第12話(水)

 ぱちりと目を覚ました。

 一瞬で覚醒した意識が、周囲の状況を確認する。外はまだしつこく雨が降っていた。まるで梅雨にでも入ってしまったかのような長雨だった。

 隣で寝ていたはずの人はいなくなっていた。耳を澄ませても、物音ひとつしない。


「ネコ、大丈夫かな」


 置いてきてしまった白猫が、今更のように気になった。濡れた身体で寝袋に潜り込んできた夜のことを思い出す。昨日は暖かいところで眠れただろうか。今日様子を見に行ってみようかな、とミノルは台所に向かいながら考えた。

 コップに水を注ぎ入れていると、がちゃりと扉の開く音がした。外の湿っぽい風が室内に入ってきて、探していたその人が廊下から姿を現す。


「おはよ。今日は元気そうだね」


 そう言ったアズサの方は、どことなくくたびれた様子だった。おはよ、と返してコップを傾ける。足音がして、背中に温かいものがまとわりついてくるのを感じた。その感触にびくりと身体を揺らしたけれど、急いで引き剥がすほど嫌というわけでもなかったので放っておく。アズサは猫のように背中に頬を擦りつけたあと、鼻先をミノルのうなじに寄せてきた。髪の中に割って入ってくる感覚にぞくりとして、身を捩って距離をとる。

 元々緩かった拘束は既に解けていた。ミノルがしきりに首筋をこすって立ってしまった鳥肌をなだめていると、アズサがその様子をいたずらっぽい表情で見ていた。

 

「ミノルちゃんのTシャツ勝手に借りちゃった。なかなかバッグに入ってくれなくて困ったよ」


 なんの話? と聞き返そうとして、玄関の方でにゃあとなにかが鳴いた。慌ててそちらに向かうと、見慣れないキャリーバッグが置いてあり、その中に白い毛並みの猫がいた。内側から爪を立てて、がりがりと削りながら不満だと鳴いている。バッグの奥の方に、昨日ミノルが着ていた長袖のシャツがくしゃくしゃに丸めて置いてあった。


「ネコ?」

「うん。今朝もあそこにいたから連れてきた。午前中に動物病院に連れてくけど、一緒に来る?」

「行くけど……」


 なぜ、という疑問が湧く。

 ネコを引き取るつもりなのだろうか。三日前に知り合ったばかりの野良猫を、そんなに簡単に引き取ると決意できるものなのだろうか。それとも、飽きたら捨てればいいとでも思っているのか。嫌な想像をしてしまって、自然と目つきが厳しくなる。

 

「あれ、嬉しくない?」


 キャリーバッグの前で固まってしまったミノルを見て、様子をうかがうようにアズサが顔をのぞき込んでくる。視線を合わせるように、彼女はミノルの隣で腰を落とした。

 

「勝手に連れてきたの、嫌だった?」


 子どもに問いかけるような、優し気な声音だった。

 こういう時の、アズサの雰囲気が苦手だった。自分が無力であると思い知らされるような、圧倒的な断絶を感じさせるそれが嫌いだった。


「大丈夫。ネコのこと考えてくれてありがとう」

 

 だから答える声が硬くなるのは仕方のないことだった。アズサが微妙に納得のいっていない表情をしていたけれど、それは無視して部屋に戻った。

 アズサがどう考えているのかは、後で確かめればいいことだ。

 よく考えれば、あのまま河川敷にいたら流されて命を落とすかもしれなかったのだ。アズサに感謝こそすれ、疑いの目を向けるのはよくないことだと思い直した。

 


 時間を見計らって二人で動物病院へ行って、診察とシャンプーをしてもらってから部屋に戻ってきた。アズサが組み立て式のケージを買ったから、ネコにはしばらくそこで過ごしてもらうことになりそうだった。組み立ては当然ミノルの仕事だ。帰ってくるなり隣の部屋にこもったアズサを責めつもりはもちろんなく、説明書を見ながらちまちまと組み上げていく。たまにネコが寄ってきてにゃあと鳴くものだから、つい撫でまわして遊んでいたら、なかなか作業が終わらなくて想定以上に時間がかかってしまった。



 ◇



「しばらくリミのとこには行けないかも」


 バックミラー越しにそう言うと、後ろに座っていた彼女は小さく溜息をついた。

 

「男でもできた?」

「知り合いの家に泊まらせてもらってて、帰りが遅くなると迷惑がかかるから」

「それ男?」

「女だけど……」

「それならうちでもよかったんじゃないの?」


 過去、リミに泊まっていけと言われたことが何度かあった。そのたびに、適当な理由をつけて断ってきたことを思い出す。人がいると寝られない、とか、寝ている間になにかされそうで怖い、とかだった気がする。どれも本心だったけれど、確かにリミからすれば混乱するのかもしれない。


「成り行きみたいなものかな。ちょっと言葉にしづらい」


 ふーん、と不満げな色を隠しもしないリミの様子に、軽く笑いが漏れる。

 

「たぶん、一週間もすれば元通りになると思うよ」


 期間を決めてはいないけれど、ずっとあそこにいることはないだろう。雨が止んで銭湯が営業を始めれば、きっとミノルはあの場所を出ていつもの河川敷に戻ることになる。ネコに関してはあのまま室内で飼われた方が幸せそうなので、お別れする覚悟ではあるけれど。

 そう言ったのに、リミはまだ納得していないのか、珍しく真剣に考え込んでいる様子だった。


「その人と会ってみたいんだけど、出勤前に連れてこれる?」


 特段、リミにふざけた様子はなかった。興味を引くなにかがあっただろうか、と考えて、彼女のことをよく知らないので予想がつかなかった。

 聞いてみる、とだけ答えて話を終える。

 アズサは行くだろうか。人見知りしそうな性質ではなさそうだし、妙なところで好奇心が旺盛だから行くと言うかもしれない。夜のお店に行くわけでもなく、リミはただ三人で食事をしようと言っているだけなのに、妙に不安になるのはなぜなのだろう。

 ミノルはよくわからない焦燥感のようなものを感じつつ、リミを送り届けてから家路についた。


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