第二章 昨秋

第15話 大鹿

 彼は怒っていた。

赤銅色の肌が燃え上がるように朱に染まり、丈高く並み外れた体躯は怒張した筋肉でさらに大きく膨れ上がっている。

彼のあざなの由来でもある左側頭部に走る秋霜のような白髪も今や天に向かって逆立ち、濃い眉の下にある大きな目はギロリと周囲を睨んでいる。

 剛霜ごうそうは、里長の館から入り江の浜小屋に続く道を、ドスンドスンと足を踏み鳴らしながら憤怒の形相で歩いていた。

その背中には、破れた着物の隙間から幾条もの赤黒いみみず腫れが覗いている。

彼の背後には、これも怒りに顔を染めた里長を始め、里の主立った面々が去っていく剛霜の後ろ姿を憎しげに見つめていた。

 「全く‥船の民という奴は度し難い阿呆だ」

里長はまだおさまらぬ荒い息を吐きながら毒づいた。

「いい歳をして、未だ道理を知らん」

それは剛霜にしても同じ思いである。

「逆上しおって‥何をそんなに怯えているんだ」

「阿呆」「臆病者」と罵り合う彼等の関係は、そのまま里の民と船の民が長年にわたり互いに抱き続けてきた感情の顕れでもある。

 十数年前、彼等の主人が支配者としてこの地に降り立ったとき、「陸のことは里人に、海のことは船守衆に」と彼等の責務を分けた時からの確執である。

里人の役は狩猟と耕作、野草の採取となり、漁労と運搬は船守衆の役であった。

当初は互いに里に住み、それぞれの役務に励んでいたが、やがて陸に住まうがゆえに里長の権が強くなると、それを嫌った船守衆が里を出て、入り江の砂浜に浜小屋を建てて暮らすようになった。

 別居は反目を生み、船守衆は里の豊さに嫉妬し、里人は船守衆の役が軽いと憤った。

だが、主人に忠誠を尽くす点で両者は今まで折り合いをつけてきたのだ。

剛霜はどす黒く怒りながらも、燻り続けてきた不満の火種を抱えたまま、主人のためという大義に縛られて里の頼みを引き受けたことを後悔していた。


 事の起こりは一頭の大鹿だった。

干肉、毛皮、干魚、茸、加工用の骨や角、反物等、都へのみつぎを乗せて、毎年秋の終わりに旅立つ貢納船の出航期限が今年も迫ってきていた。

しかし、今年は陸の獲物である鹿の頭数が未だに揃わないのだ。

このままでは品不足のまま出発するか、出航を延期するかの選択に迫られる。

だが、いずれにしても都に着いたところで、彼の主人は遅延の廉か貢納品不足の罪で罰を受けるに違いない。

それどころか軽荷を運んだ船守衆にまで、とばっちりで罰が下るかも知れないのだ。

 船守衆の首の息子である剛霜は、今年都までの操舵を任されることになっていた。

夜毎星を測り、風を読みながら剛霜は出発の期限が間近に迫っていることに苛立っていた。

「里長は何をやっているんだ。鹿なんぞいくらでもいるだろうに」と、歯噛みしているところへ里の使いがやってきた。

南の葦原に大鹿が出たというのだ。

稀に見る大物だが、里の狩人達の大半は西の尾根に向かったために人数が足りない。取り逃がせば貢の期限に間に合わぬやも知れず、この際船の民にも助勢願いたいということだった。

日頃から狩りの腕でも里人にひけはとらぬと豪語していた剛霜は、貢の期限もさることながら横柄な里長に貸しを作る良い機会とばかりに十人程の手勢を連れて葦原に乗り込んだ。

 いったん小舟で入り江を離れ、白い砂浜が続く海岸線を南下すると、蛇行した大河とその支流が作り上げた砂州の向こうに見渡す限りの葦原が広がっている。

屈めば人を隠す程の丈高い葦の群生は、逃げ込んだ獲物を易々と狩らせはしない。

数多の動物たちを懐深く隠して、さわさわと風に吹かれているのが常である。

だが、今日の獲物は群を抜いていた。

堂々たる体躯は葦原の上にあり、頭上には巨木の枝と見まごうばかりに大きく張り出した見事な角が伸びていた。

「でかい‥」

 舟の上からも認められたその姿に、誰からともなく声が漏れた。

年月を重ねた壮年の牡鹿である。滅多に出会えるものではない。

剛霜達を見てもさして驚くこともなく、大鹿は悠然と葦原を闊歩し、時折風の匂いをかぐように鼻面を上げた。

この大鹿を捕らえて帰れば、日頃狩猟の腕を自慢している里人の鼻をあかすことが出来る。そう思うと押さえきれぬ興奮に剛霜の背筋はゾクゾクと波打った。

 舟をそっと砂州に着けると、剛霜達は散開して大鹿を追った。

狩りの手法は、遠巻きにした獲物を八方から徐々に追い込んで、逃げ場をなくしたところを弓で仕留めるというものだ。

剛霜達は大鹿を慎重に囲みながら、徐々にその輪を狭めていった。

「そっちにいったぞっ」

「回り込めっ」

しかし、大鹿は悠々と囲みを突破し、剛霜達の手を幾度もするりとすり抜けた。

河口付近の泥濘に足を取られ、葦原を掻き分け、全身泥まみれになりながら追い上げて、やっとのことで平野の終わる所、垂直に切り立った断崖の下まで追い込むことに成功したのは、葦原に夕日の色が濃く染まり始める頃だった。

 追いつめられたにもかかわらず、鹿は崖下に凛と立ち、辺りを威圧するような黒々とした目をこちらへ向けている。

見れば見るほど、惚れ惚れするような見事な大鹿だった。

これほどのものを里人の手柄にしてしまうのは惜しいものだと思いながら、剛霜はぐいと矢をつがえた。

 死を予感したのか、大鹿はこちらを真っ直ぐに見据えたまま一歩も動かない。

しかし剛霜は、その四肢が僅かに震えているのに気がついた。

『怯えているのか…いや、そんなはずはない。あれは‥鹿の王だ。』

剛霜は気を取り直して、弓手を絞ると急所の首に狙いを付けた。

だが、四肢の震えは見る間に大きくなって全身に広がり、大鹿は急にがくりと前肢を折ったのだ。

「ばかな‥」何が起きたのか分からず、剛霜はあっけにとられて弓を下ろした。

刹那、鹿は後肢に力を込めて一気に跳躍した。

「なっ‥」

見上げる剛霜達の頭上を遙かに越えて葦原に降り立つと、鹿は素早く反転して今しがた自分の生死を握っていた敵めがけて突進した。

「うわわ‥」

再び弓を構える間も無く尻餅を付いた剛霜は、必死に両脚を掻いて後退を試みたが、仰向けになった蛙のようにじたばたと土の面を藻掻いたに過ぎなかった。

狙いを定めて、低く構えた大角の鋭い先端が怒濤のように迫った。

強張った手足から這い上がってくる死の恐怖に剛霜の目が見開いた。

 その時、天空から影が射した。

黒い影が被さるように大鹿の背に跨った瞬間、鹿は大きく後脚立ちになった。

その首を片腕で押さえ、影は首筋の動脈を目掛けて短剣で一突きすると、すぐさま両手に持ち替えてあらん限りの力で横一文字に掻き切ったのだ。

捩れた首の切り口が開くと、そこから大量の血流が一気に噴き上げた。

その衝撃に大鹿は血飛沫を撒き散らしながらくるくると回転して、やがて剛霜の目の前にどうっと倒れ込んだ。

 寸前に鹿から分離した影は、今や両手を腰に当てて剛霜の目前に立っていた。

「立てっ」

大量の血飛沫を浴びながら、呆然としている剛霜に影は鋭く声を放った。

しかし剛霜は未だ鹿から目を離せないでいた。自分を見つめる大きな黒い目が急激に光を失っていくのを見ながら、彼はのろのろと身体を起こした。

 大鹿はその頭の部分だけでも、一抱えに余る大きさだった。

改めてその巨大な体躯を眺めると、胴の長さだけでも優に剛霜の背丈を越えていた。

そのなめらかな首筋には深々と切り込まれた傷跡が開き、今もどくどくと血液が溢れ出している。

 その下側、首の付け根のあたりに、ふと異様な傷跡を発見して剛霜は手を伸ばした。

何かが深く食い込んでいるような穿孔痕。その周囲が盛り上がって、瘤のように隆起しているのだ。

「これは‥」言い終わる前に、頭上から声が降った。

「オレの獲物に触るなっ」

 剛霜は初めて気がついたように、自分を見下ろしている影に顔を向けた。

「おまえの獲物?」

「そうだ」と答えた影は、よく見るとまだ少年のようだった。

年の頃は十をいくつか出た頃だろうか。滑らかな褐色の肌、薄い体で手足の細い少年が、燃えるような金色の瞳で剛霜を睨んでいる。

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