第13話(木)
「いいよ。行く」
即答だった。
昼を過ぎた時間帯。弁当を頬張りながら、リミとの会話のことを話すと冒頭の答えが返ってきた。
外は相変わらずの雨だった。春の長雨というのか、いい加減うんざりとしてしまう。
「リミちゃんだっけ? いい友達だね。ミノルちゃんを心配してそんなことを言い出すなんて」
アズサの屈託のない笑顔に、若干の後ろめたさを感じて口をつぐむ。
友達と言ってしまっていいのだろうか。恋人でももちろんないけれど、互いの需要と供給が一致してしまった結果、そういう行為ばかりを重ねてきた相手だった。
正直に言うべきか迷って言葉を濁していると、両頬を挟まれて視線を目の前の女に固定された。間近にある瞳に促されると、ミノルは小さな嘘すらもうまくつけなくなってしまう。
「……リミは、肉体関係がある友達」
「なるほどね」
アズサはパッと手を放してミノルを解放すると、残っていた弁当を食べ始めた。その顔をちらりと盗み見たけれど、これといった表情の変化は見られなかった。
しばらく食器の立てる音と咀嚼音だけが続いた。ミノルも食事に集中していると、ふいに、出たとこ勝負かな、と呟く声が聞こえた。
どういう意味か聞こうとして、私が殴られそうになったら助けてね、と言葉を続けたアズサに遮られる。
「リミは恋人じゃないし、アズサさんは浮気相手でもないでしょ」
「痴情のもつれは思った以上に恐ろしいんだよ。とりあえず覚悟だけはしておかないとね」
なにもなければそれでいいんだけど、と独り言ちると、アズサは控えめに並べておいた味噌汁を手に取った。彼女が形の崩れた木綿豆腐を箸でつまんで口に運ぶ。その様子を見ていると、なんとなく気恥ずかしくなって、ミノルはその口元から視線を逸らした。暇つぶしに作ったものだったから、味付けを工夫したとか、珍しい食材を入れたとかそういうわけでもない。そんなごく普通の食べ物を、おいしい、と言って食べるアズサに、身体中がぞわぞわとして落ち着かなくなった。
食べ終えると、彼女は立ち上がって使った食器をシンクに移動させた。
「今ちょっと忙しいから、あとでまた話そ」
箸が止まっていたミノルの髪をぐしゃりと乱してから、アズサは隣の部屋に引っ込んでいった。
ミノルがささやかながら料理をし始めたことを、アズサはことのほか喜んでいるようだった。
一人暮らしでは自炊する方がむしろコスパが悪いと気付いてから、外食や総菜で食事を賄ってきた彼女にとって、キッチンで作られるそれはひどく新鮮に感じるらしかった。
おいしくないものも出すかもしれない、とミノルが言うと、それはそれで面白くていい、と前向きな回答が返ってくる。そんな彼女だからか、その夜さっそくと現金が入った財布をミノルに押し付けてきた。食材の他に日用品も買っていいという話だから、気前がいいと言うのか不用心と言えばいいのかわからない。レシートだけは取っておいてと言われたので、使い道について確認する気ではいるようだけれど、その無防備な姿勢には呆れてしまった。しっかり管理された方がミノルにとっても安心できるので、注意ぐらいした方がいいのかな、と少し思案するはめになった。
◇
リミに会って、三人での食事会は金曜日の夜ということになった。お店はリミが決めてくれると言うのでお任せする。
バックミラー越しに見た彼女の表情におかしなところはない。アズサが痴情がなんだと言っていたけれど、彼女が激昂して誰かに殴りかかる姿は想像すらできなかった。ミノルよりも少し年上で、落ち着いた口調で話す彼女は、そうした狂乱とは無縁なように思える。性欲が絡むと、途端に厄介な人間に成り下がる人ではあるけれど。
それでも、ミノルに見せていないだけで、彼女にもいろんな面があることは知っている。お店で一度だけ見た、他人に媚びを売るような彼女。高く甘ったるい声を出して、大げさに相手を持ち上げるような振る舞いをする姿は、ミノルはあまり好きにはなれなかった。
雨粒に塗り込められた窓は、目に映る景色を極端にぼやけさせる。せかせかとワイパーが動いて進むべき道を見せようとしてくれるけれど、それも長くは持たない。
目を凝らしながら慎重に運転していると、リミが身じろぎする気配がした。
「ミノル。……その人とは、したの?」
「するわけないじゃん」
あれ、とミノルは思った。
アズサはただの知り合いだと前に言ったような気がしたけれど、リミの中ではどう認識されているのだろう。ただの知り合いだと念を押した方がいいのだろうか。けれどなんとなく、言い訳がましく聞こえてしまいそうで思いとどまった。
ふと、ベッドの中、隣で熟睡するアズサの姿を思い出した。
知り合いというには近すぎる距離だった。背後から触れてくる熱も同時に思い出して、アズサのことをどう表現するのが正解だろうと考える。
結局、答えは見つからないままに、静かに夜は更けていった。
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