第19話(月)

 木陰が顔にかかる。

 風に吹かれるせいで、零れ落ちてくる光が目に入ってきて少し眩しい。梢が揺れて、ザワザワと掠れた音が鳴る。生い茂る葉の隙間から覗いた太陽は、すっかりと陽気な気配を漂わせていた。 

 管理の行き届いた公園のベンチ。大木の陰となった場所に、ミノルは手足をだらりと投げ出して座っていた。

 暖かさを秘めた風が、癖のある髪をさらりと乱していく。

 

 「おう、嬢ちゃん」


 日に焼けすぎて焦げたような肌の色をしたじいさんが、ベンチの反対側に腰かけていた。いつぶりだろうか。いつものようにごま塩頭を撫でつけながら、ミノルの頭からつま先までをひとしきり眺めて、一人頷いていた。


「太ったな」


 かかっ、と豪快に笑う彼に、思わず自身の身体を見下ろした。


「そう?」

「よか顔色ばしとる」


 そう言って、かわいがっている孫でも見るような目をしたじいさんに、ミノルはどう反応していいのかわからなくなって押し黙った。


 「前は痩せた野良犬みたいじゃったが、見違えたのう」

 「もしかして、貶されてる?」


 あけすけな物言いに眉をしかめる。この国では野良犬はすぐ捕獲されるから、ミノルは実物を見たことがなかったけれど、それがいい表現でないことぐらいは知っていた。ミノルが不満そうな顔をしても、彼は気にした風もなく笑っている。


「まさか。よかったな、って言いよったい」

 

 彼は腰を屈めると、足元に置いていた荷物からなにかを取り出し、ミノルに放り投げてきた。それは銀色に鈍く光る缶詰だった。太陽に照らされて、書かれた文字がはっきりと見てとれた。


「コンビーフ?」

「肉が食べたかて言いよったやろ」

「……高かったんじゃない?」

「餞別や」

 

 じいさんはそう言って立ち上がった。しっかりしつつも少し曲がったその背中が、彼の年齢を如実に感じさせた。そこから視線を逸らして、手の中のものを見つめる。


「……ありがとう」

「もう戻ってきなさんなや」


 この公園はホームレスの溜まり場のような場所だった。多くのベンチが設置され、さらにひじ掛けもないので、身体を伸ばして寝そべることができるので人気があった。彼はミノルの生活環境が変わったことを察し、釘を刺してきたのだろう。もう宿無しには戻るなと。口調は軽いけれど、それは彼の本心に違いなかった。


「それは、約束できないかな」

「しっかりせい」


 自分のことは棚に上げて、こんな生活を続けるものじゃないと他人に言い続けてきた彼はひどくお節介で、自分のことよりも他人を優先する人だった。

 少し笑って、手を振って別れた。じいさんはいつもこうだ。唐突に話しかけてきて、食べ物を投げてよこして、笑いながら去っていく。

 助けられていたんだな、と思った。ともすれば孤立しそうになっていたミノルを見て、この世界に繋ぎ止めようとしてくれていたんだなと思った。

 自然と頬が緩む。手の中の缶詰を弄びながら、ミノルは今晩どう調理しようかなと思案し始めた。

 


 熱せられて気化した水分が、蒸気となってレンジフードに吸い込まれていく。しんなりした新玉ねぎと半透明になったジャガイモに、例のコンビーフを加えて炒める。黒コショウを振って味にパンチを効かせると、それなりのものができあがった。具をたくさん入れたコンソメ味のスープを付け合わせ、炊き立てのご飯をよそう。

 ネコと遊んでいるアズサを跨ぎ超えて、ダイニングテーブルに夕食を並べていく。品数は多くないし、二人とも食欲旺盛というわけでもないので、すぐに準備は整った。アズサに声をかけると、ネコを胸に抱きながら近寄ってきた。


「ありがとね、ミノルちゃん」

 

 流れるように鎖骨のあたりに唇を寄せられて、ドキリとする。最近、こういうスキンシップが増えたような気がする。大きな妹をかわいがるような手つきではなく、息が苦しくなるような、ミノルを落ち着かなくさせる雰囲気を纏っていた。一度、釘を刺した方がいいのだろうか。このままでは身が持たなくなりそうで、ミノルは少しだけ乱れてしまった息を意識的に整えた。


「アズサさん、そういうのやめよう?」


 ネコを間に置きつつ、正面からミノルにくっついてきたアズサを静かに引き剥がす。きょとんとした彼女の瞳と目があって、なぜか気まずくなってすぐに逸らした。


「なんで?」

「なんでって……」


 鼓動が忙しなくなって仕方がないから、とは言えなかった。

 ネコがぴょんとアズサの手から飛び降りると、餌皿の前に陣取ってにゃあと鳴いた。ちょっと待っててねえ、と言いながら彼女はネコの要求のままにドライフードを手早く投入している。最近はずいぶんとアズサに慣れたようで、露骨に避けることはなくなっていた。


「……わたしたちは、そういう関係じゃないでしょ」


 ミノルの言葉に、アズサがよくわからないと言わんばかりに首を傾げた。


「ミノルちゃんは、私のこと好きでしょう?」


 それは問いかけであって、問いかけではなかった。確信を持った響きに、ミノルは思わず俯いた。自身でも薄々気がついていたことだった。彼女に魅かれていく自分の心が容易く見透かされていたことに、顔が赤くなる。


「なおさらよくないじゃん」


 ミノルの気持ちをわかっていてなお、それを煽るような行為をするアズサが不思議だった。ミノルがその気になれば、彼女はまともな抵抗すらできないだろうというのに。危機感がないのだろうか。ないんだろうな。出会った時からそうだったことをミノルは思い出した。


「いいんだよ。大体わかったから」

「なにが?」

「そういう指向が自分にもありそうってことが」


 どくん、またひとつ心臓が鳴った。目の前の彼女に聞かれたかもと心配になるくらいの鼓動だった。動揺していると、いつの間にか距離を詰められていた。逃げ場所を探すように周囲を見渡しても、ここはアズサの部屋で、彼女の巣の中だった。壁際に容易く追いこまれたミノルは、苦し紛れに彼女の肩を押して距離を取ろうとする。


「……からかわないでよ」

「別にからかってないけど」


 下から顔を覗き込まれる。

 逃れようと顔を逸らしても、両手で強引に引き戻される。その意思を秘めた視線を受け止めきれず、口にしなくてもいいことがぽろりと零れ落ちた。


「そういうことばっかりしてると、襲うよ?」


 ぴく、と頬に触れていた指先が反応した。ああやってしまったと、そう思った。過去に一度だけ同じような言葉を使った覚えがある。けれど、今とは状況が違い過ぎた。毎晩一緒に寝ている相手から、そういう言葉を向けられる。それは彼女にとってどれほどの心理的な負担となるのだろう。最悪、今すぐ荷物をまとめることも考えていた。けれどアズサは、なんでもないことのようにミノルの言葉に頷いた。


「いいよ」

「……本気?」


 うん、と小さく頷いたアズサの頬は、少しだけ赤くなっているような気がした。

 そんな彼女の様子を、ミノルはただぽかんと口を開けて見ていることしかできなかった。

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