第14話 蒼空
ここしばらくウタリは入江に姿を見せない。
葉祥は軽く溜息をついて岩場を離れた。
冷えはじめた夕方の潮風が、胡服の裾をはためかす。
「もう今年は逢えないのかな」
あの日、戦いの後ウタリの手は氷のように冷たかった。
遠目には見えなかったが、彼の体は小さく震えていたのだ。
そして微かに聞こえた呟き「あれで…死ぬか」
ウタリは己の力に驚き、怯えてさえいるようだった。
そのことを葉祥は誰にも話さずにいた。
父や剛霜が近づいて来た時には、もう平然としていたウタリ。
だがその心は、ひどく乱れていたに違いない。
彼が見せた小さな弱さを、葉祥は自分一人の胸にしまっておきたかったのだ。
浜小屋の儀式にはとうとう出してもらえなかった。
だが父は顔を出したらしい。翌日、何かを大事そうに荷の中にしまいこんでいた。
浜小屋でウタリはどんな儀式をしたのだろうか。誰に聞いても答えてくれない。
父は出発し、葉祥は密筑に残された。
静織の迎えが来るまでは、この里に残り無聊の日々を過ごさねばならない。
昨年であれば、それも楽しかった。
ウタリや里の子達と浜辺で戯れている内に、いつの間にか日数が経っていたのだから。
だが、今年はそうはいかなかった。密筑には悲しみと恨みが渦を巻いていた。
去年仲良く遊んだ子等の何人かは、その母親等と共に大船に乗せられた。
ウタリに殺された兵士の子等である。
押し黙ったまま桟橋の上から、恨めしげに葉祥を見る目に胸を突かれた。
「父ちゃんを殺したのは、姉ちゃんの友じゃないか」
そう食ってかかる子を母親は叱りつけ、無理矢理に彼女の足下に平伏させた。
居たたまれぬ里であった。
葉祥は主館に与えられた自室に籠もることが多くなっていた。
「もう、静織に帰ろうかしら」
何度その言葉を呟いたことだろう。
だが、この秋の終わりまで、決してこの浜を離れることはないと思う。
ウタリがいるのだ。
あの金色の輪郭を持つ少年に、もう一度会いたい。
「そろそろ戻りませぬか」
迎えに来た剛霜の言葉に頷いて、密筑の浜を振り返る。
赤い地層が剥き出した崖の上から、入江へと続く長い坂道が見えた。
その坂を、一人の少年が疾風のように駆け下りて来るのが見える気がした。
風に揺らぐ小枝を避け、太く張り出した枝をかいくぐり、うねる瘤根を軽快に飛び越えて、しなやかに走る少年。
真夏の太陽。その鮮烈な熱と光りを一身に受けた若者。
息を弾ませて岸壁の上に立ち、青く揺蕩う密筑の海を見つめる。
海風が彼の髪を揺らし、熱く火照った体を冷ますように吹き付けている。
少女はその横顔を思い出す。その褐色の身体に、もう一度触れてみたかった。
この夏、古潭の者への見方を変えた里人はごく僅かだと思う。
剛霜と石決明漁の仲間達。ウタリと共に動いた人達だけである。
他の人々は…あの惨劇しか知らない。
あの時、兵が向かわなければ事態はもっと違っていたことだろう。
ひょっとするとウタリは里を救った英雄として、里人に受け入れられたかも知れないのだ。
それを思うと、葉祥は悔しさに内腑を抉られるようだった。
「ウタリのことですか」
少女の小さなため息に、剛霜はつい言わずもがなの事を訊ねてしまった。
今の二人にとっての関心事は、ウタリ以外にありはしないのに。
今のところ、里は平穏を保っている。
劉孔の言葉が効いたのか、里長も動く気配を見せていない。
だが、ウタリが現れればそうはいくまいと剛霜は思う。
それで少年は、姿を消したのかも知れなかった。
出航間際になって剛霜は船を降ろされた。
劉孔は万が一のために船人の一部を浜に留め置く事にしたのだ。
里人と違って船人は都から劉孔に付き従ってきた者達である。
『ウタリを知るお前なら…』と権を与えられて剛霜は後を託された。
劉孔の言葉は、ウタリを理解せよという謎かけなのか。
それは、ひいては古潭を理解せよということなのかも知れなかった。
葉祥とウタリに出来た絆をきっかけに、劉孔は古潭との融和を考えているのだろうか。
それには、里人にある根の深い不信感と恐怖を取り除かなくてはならない。
一朝一夕に出来ることではないと思う。
だが、劉孔ならばやれるのかも知れない。
剛霜に出来ることは、主人に従うことだけだが。
取り敢えずは、劉孔が帰るまで里長を監視し、その行動を押さえることだ。
それさえ上手くいけば、この秋は穏やかに過ぎるだろう。
古潭が里を襲うはずもないのだから。
そう考えて、はたと思い至った。
古潭は里を襲わない。そう言い切れる根拠は何だろう。
いつから自分は、古潭が襲って来ないことに確信をもっていたのだろうか。
『ウタリを知るとは、このことか…』
彼の人柄を知ること。彼への信頼が不安を除き、和平を確信することにつながるのだ。
その自信なくして、里人の暴挙は決して押さえられないだろう。
「信頼‥か」
古潭の森を振り仰ぐ。
近くて遠いその森が、やがて親しい存在として里人に受け入れられように、これからウタリを知る者を増やしてゆかねばならない。それが彼の役割なのかも知れなかった。
里人の頑迷さを考えれば難事ではあるが、決して無理なことではないだろう。
この頑固で傲慢な自分でさえも、今は彼を信じることが出来るのだから。
前を行く葉祥が、くるりと振り返った。
「剛霜殿もウタリが好きになった?」
屈託のない笑顔につられて、思わず顔をほころばす。
「‥はい」
二人の眼前には、初秋の日差しを受けてキラキラと光る稲穂が広がっている。
好天気に恵まれて、今年は殊の外稲の生育が良かった。
風にそよぐ黄金色の稲田の向こうには、密筑の里の家々が行儀良く建ち並んでいる。
その先には、青く続く山々があった。
まだ誰も見たことがない幻森の国。
ウタリが住み、カムィの声が響くという神境の森。
いつの日か我等がウタリの力を借りて、互いの理解を進めた時、彼らは密筑の人々を快く受けて入れてくれるだろうか。
「いつか‥きっと」
剛霜の想いに答えるように、少女は組んだ手を胸に当てて呟いた。
「誰もがウタリを好きになるわ」
二人が見上げる古潭の森は、深い緑の中に色づき始めた大樹の変容を内包して、蒼空の中にくっきりとその輪郭を描いていた。
『此より東北二里に密筑の里あり。村の中に浄き泉あり、
『其の東と南とは、海浜に臨む。石決明、
西と北とは山野を帯ぶ。椎、櫟、榧、栗生ひ、鹿、猪住めり。凡て、山海の珍しき味、
『又、海に
~ 常陸国風土記より ~
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