第14話(金)
雨が上がった。快晴だった。
ミノルは喜びとともに外に繰り出し、意味もなくマンションの周りをうろついた。
アズサの諫めるような声も無視して、全身で太陽の光を受け止める。産毛がさらりと揺れて、乾いた風が肌を撫でていった。ただそれだけで、なにかが満たされたような気がした。
無垢材をふんだんに使用した内装、精悍な顔つきをした職人が立ち働くカウンター。にこやかな、けれど隙のない給仕の人に案内されたのは静かな個室だった。
「高そうなんだけど……」
目の前にいたアズサの服の裾をぎゅっと掴めば、彼女は振り返ることもなく、私がいるでしょ、と言ってのけた。どこからその自信がくるのだろう。リミが既に席に着いていなければ、ミノルはアズサを抱えて回れ右をするところだったのだけれど。よれた服を着て、履き古した運動靴の人間が来ていい場所ではないことは、客層から見ても明らかだった。
平然と姿勢よく座っているリミを、少しだけ恨みがましく見つめる。ミノルがお金持ちではないことは知っているはずなのに、どうして彼女がこういう場所を選んだのかわからなかった。
おっかなびっくり席に着いて、ミノルはハンドルキーパーなのでお茶を頼んだ。注文をするだけでひどく疲れた気分になった。二人は軽く相談して、日本酒とおちょこを注文していた。和やかに談笑している二人に、懸念していた事態にはなりそうになくてほっと胸をなでおろす。
リミは派手な顔をしている割に、落ち着いた物腰をしている。極端に大声を出すこともなく、笑うときにちょっとえくぼを作るのが唯一子供っぽく見えるところか。対してアズサは、やっぱり地味だった。大きな眼鏡をかけて化粧も最低限。そんなジャンルの違う二人が楽しそうにしゃべっている様は、どこか不思議な印象を与えた。けれども、どちらがより大人に見えるかと言えば、やはりアズサだった。実年齢がそうである、ということよりも、姿勢と態度に余裕が見えるのだ。
不思議だな、とミノルは思う。
酒を飲んでミノルに絡んできた人と、同一人物だとは思えなかった。だらしなく緩んでいた口元が引き締まって美しく弧を描き、姿勢を崩して寝こけていた人が今、理知的に会話する。ミノルはその姿を、ただじっと見つめていた。
しばらくすると飲み物が置かれ、料理が運ばれてくる。
二人の会話は途切れることなく続いていた。時折ミノルにも話が振られるけれど、さほど長くは持たないのか、すぐに二人の世界に戻っていく。
それでも、会話を聞いているのは面白かった。アズサがIT関連の仕事をしていることも、リミが将来のために貯金していることも、今日初めて知った。
「
「アズサでいいのに」
「……笠網さんは、なぜミノルを家にあげようと思ったんですか? 危険だとは思わなかったんですか?」
リミの鋭い指摘に、手毬寿司を頬張りながらミノルはうんうんと頷いた。
どう考えても、ミノルに付きまとってきて世話を焼こうとするアズサはどこかおかしい。善良である、という言葉で片付けられる範囲ではないように思う。裏がないかと勘繰ってしまうのは、人として仕方のないことだった。
「情が湧いちゃってね」
そう言って、アズサが苦笑いした。ミノルは彼女との出会いを最初から思い出してみたけれど、情が湧いたというタイミングが全くわからなかった。自転車で送ったときだろうか。アズサは終始気持ち悪そうにしていたから、そんな余裕はなかったように思うけれど。
「ミノルを都合よく扱ってませんか?」
「どう思ってるかは本人にしかわからないけど、嫌だと思ったならここにはいないんじゃないかな」
フグの唐揚げを味わっていると、唐突に二人から強い視線を浴びた。幸せな気分から一転して、緊張にお腹が冷える。
自分に振られるとは思っていなかったので、全く心の準備ができていなかった。答える言葉が見つけられずあたふたとしていると、リミがふうと溜息をついた。できの悪い妹が空気をぶち壊してしまって、それを嘆くようなそんな様子だった。
対するアズサはにこにことしている。二人の間に突発的に発生していたピリピリとした空気は、いつの間にか霧散していた。
それからは、当たり障りのない話題に終始した。最近の流行ドラマや昔の映画など。さらりさらりと耳を流れていく言葉に、時折相槌をうつように頷く。
甘味まで完食して場が落ち着いたあと、最初に伝票を取ったのはアズサだった。次いでリミが、払いますよ、と申し出る。ここを選んだのは自分だから、と食い下がる彼女はしかし、アズサになにかを耳打ちされると途端に大人しくなった。貯金、という言葉が聞こえた気がしたけれど、アズサはどう説得したのだろうか。リミが言い負かされているのを初めて見て、ミノルは自分がいかに口下手かを痛感した。リミから気持ち程度のお金を貰って、アズサは慣れた手つきでクレジットを切った。
リミをお店に送り届けたあと、アズサのマンションへと車を走らせる。この後も送迎の仕事があるから、来客用の駐車スペースに車を停めて一旦部屋に引き上げることにしたのだ。
「お金、大丈夫だったの?」
「大人になるとさ、張らないといけない見栄ってのが出てくるんだよね」
「それは、大丈夫じゃないって言ってる?」
「さあ?」
エレベーターを降りて外廊下を進む。今さら払えと言われても払えないので、ミノルはそれ以上聞かないことにした。アズサはそんなミノルの保身を察してか、にやにやと笑っていた。
アズサが鍵を回す。二人で連れ立って中に入り、ドアを閉めた。
マンションの土間は狭い。二人で入れば当然、密着した状況が出来上がってしまう。ミノルはできるだけ隅の方に身を寄せると、アズサが靴を脱いで部屋に上がるのを待った。
そうしてしばらく天井を見上げながら待っていても、彼女は一向に動く気配を見せなかった。ちらりと視線を下げれば、こちらを見上げる瞳とぶつかる。
一歩、彼女が踏み出した。狭いスペースではとても大きく感じられる一歩だった。後ろに下がろうとして、靴裏が掠れた音を立てる。
彼女が眼鏡を外して靴箱の上に置いた。その手がやたらと白く見えて、身体が勝手に硬くなる。二人の距離はほとんどなかった。互いの服が擦れて乾いた音を立てる。体温が直接伝わってくるかのような、そんな距離でアズサがミノルを見上げている。わずかでも動けば、なにかが触れてしまいそうな距離感だった。
ミノルはただ息を潜めていた。どういうつもりなのか、彼女がなにを求めているのかもわからなかった。ただそこに立って、ミノルを見ているだけの彼女が次に起こすであろう動きを、ただひたすら待っていた。
一方のアズサも、ミノルが抵抗もせず逃げもしないことに戸惑っていた。飲酒後の高揚感とともに、少しからかってやろうと思っただけだった。身じろぎもせずに見下ろしてくるミノルに、アズサは内心で困っていた。硬くなった表情を和らげようと、目の前の頬に手を伸ばして、手のひらでほぐすように撫でさする。
「逃げないの?」
「逃げ、る……?」
アズサを突き飛ばして、逃げる。その発想自体がなかったミノルは、そのことにひどく驚いていた。
回らない頭で、とりあえず距離を取ろうと手を持ち上げる。けれどもミノルの手は、料理店の時のようにアズサの服の裾をただ掴んだだけだった。自分でもなにをしているのかわからなくなって、ミノルはまた混乱に身を硬くした。
その様子を見ていたアズサが、ふっと笑った。きれいな表情だった。両手でミノルの腰を優しく捉え、ゆっくりと身体を重ねてくる。漏れた呼吸音はどちらのものだったのか。アズサの顎がミノルの肩に乗り、真正面から密着する。身体に押しかかる熱は、ミノルの心をひどく泡立たせた。
「仕事、早く帰ってきてね」
耳元でささやかれた声は、散歩にでも行くかのような気軽さでミノルの脳を焼いた。頭が沸騰する。これはダメだと、言葉よりも身体が反応した。ミノルの手がアズサを乱暴に突き放そうとして、そうするよりも早く、当の本人が逃げていった。軽い足取りで部屋に入っていく背中を見ながら、ミノルはほっとすると同時に、なぜか少しの物足りなさをも感じていた。
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