第4話 葉祥

 昨夏のことだ。

泳ぎ疲れたウタリは、いつものように岩棚の上に身を休めた。

午後の陽射しがいくらか和らいで、冷えた身体をじんわりと包んでくれる。

岩の上からだらりと垂らした足先を、波が静かに洗っていた。

海面に反射した光が片手の隙間から差し込んで、閉じた眼の上をゆらゆらと漂い、彼の微睡みはしばし揺蕩う波間の中にあった。

 ふと、水音がした…寄せる波の音ではなかった。

ウタリは目を開いた。

そっと起きあがり岩陰から向こうの気配を窺う。

 実はこの入江は、彼にとって危険なところでもあった。

この浜の先にある密筑里みつきのさとは、という西の国から大船に乗ってやって来た人々の里である。

 彼等は入江からほど近い大きな泉のほとりに里を作った。田を拓き、畑を作って住み着いたのだ。

そして、その時から古潭との諍いが始まった。

 古潭の生活は採取や漁猟で成り立っている。里のように作物を育てたりはしない。

ところが密筑の里人は農耕だけでなく、狩りもするし、漁もするのだ。

それで獲物を巡って、しばしば争いが起きた。

 数で勝る里人は、キラキラと光る槍や剣で古潭の者を追い散らし、入り江の周辺を独占した。

古潭の誰もそれを認めたわけではないが、わざわざ争わずとも豊かな森は十分すぎるほどの幸を与えてくれる。

それで争いを好まぬ古潭では、今では無理に入江に向かう者もいないのだ。

 だが、ウタリは逆らいがたい好奇心と、夏の陽射しに突き動かされてしばしば山を降りた。

向こう見ずな少年だが、それでも里人の姿には充分注意を払っていた。

 岩陰の向こうにいるのは密筑の者か、其奴はウタリを見つけてここへ来たのだろうか。

相手が一人や二人なら、なんとか海中に逃れられる自信がある。だが、それ以上なら多少の怪我は覚悟しなければならないだろう。

 物音を立てぬように静かに岩を上ると、その先を覗いてみる。

だが、意外にもそこに見えたのは、濡れた黒髪と白い背中だった。

長い髪と華奢な背中を見せて、ウタリと同じ年頃に見える少女が岩棚に這い上がろうとしているのだ。

近くの岩場から飛び込んで、一泳ぎした後らしい。ここで身体を休めるつもりなのだろう。

 彼女は岩棚に足を掛けて身体を引き上げると、そのままごろりと転がった。

仰向けに大きく体を伸ばし、降り注ぐ陽光の眩しさに目を閉じて、くすくすと楽しげに笑う。

 少女らしい薄い肉付きの肢体が、しどけなく岩場に投げ出され、その全てを余すところ無くウタリの眼下に晒していた。

そのまだ幼い胸の隆起に、少年の目は釘付けになった。

鼓動が大きく胸を打ったのを今でもよく覚えている。

 白く柔らかそうな肌に弾かれた水の玉が、滴となって岩場の上に滑り落ちてゆく。

黒い艶やかな髪が広がって、岩場を吹き抜ける夏風に乾きを任せていた。

整った眉と薄く閉じた眼、小さく隆起した鼻はちょっと生意気そうだったが、ぽってりと紅い唇からこぼれた白い歯が愛らしい。

 夏の太陽はみるみる濡れた岩場を乾かしていき、少女の肌も瑞々しさを含んだまま、ほんのりと紅を加えた。

流れる雲が太陽を横切ると、岩場の上に影を落とした。

 少女が薄目を開けると、水色の空に太陽を隠した白い雲が浮かんでいた。

ゆっくりと流れる雲を追って視線を巡らすと、少女のいる岩棚の上端が見える。

その天辺から、にょっきりと首を突き出した少年と視線が合った。

彼は、じっとこちらを見下ろしていたのだ。

「きゃっ」

慌てて飛び起き、両脚を引き寄せ両腕で胸を隠す。

 少年は固まってしまったように、岩場から顔を出したまま少女の視線を受けている。

その顔の褐色には、かなりの赤みを加えていた。

 少女はその顔を思い切り睨み付けたが、固まってしまった少年は瞬きもせずにじっと彼女を見つめているのだ。

その首を伸ばした格好が亀にそっくりだった、と後になって彼女は言った。

 少女は急に可笑しくなって笑ってしまった。

その笑顔で少年の緊張が解けたようだった。

岩場から覗いた顔が少女を見つめたまま、すーっと下がっていったのだ。

その様子が可笑しくて、少女はまた笑った。

 それから互いに名を名乗り、二人は日暮れ近くまでそこで過ごした。

ウタリが古潭の者だと知っても、葉祥は一向に意に介さないようだった。

その明るく笑う愛らしい少女に、ウタリはすっかり惹かれてしまった。

 それから毎日、古潭の坂を駆け下る彼の足は自然に速まった。

その夏中を葉祥と過ごして、秋の終わりに別れる時には、互いに離れがたい想いに苛まれた。

 そして半年の間、少年は葉祥の姿を待ちわびたのである。

だが、久しぶりに会った彼女は不安な面もちで、彼に悩みをうち明けたのである。

「分かった。きっと見つける」

そう言ったウタリの頬に彼女は唇を寄せた。その甘い香りを思い出す。

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