの強張った心を和らげるような、そんな温かさだった。彼女の意図はよくわからない。けれど、もうしばらくこの心地いい熱を受け入れていてもいいとは思った。
目を閉じる。意識はどこにも引っかかることなく、簡単に落ちていった。
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