第20話(月)

「でも、その前にキスして」


 ミノルが驚きに動けずにいると、アズサが硬い声で言った。


「……リミから聞いたの?」

「そう」


 キスは、ミノルがリミともできなかったことだった。

 自身の口内が相手のそれと接触することに、苦手意識がある。無理にする必要もないので、リミに誘われても徹底的に断ってきた行為だった。


「深いやつじゃなくて、軽くでいい。それもできないなら、この話はなしにしよう」


 うっかりキスして手ひどく拒絶されたら耐えられないから、とアズサは言った。もっともだと思った。傷をつけられるのなら、浅い方がいいに決まっている。彼女はこれを踏み絵のように使って、ミノルとの関係がどうあるべきか確認しようとしているのだと感じた。

 鼓動を落ち着けて、想像する。アズサが言っているのは、唇同士を軽く触れ合わせる程度のことだろう。彼女の柔らかな口元を見て、そうすることをイメージして、直感的にできるなと思った。

 躊躇いがちに、その腰を両手で引き寄せる。重なった身体から熱が伝播し、じっとりと背中に汗をかいた。顔を近づけようとして、興味深そうに瞬く瞳と目が合って、慌ててブレーキをかけた。 


「目、閉じて」


 アズサはいたずらっぽく笑うと、素直に目を閉じてみせた。早くしてね、と煽るように喋るその口を塞ぐように、素早く口づける。感触はあまりわからなかった。ふわりと形を変えてミノルの唇を受け入れたそれをもう一度確かめたくて、再度重ねる。

 まぶたが上がって、目が合った。


「顔、赤いね」

「アズサさんも」


 眼前の濡れた瞳がただミノルだけを映しているような気がして、また口づけた。ほかのものが目に入らないように、ただ自分だけを見てくれるように、そう願いを込めて。


「してみたら意外に苦手じゃなかった?」

「そうかも」


 舌を入れるとか、そういうことをしたいとは思わないけれど、アズサの唇は気持ちがよかった。何度でもしたいと、そう思えた。行為に夢中になるままに室内を移動し、もつれるようにベッドに倒れ込む。直前に、慌てたように眼鏡を外したアズサの、その余裕のなさそうな行動がミノルの心に火を着ける。身体を捻ってミノルの上に乗ろうとしてくる彼女を、しっかりとベッドの上に押しとどめた。

 馬乗りになったのはミノルで、下敷きになったのはアズサだった。ひとつ唇を落として、どこか悔しそうな表情の彼女を宥める。身体は既に熱く、ともすれば暴走しそうなほど肌が泡立っていた。けれども、その勢いのまま彼女に迫るのがまずいということも、ちゃんとわかっていた。


「じゃあ、襲うね」

「……うん」


 熱い吐息が漏れる。真っ赤になった互いの顔を見つめながら、手をその身体に這わせていく。首の筋に触れ、鎖骨を撫でる。決して強くはしない。産毛を流すように手のひらを動かし、その肌にくすぐったさを呼び起こしていく。ミノルのズボンをぎゅっと握り締めながら、慣れない刺激に耐えているアズサはひどく扇情的で、見ているだけで息が乱れた。

 服の上から身体のラインを感じ、我慢できなくなって裾から手を入れる。びっくりしたように震えた身体を感じて、安心させるようにまた一つ唇を落とす。慎重に触れた肌はじっとりと湿っていた。指先が滑って、それに彼女が反応を示す。下着を押し上げ、晒された胸に手を伸ばす。


「……っあ」

 

 びくん、と身体が跳ねた。手が硬くなったそこに触れて、彼女が嫌がるように身悶える。その反応に、頭が沸く。色を帯びた掠れた声が、汗に濡れるその肌が、ミノルの思考を白く塗りつぶし、目の前のものしか考えられないようにする。ふうふうと荒く息をついているのは果たしてどちらの方なのか。彼女の唇が薄く開かれていても、構わず口づけ、手の中から溢れる柔らかなものを堪能する。気持ちがいい、と思った。他人の肌に触れることが、こんなにも気持ちいいだなんて、知らなかった。

 濡れた瞳とぶつかる。戸惑いと性欲と、友情ではない気持ちを混ぜ込んだその視線が、ミノルをひどく高ぶらせる。相手を傷つけないようにと配慮する気持ちが薄れていき、性急に事を運びたいと本能が声高に叫び出す。

 手を後ろに延ばして、太ももに触れた。またびくりと震えた身体は、ミノルに押さえつけられて容易に動くことはない。はあ、とまた熱い息が漏れる。彼女を組み敷きながら、手を上へ上へと登らせていく。彼女が少し抵抗する素振りを見せた。けれども、ミノルにとってそれはなんの障害にもならなかった。

 服の上から手が触れる。目的の場所に届いて、ミノルの頭が少しだけ落ち着いて、アズサがその刺激に息を詰めた。その時だった。

 彼女の顔を覆うように、なにかが横入りしてきた。白いものが彼女の胸のあたりに乗り上がり、そしてミノルを咎めるように、にゃあと鳴いた。


「……ネコ?」


 にゃあにゃあとしきりに鳴くネコは、ミノルになにかを訴えているように見えた。前足で腕をぽんぽんと叩かれて、思わずアズサの胸に添えていた手を離す。すーっと、マグマのように滾っていた熱が嘘みたいに引いていく。彼女の様子を確認しようと首を伸ばせば、それを阻止するようにネコが両前足でミノルの顔を抑えてくるものだから、彼女とアイコンタクトすら取れなかった。


「アズサさん?」


 呼びかけると、太ももを叩かれた。どけということだろうか。仕方なく彼女の上から退くと、ネコが満足そうにひとつ鳴いて、アズサの上に乗ったまま毛づくろいを始めた。


「どういうこと……?」

「……たぶん、私がいじめられてると、思ったんじゃないかな」

「そんなことある?」


 ぐったりとしたまま、アズサがネコの背中を撫でている。しっぽをピンと立てて、彼女の顎のあたりに身体を擦りつけている様子を見て、ミノルは胸にわだかまっていた熱を溜息とともに吐き出した。すっかりといつもの状態に戻ったミノルは、この時になってようやくテーブルに並べていた夕食のことを思い出した。


「料理、冷めちゃったかも」

「温め直そうか」

 

 ネコを抱えて起き上がったアズサはしかし、顔をしかめると、トイレ、と言って出ていってしまった。残されたミノルは一人でおかずを温め直し、アズサが帰ってくるのを大人しく座って待っていた。

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