第11話(火)

「とりあえず、話し合う必要があると思うの」


 今は昼の一時を回った頃だ。アズサは起きてからすぐに隣の部屋へ行って仕事を始めたし、ミノルは削られた気力を回復させることに専念した。結果、二人が再び顔を合わせたのは昼を少し過ぎたこの時間となっていた。

 アズサが冷凍の弁当を温めながら、隣に立つミノルを見上げてくる。仕事をしていたせいか、その表情はいつもよりぴりついた雰囲気を纏っていた。


「ミノルちゃんに嫌がらせをするつもりは全くなかったってことは、信じてほしい」


 受け入れるように頷いて返すと、彼女は険しくなっていた表情を少しだけ緩めた。彼女に悪意がなかったことは当然、理解していた。ただその信頼が、あの時確実に揺らいだこともまた事実だった。だから彼女が正直に話してくれた言葉が少しだけ嬉しかった。


「長袖長ズボンのパジャマか、ジャージみたいなのを貸してほしい」

「なんで?」

「肌に触れられなければ、たぶん大丈夫だから」

「無理に一緒に寝なくていいよ」

「他にできることがないし」


 寝つきが悪くなった、と言った彼女の言葉を信用するならば、ミノルが横で寝ることは意味のあることに思えた。ミノルが見ている前では、アズサの寝つきは抜群によかったのだから。

 電子レンジがひとつ鳴いて停止する。ミノルがキッチンミトンで熱い弁当を取り出すと、アズサが別の冷たい弁当を放り込んであたためボタンを押す。

 

「わかった。嫌なことになったらちゃんと起こしてね」


 頑丈な内袋を取り除くと、高温の蒸気が肌を掠めていった。気にすることなく、熱々の弁当をダイニングテーブルまで運んで、お箸を添えて置く。


「食費ぐらい払いたいんだけど」

「ホームレスからもらうお金はないよ」

 

 すげない答えに、ミノルは押し黙ることしかできなかった。まともな家で寝ろと、以前言われた言葉が頭の中に蘇ったけれど、ミノルはただ首を横に振った。

 しばらく待ってから、仕上がった弁当を取り出して先ほどと同じようにテーブルに並べる。健康的でおいしそうな内容だった。格安スーパーには絶対に並んでいなさそうな見た目に、自然と口内に唾液が溜まる。

 

「高そう」

「外食するよりは安いし、代わりに朝と夜は適当だからね」


 箸を手に取って、二人同時に食べ始めた。食事に集中したかったのか、食べている最中は双方とも話しかけようとはしなかった。食後、冷たいお茶に口をつける段になって、やっとアズサが口を開く。


「夜は何時ごろ?」

「二時は回らないと思う。早ければ一時とかかも」


 遅くなるような送迎は断っているので、給料は安いけれどそこそこ早く帰れることが多かった。その代わり、週六日で出勤するはめになっているのだけど、それは仕方がないと諦めている。

 わかった、と応えた彼女は食事の片づけをすると、さっさと隣の部屋に引っ込んでしまった。ミノルも食べ終えた容器をゴミ箱に捨てて、一つ伸びをしてから部屋の中を見回す。この部屋のものは好きに見ていいと言われていたので、さっそくと本棚に刺さっていた本を抜き取ってぱらぱらとめくっていく。

 本の傾向としては、実用書と専門書が多いなという印象だった。特に科学的なものが多い。文芸書もそれなりに大きな空間を占めているから、幅広く本を集めて読むタイプらしかった。最近は電子書籍で購入する人も多く、本を一冊も持っていないという人もいると聞く。ここまで本を溜め込むのは少し珍しいなと思った。


 なんとはなしに料理の本を手に取る。先ほど食べた弁当はおいしかったけれど、食費がかさむのはいただけなかった。料理は得意ではないけれど、頑張れば多少はできるようになるかもしれない。そう思って、入門書と表紙に大きく書かれたそれを、最初のページから順にめくっていった。

 

 

 ◇



 リミの誘いを断って、アズサの部屋に帰り着いたのは午前一時半を過ぎた頃だった。

 エントランスで呼び出すと、無言のまま自動ドアが開かれる。エレベーターに乗って彼女の部屋の前まで来ると、ドアの隙間からこちらをのぞいていた彼女と目があった。


「おかえり」

「……ただいま」


 手早くシャワーを浴びて、用意されていたパジャマに袖を通す。春や秋に着るような少しだけ厚みのある生地に、手首と足首で緩く絞られたデザインのそれはミノルの希望した通りのものだった。新しくはなさそうだったので、偶然丁度いいものを持っていたらしい。全身が灰色だから、汚れについてもさほど気にしなくていいのも気楽でよかった。

 ベッドには既にアズサが寝転がっていた。寝られない、というのは方便ではなく本当のことらしかった。今の今まで半信半疑だったのは、そんな彼女の姿が想像できなかったからだ。そういう機会があるたびに寝落ちする姿を見てきたのだから、当然と言えば当然だった。それでも、今ミノルの目の前でつまらなさそうに寝返りを打つ姿は本物で、彼女の言葉をまさしく裏付けるものだった。

 部屋の隅で立ち尽くしていたミノルを認めた彼女は、すかさず掛け布団をめくってマットレスを叩いてきた。輝くような笑顔に促されて、空けられた空間に滑り込む。


「大丈夫?」

「うん」


 背中から回された腕が、やんわりとミノルの腹部に乗せられる。今朝と異なるのは肌を覆う布地が厚いことと、いつでも逃げられるという安心感があることだった。

 電気が消えて、後ろの気配がすうっと薄くなっていくのを感じる。その前にと、聞きたかったことを慌てて口にした。

 

「なんで、わたしがいると眠れるの?」

「……大人しい大型犬みたいだから? ドッグセラピー? みたいな感じなのかな」

 

 本人もよくわかっていなさそうな答えに、首を傾げる。この髪も犬っぽいし、と言われて背後から頭を撫でられる。軽く前屈して逃れると、それ以上は追ってこなかった。アズサは代わりとばかりにミノルの背中に額をこすりつけてきて、満足そうに息を吐く。

 

「あと、危険があったら吠えて教えてくれそう」

「番犬とセラピー犬か。仕事が多くてこなせそうにないかも」

「がんばって」


 くすりと笑った彼女は、それ以上意識を保っていられなかったようだった。

 すぐに穏やかな寝息が聞こえてきて、ミノルもつられて目を閉じる。

 眠気はさほど間を置かずにやってきた。

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