第12話 誤解(後編)
一夜明けて、入江は喧噪に包まれていた。
大船が曳航されて、浜に積まれた荷が運び込まれてゆく。
密筑の里からは燻製した肉、毛皮、干し魚や海藻類、茸等。静織の里からは織布、紙、漆器等が都に送られる。勿論、石決明の干物が一番の大荷である。
その大円殻が今まさに死闘を演じた男達の手によって、船上に運び上げられようとしていた。
その時、騒ぎが起こった。
最初は小さな諍いだった。だがすぐにそれは大声の罵り合いになり、ついには乱闘に発展した。
その中心にいるのはウタリであった。
彼は憤怒の形相で、男達の組んだ円陣の中にいた。
男達は十数人で少年を囲い、四方から殴りかかった。
隙を見て捕らえようとするが、ウタリの抵抗は激しい。
彼は襲いかかる男達を掴むと、人垣の外へ放り投げた。
細い身体の少年が、分厚い筋肉をまとった男を軽々と投げ飛ばすのである。
何人かが宙を飛ぶと囲いは広がり、遠巻きにして石を投げ、棒で叩いて体力を削ぐ戦法に転じた。
ウタリは円の一方に突進して一人を捕まえると長棒を奪い、片手に男を掴み石避けにしながらもう片方に持った長棒を振り回して道を作った。
何度もそういった攻防を繰り返しながら、次第に大船の積荷に近づいてゆく。
「どうしたっ」
騒ぎを聞きつけた剛霜が割って入った。
「此奴が石決明を返せと」
「なにっ」
振り向いた剛霜をウタリの目が見据えた。
「剛霜、嘘をついたなっ」
「待て、どういうことだ」
「オクリをすると言ったろう」
「だからお前に知らせたではないか」
「では、あれは何だ」
ウタリの指した先では、石決明の甲殻が大船に引き上げられていた。
「石決明だが…」
間抜けな答えだが、剛霜にはウタリの言わんとすることが理解できなかった。
「あれではオクリは出来ない」
ウタリは大息をつきながら、それでも冷静さを取り戻しつつあった。
相手は困惑した目でウタリを見ている。どうやら悪気はなさそうなのだ。
剛霜もどうやら何かが違っているらしいことに気が付いた。
「退け」と男達に合図して下がらせると「お前の言うオクリとは劉孔様をお送りすることではないのか」と訊いた。
「俺はカムィを送るのだ」ウタリは大船の石決明を指し示した。
「石決明の殻がカムィなのか」
「殻ではないが、カムィは今、殻に留まっている」
「殻に…?」
剛霜はウタリの指し示す石決明の円殻を凝視したが、何も見出す事は出来なかった。
「俺には見えんが…」
「カムィは鮑の殻と身をまとって、カムィモシリからやって来た」ウタリは訴えた。
「俺達に贈り物を持ってきてくれた。俺はカムィをもてなしてカムィモシリに帰さなければならない」
「ふむ…」
剛霜は、その言葉の意味を考える。
我等には見えないカムィとやらをもてなして帰すとは、どうやら祭祀らしき事のように思われた。
カムィとは、ウタリ達古潭の者の神なのだろうと思う。
カムィモシリという神の国から人間界に鮑の姿でやって来て、その身と殻を贈ってくれる。
ウタリはその返礼にカムィをもてなして、神の国に帰すということなのではないかと剛霜は考えた。
獲物や穀物を祭壇に供え、その恵みに感謝し、さらなる豊漁豊作を願うというのは、里でも毎年催行される祭祀だ。
そういった信仰が、古潭にもあるのではないか。
だとしたら、それはウタリにとって極めて大事な儀式に違いない。
彼は劉孔に願って、彼のオクリを叶えたいと思った。
「少し待ってくれないか‥」
その言葉の終わらぬ内に、ガシャガシャと異様な音が近づいてきた。
見ると、坂の上から甲冑姿の男達が数十人、列をなして下って来るではないか。
きらきらと光る槍を掲げ、剣を携えた男達の先頭には里長の外浦別比古が立っている。
「里長っ」剛霜はその前に両手を拡げ立ちふさがった。
「どけっ剛霜。劉孔様の出立を妨害する不埒者を成敗する」
「誤解だ。里長」
「誤解などありはしないっ」
その言葉が朱比古の白い顔と重なった。
此奴等…まさか、この機にウタリを除こうという腹なのか。
最近になってウタリが里の近くに出没するのを、里長が苦々しく思っている事は剛霜も感じていた。
しかし、劉孔様が剣を与えた意義は大きく、しかも葉祥が共に有るために今まで手を出せずにいたのだろう。
別比古が采を振ると、兵はウタリに殺到した。
「殺せっ」「蝦夷を殺せ」とウタリに投げられた連中が叫んだ。
横一列に槍を構え突進してきた兵の前を駆け、ウタリは素早く岩場に向かって、波に洗われる突き出た岩礁に足場を確保した。
槍襖に囲まれては動きがとれなくなる。
ここなら多勢で押し寄せることが出来ないからだ。
兵達は逡巡の末、隊形を解いてバラバラと岩場に散開した。
最初にウタリの前方に進み出た兵がその槍を突き出す。
ウタリはその槍先をかわし、脇に流れた長柄を掴むと兵の手から易々とその槍を奪った。
一瞬の出来事に呆然とする兵の足下に、その槍先を突き立てた。
「殺せ!殺せ!」殺意が浜に溢れ、兵達は激情に駆られて叫んだ。
「この、蛮族がっ」背後から次の槍が突き出された。
後ろも見ずに身体を振って、またも長柄を掴むと小脇に抱えて体を捻る。
背後の兵は槍もろとも振り回されて、頭から海面に突っ込んだ。
「鼠野郎めっ」
「死にやがれっ」
三人の兵士が毒づいて次々に槍先を繰り出した。
ウタリは機敏にかわしたが、同時に突き出された槍の一本が脇腹を掠めた。
「うっ」片膝を付いたところを狙われた。
「今だ」
「殺せ、殺せっ」三方から同時に穂先が迫った。
ウタリは屈んだ両足に力を込めると、一気に宙を跳んだ。
繰り出された穂先の上を軽々と跳躍して背後に着地すると、兵の背に拳を叩き込んだ。
前面に比べれば、防具の被いがほとんどない背中である。
重い甲冑を着込んだ兵士は、前のめりに倒れると岩礁にしたたか頭を打ち付けたのだ。
「なんだっ!」
一瞬の出来事に剛霜は我が目を疑った。
ウタリの前方の岩には、頭を割られた兵士が突っ伏して、見る間に鮮血が波間を漂いだした。
浜は騒然となった。
ウタリはそのまま岩礁を回り込んで、剣を抜き放った二人目の男の胸を目がけて鮮やかな跳び蹴りを放った。
足場の悪い岩の上は、平衡を失った甲冑の兵には命取りだった。
仰向けに倒れた背中に、鋭く突き出した岩根の先が突き刺さったのだ。
白目を剥いてもがく兵の口から血泡が噴き出して、四肢は力を失った。
ウタリは体勢を立て直した三人目の突進を避けると、背後を取った瞬間に両の拳を一つにして後頭部に重い一撃を加えた。
その喉元に、先に倒れた兵の持つ剣の切っ先が突き入った。
首筋から突出した鋭利な先端が、徐々に血塗られた刀身を現し、兵士の身体はずぶずぶと沈んでいった。
瞬く間に三人の兵が倒れ、辺りには血の臭いが立ちこめた。
だが、ウタリの抵抗はここまでだった。
殺到した兵が十重二十重と取り囲み、その圧倒的な重量でウタリを押しつぶさんばかりに押さえつけたのだ。
さしものウタリも先ほどからの乱闘によって体力を消耗し、この重圧を撥ね除けることが出来なかったのだ。
ようやく兵士達の動きが止まった。
ウタリは捕らえられ、里長の前に引き据えられた。
だが、ほとんどの里人の目は、先ほどまで仲間が立っていた辺りを彷徨って、その倒れ伏した身体を呆然と見つめているのだ。
誰もが急激に戦意を失い、激情が冷めた代わりに得体の知れない恐怖が這い上ってきた。
「なんとしたことだ‥」別比古の顔が青ざめていた。
唇が戦慄き、目だけが落ち着きなく捕らえられたウタリと兵の間を何度も往復した。
予想もしない出来事だった。
甲冑に身を包んだ兵士が、まさか三人も倒されようとは…。
先ほどの乱闘…あれ程の戦いでもウタリは手加減をしていたのだと剛霜は悟った。
少年ですら古潭の者はこれほどの強者なのか。
もし古潭が本気になったら、密筑がいくら防備を整えたところで到底勝ち目はないだろう。
里人にある潜在的な恐怖を、剛霜は垣間見た気がした。
「別比古、兵を退げよ」劉孔の声が響いた。
葉祥が駆けだして、ウタリの手を取る。
浜辺は静寂に包まれていた。三人の魂が吹き飛んだ時に、誰もが声を失っていたのだ。
ウタリの全身からは、まだ針のように鋭い闘気が発せられている。その双眸は到底人のものではありえなかった。
だが、恐れることもなく駆け寄った葉祥の強い抱擁は、徐々に少年の緊張を解いていった。
獣のような瞳に知性の色が戻ってくると、やがて闘気は薄れていった。
劉孔は少年に近づいた。
「ウタリ、すまぬな」剛霜から事情を聞いた劉孔は出立を延期した。
一旦荷を揚げた大船から石決明を降ろすと、浜小屋へ運び込ませた。
小屋の奥の壁に石決明の殻を立てかけて、その前に急ごしらえの祭壇を作り、積荷となるはずだった産物を並べた。
剛霜達がウタリを手伝っている間に、里では別比古が劉孔に詰め寄っていた。
「蛮異の神を祀るなど‥天罰が降ったらなんとなさいます」
「儂はあの子に礼をしたにすぎない。ウタリがいなければ石決明は取れず、都へは上れなかったのだからな」
「しかし里中であのような事を許せば、古潭に侮られましょう」
「だから浜小屋を貸すのだ。あの子が古潭に戻り、祭儀を努められなかったと聞けば、彼等こそ侮られたと思うであろうな」
「なんの、蛮族ごときが‥」
「あの子の力を見たではないか。争えば多くの血が流れるぞ。儂は急ぎ都へ上らねばならん。争いは避けるのだ」
しかし‥と言いかけて里長は、劉孔の硬い目を見て苦く黙した。
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