第13話 オクリの儀

 夜の帷が降りる頃、燭台に火が灯されウタリは祭壇の前で円殻を見つめ種族の言葉で語りかけた。

 剛霜と数人の仲間達は、左右の壁に凭れてその様子を眺めていた。

里の兵士が殺されたのは、つい昨日の事である。とても儀式に付き合うような気分ではなかったが、里の連中が恨みのあまりに何かしでかすような事になったらと、警護のつもりでここに来ていたのだ。

 ウタリのとった行動もやむを得なかった事だとは思う。

だが剛霜とて密筑の人間なのだ。騒ぎが起きればウタリを庇い通す自信はない。

里長の思惑に巻き込まれるような騒ぎはもう懲りごりだった。

何も起こらぬように気を配るのが肝要なのだ。

 船の仲間達も一様に重苦しい気分に浸っていたが、幸いここには死んだ兵の身内はいなかった。

船の一族は兵士にはならないのである。

 祭壇の前ではウタリの祈りが続いていた。

まるで朋輩にあたるように、ウタリは石決明に情を込めて長々と語りかけ、時々貝の言葉を聞くように黙し、また語った。

やがて酒が注がれ、干物が炙られ祭壇に供された。

 ウタリは剛霜の隣に座を移すと、酒杯を渡した。

「飲んでくれ。カムィに嫌われずにすんだ」

そうか、と剛霜は朧気ながらウタリの行動に理解が及んだ気がした。

獲物を見つけるということは、カムィに出会うことなのだ。

そのカムィに嫌われれば、運を失うことになる。

狩猟の運に見放された狩人には、もはや生きる術がないのだ。

それでウタリは、あれほどオクリにこだわったのだろう。

剛霜はウタリに頷くと、それを一気に飲み干した。

 酒杯が回され、男達はぐいぐいと呑んだ。

こんな気分の時には、さっさと酔ってしまった方が良い。

次第に座が和んでくると、ウタリが歌い出した。

それは古潭に伝わる古い歌だった。

哀愁のある響きの中に、可笑し味のある旋律が混じって、剛霜は酔うほどに歌に聴き入った。

 そのうち誰かが歌垣で流行る歌を謡い始めた。

途端に座は、若者特有の賑やかな宴席へと変化した。

もっぱら女達の話になり、揶揄される者、むきになって打ち消す者の攻防に、どっと笑い声が溢れる。

ウタリは時々殻に向かって、楽しげに何事か話しかけているようだった。

剛霜は酔いに任せてうっとりと目を瞑り、里の言葉と古潭の言葉がさざ波のように重なっては消えていく余韻を楽しんでいた。

 そんな時、入口の筵があげられた。

入って来たのは劉孔だった。

皆、ぎょっとなって平伏するところを主は手で制した。

「儂もウタリの神に礼を言おうと思ってな」

「よいかな」とウタリに問うと、彼は祭壇を整えて脇に下がり劉孔に一礼した。

剛霜は、主の行動に驚かされたが、ウタリの態度にも意外なものを感じた。

古潭の者が里の礼儀を知るとは…。

 劉孔は祭壇に進み出ると、石決明の殻に語りかけた。

「ウタリの神よ。儂は静織の長にして密筑の主、劉孔である。こたびは我里に大きな恵みをもたらしてくれた事、感謝に堪えぬ。今宵はゆるりとくつろがれ、無事に神の国に帰られよ。そしてまた機会があれば、我里に再び大きな恵みと共に参られよ。きっとウタリと共に歓迎するであろう」そう言って杯に酒を注いだ。

「カムィが喜んでいる」ウタリが喜色を浮かべて言った。

「会えて嬉しいと言っている」祭壇を辞した劉孔に嬉しそうに酒を注ぐ。

 ほぉ…と剛霜は思った。ウタリにとってカムィは近しい神のようだ。

まるで劉孔が彼の祖父母を見舞ったように歓待するのが印象的である。

剛霜達が神を畏怖するのとは違って、ウタリにはカムィに対して肉親に寄せる情愛に近い感情があるようだ。

 ひょっとしてウタリは人間ではなく、カムィの子なのではなかろうか。

大鰒をたった一人で引き剥がした事も、昨日見せた尋常ならざる力も、剛霜の理解が及ばぬ世界からもたらされた力なのだとしたら、それはそれで頷くことが出来るというものだ。

 一瞬にして倒された兵士達。

少年の身体から発せられた鋭い闘気。

尋常ならざる双眸の色。

剛霜の目に焼き付いて離れないそれらの光景…あれは確かに人間の業ではなかった。

大鰒に宿るカムィが自然神そのものなら、それを見つけ一人で岩礁から引き剥がしたウタリもまたカムィなのではないかと思う。

 もしウタリが少年の姿をしていなければ、剛霜達は間違いなくその力に怯え、彼を恐れたに違いない。

だが闘気の消えたウタリは、ごく普通の少年にしか見えないのだ。

その急激な変貌ぶりも、ただごとではないように思う。

 ウタリがカムィの子であるとしたら、彼は古潭の人々とも違うということになりはしないだろうか。

これまでの狩りで、何度となく遭遇した古潭の人々が、あれほどの動きを見せたことはなかったし、噂にも聞いたことがない。

里長は、そうした事情も分からずに闇雲に兵を出してしまったのだ。

人でないもの…これは、やはり剛霜の理解を越えていた。

 だが、剛霜は考えるのを止めることにした。

幸いなことにウタリの行動は、今のところ条理にかなっている。

ならば考えても分からぬ事は、その機会が訪れるまで放っておくにしくはない。

石決明の殻と何度も頷きながら話し込んでいるウタリの背中を、剛霜は酔った眼でぼんやりと眺めていた。

 言葉のさざ波が戻ってきた。

音律の波がうねりとなって剛霜の瞼を捉え始めた頃、ウタリが唐突に振り返った。

「カムィが今、帰るそうだ」言い終わらぬ内に、祭壇から突風が吹いた。

 ゴオォッ…

突風は瞬時に祭壇を倒し、燭台の灯りを吹き消し、入口の筵をバタバタと揺らすと真っ直ぐに群青の夜空へ吹き去っていった。

大風が巻き起こす大気の音が、辺り一帯に響き渡る。

酔顔を風に嬲られて飛び起きた剛霜には、まるで風が笑ったように感じられた。

 暗闇の中で呆然とした人々が、我に返ったのはしばらくしてからであった。

再び燭台が灯され、皆がほっとしたように顔を見合わせた時だった。

祭壇の後ろに立てかけていた石決明の殻がぐらりと揺れると、そのまま前方に大きな音を響かせて、がらんと倒れた。

「おおぉ」わけもなく男達の口からどよめきが起きた。

オクリは終わったのだ。

 剛霜は息を吐いた。

ただの儀式だと思っていた。

だが、カムィは風を興して帰って行ったのだ。

まるで、その存在を知らしめるかのように…。 

 すっかり酔いから醒めた男達が、ようやく倒れた甲殻を引き起こしにかかった。

するとゴトリと音がして、中から拳大の玉が転がり出てきた。

「なんだ‥?」

玉は燭台の光を受けて薄闇の中にぼんやりと白く輝いている。

よく見ると、その光は灯りのゆらめきで、虹色の光彩を放っているではないか。

「これは‥」劉孔は差し出された玉を手に取って子細に眺めた。

「真珠ではないか」それも粒というにはあまりに大きな…。

一同は驚きに声もなかった。

 甲殻を裏返してみると、倒れた衝撃で、積層した内殻の一部が剥がれ落ちていた。

そこには確かに拳大の窪みが残っている。

大鰒は長い年月の間にその身を大きくしただけでなく、その殻の内に貴重な真珠までも育てていたのである。

「…カムィの印だ」ウタリは安堵の吐息を漏らした。

随分待たせてしまったが、どうやら満足してくれたようだ。

カムィが満悦して印を残していくことなど、滅多にないことなのだ。

だが、ここで聞いたカムィの声はとても小さかった。

古潭では、カムィの笑いは森の奥まで響くのに…。

小さな声をかき消すように、ここでは人の心が騒がしいのだ。

カムィの去った群青色の夜空には、青白い月が煌々と光を放っている。

その光に照らし出された浜辺に、うち寄せる波の音が静かに響いてきた。

 ウタリは耳を澄ませた。

もはやカムィの声は聞こえない。

青い浜辺に向いて、開け放たれた戸口の外では、ただ虫の音だけが響いていた。

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