第18話(日)

「そろそろ聞いてもいい?」


 夜。ベッドに座っていたミノルの隣に、アズサもまた腰を下ろしていた。

 こぶし一つ分空いた空間に、ひやりとした夜風が滑り込む。

 ミノルは身体を伸ばして網戸にしていた窓を閉めた。遮光カーテンが揺れて、黒く塗りつぶされた景色がちらりと目に入る。


 なぜあんな状況になっていたの?


 続けられた問いは、誰かを責める意図を持たなかった。なぜホームレスなどと危険で非文明的に見える真似をしているのかと糾弾するのではなく、ただ純粋に知りたいのだという意思だけを感じさせた。

 

「わたしがなんでミノルって名付けられたか、わかる?」


 わからない、と首を横に振る彼女を一瞥し、女の子の次に男の子が欲しかったから、と答えた。

 ミノルには姉がいる。五つ離れた、ミノルとはあまり似ていない姉。両親から祝福されながら彼女が生まれた後、なかなか子どもができない時期があった。妊娠がわかった時は家族三人で大喜びしたらしい。きっと男の子だと盲目的に信じ込んでいた彼らはしかし、生まてきた女の子を見て途端に興味を失った。


「男だと思って考えられていた名前を、そのまま付けられたから」

 

 両親はミノルに興味がなかった。姉を愛情深く育てる一方、ミノルはそこにある空気のように扱われた。暴力や暴言がなかったのは幸いだったけれど、話しかけてもあまり反応を示さない両親は、ミノルにとってただご飯と寝床をくれるだけの相手で、自分の家族だとは到底思うことができなかった。

 早く家を出ようと決意したミノルはしかし、頭の出来は平均的だった。唯一得意だったのは身体を動かすことで、とある武道をやり始めてからは一気に将来への道が開けた気がして嬉しかったのを覚えている。


「学費免除の特待生枠で高校、大学と通って、いい条件の奨学金ももらってた」


 高校から寮生活を始めて家族から解放されると、今度は自力で手に入れた居場所を必死で守るようになった。

 ただひたすら部活に打ち込んだ。日々の生活に必要な最低限の時間を除き、多くの時間を注ぎ込んで自分の得意なものを磨いた。

 誤算だったのは、一人で頑張り過ぎたことだろうか。部活内でそれなりの地位にいたけれど、周りを見てなにかをするということがなかった。自分に求められているのはそういうものではないと理解していたからだ。実際、ミノルが強くあればあるほど下級生には慕われたし、同級生や上級生からも一目置かれていた。見栄えのいい表現をするならば、背中で引っ張るタイプだったと言えた。


「不祥事があって、学費免除と奨学金が取り消された。退学するしかなかった」


 両親が助けてくれるわけもなく、大学の職員にも相談してみたけれど、親身になってくれる人はいなかった。顧問は方々への説明と謝罪に忙しく、そうしている間にミノルはあっさりと退学届けにサインしていた。

 

「不祥事って?」

「部員同士のいじめ。下級生が階段から突き落とされて大けがをした」


 元々雰囲気のよくない部活ではあった。けれども個人競技で、かつ武を競うものであるなら多少は仕方のないことだと思っていた。事実、ミノルに突っかかってきた上級生もいたけれど、全て躱すか返り討ちにしていた。

 

「だから、別に誰かが悪いということじゃなくて、わたしはなるべくしてああなってたってこと」


 そこから先はアズサが知っている通りだった。

 退寮しても帰る家はなく、全てをかけて取り組んでいたものはあっさりと取り上げられた。ミノルの心には疲労と無力感だけが残され、ぶらりぶらりとその日暮らしを続けることになった。


「そうだったんだ」


 ぽつりと零された言葉が宙に漂って消える。

 横に座っていたアズサの手がミノルの背にそっと触れた。


「大変だったね」


 そんなことはない、と言おうとして言葉に詰まった。

 深く息をついて、こみ上がってきていた感情を押し流す。自分の力ではどうにもできなかった部分もあるけれど、どうにかできた部分も確かにあった。だから、そんなに優し気な声を出さないでほしかった。身に纏ったなにかが、ぽろぽろと剥がれ落ちてしまうから。

 肩に彼女の頭がゆるく乗せられる。脇腹にかかっていた指が少しだけ食い込んできて、その強さを感じながら、両手で顔を覆った。

 言葉はなかった。それ以上の言葉はミノルには必要なかった。

 彼女の体温と静かな鼓動を感じながら、ミノルはしばしの間ただ目を閉じていた。

 

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