第16話 交渉
カムィとは古潭の者達が信奉している神のことだろうと思う。
その祟りがどんなものかは知らないが、すくなくとも古潭の者に里人が襲われるようなことは避けなければならない。
少年の降ってきた崖の上に、その古潭はあるに違いない。
それは里の後背にあたる山地の何処かにあると云われている先住民達の邑である。
そこに行くには剛霜達が回り込んで来た大河の河口付近から、砂州を抜けた先にある山地への坂道を上らなければならない。
他はどこも断崖絶壁で、その坂だけがこの辺りで唯一の山地と平地とを結ぶ縁であった。
だが、里人は決してその坂を上ることはなかった。
坂上には常に古潭の兵士が待ちかまえていて、近づく者に大石を投げ落とすと云われているからである。
実際、過去には無理に上ろうとした里人の数人が、落石のために大怪我をしている。
それゆえ、里の狩人達は崖下を縫うように迂回して、古潭の民と出会わない西の猟場へと出かけるのだ。
里人が古潭を怖れるのには、噂ばかりではなく、未だに古潭の兵力が知れないことにある。
どれほどの民がいるのか、どんな戦法を用いるのか、皆目検討がつかない。
なぜなら先住民である彼等の地を侵したにも関わらず、今までに戦らしい戦を挑まれたことがないからだ。
かといって決して友好的でないことは、坂上からの落石で明らかである。
そのことがかえって里人に不安を抱かせ、出会わずにすめばそれに越したことはないと思わせているのだ。
そんな里人の心理を今まで剛霜は鼻で笑ってきたが、こうして少年とはいえ、大鹿を鮮やかに仕留めた身体能力の高さ、男達の囲みに動じることもない胆力を見せつけられると、里人の不安も分からないではないという気持ちになっていた。
少年でさえ、これほどの者なのだ。
剛霜達船守衆のせいで、里の狩人が木陰から狙われたり、山菜摘みの女子供が矢を射かけられたりすることがあってはならないのだ。
剛霜は深く息を吐いた。
「俺はただ頼んでいるのだ」
「ほう…」少年はその言葉を意外に思ったようだ。
回りの男達と剛霜とを見比べて「頼むというのは掟にはないな…」とつぶやいた。
険しい目つきの男達は、剛霜の考えをよそに今や殺気をはらんで少年を取り囲み、焦れたように剛霜の出方を窺っている。
だが少年は、気にとめる様子もなく初めて出くわした問題に随分悩んだ末に「それなら…少しぐらい肉を分けてやってもよい」と言った。
その言葉に剛霜は片眉を上げたが「いや、そうではない」と、少し言いにくそうに言った。
「つまり、まるまる全部欲しいんだ」
「はぁ?」少年はぽかんと口を開けた。
「‥虫の良い奴だな」彼の顔に初めて呆れたような表情が浮かんだ。
「おまえ達の里では、頼んだら獲物をくれるのか?」
「…困っていたらな」剛霜はいくぶん赤らめた顔をしかめた。
里には穀倉や貯蔵庫があるし、浜にも干物小屋があって、蓄えておいた食料は互いに交換している。もちろん無くては困るものだから、まんざら嘘ではない。
だが、不思議そうな顔をした少年に穴の開くほど見つめられると、ばつの悪い思いをせざるを得なかった。
聳やかした肩が、ついすぼみがちになるのを堪えて剛霜は、なにか良い手だてはないものかと考えを巡らせていた。
微妙な空気の中、少年も古潭の長老が言った言葉を思い出していた。
曰く、世界は全てカムィのものだ。カムィは吾等にいつも贈り物をしてくれる。困ったときには助けてくれるのだ…。
「…おまえ、困っているんだな」
少年の爽やかな声に、剛霜は鼻白んだ。
「え、まあ…そう‥いうことだ」
「そうか、なら分かった。カムィの贈り物は、困った者に先に与えられる。これはおまえに与えられる」
思いもかけぬ少年の言葉に、剛霜はたじろいだ。
「えっ?、あ、いやいや。そう言われると‥な」
「なんだ、いらんのか?」
「あ、いやいや、それは‥欲しい。欲しいのだが…」
「なら、持って行け」
「う、あ…」
ありがたい話だが、大の男が年端もいかぬ少年の度量を見せつけられたまま、お情けで戴いた獲物を持ち帰るというのでは格好がつかない。
借りを作ったまま分かれるべきでは無いと思った。
「確かに困っているのだが、貰いっぱなしと云う訳にもいくまい。何か俺達の持ち物と交換できる物はないかな。どうだ、おまえ何か欲しいものはないか」
「無いな。欲しいものは自分で作る。その為の獲物だ」
にべもないな、と剛霜は苦笑した。
だが、少年の言葉にふと気付いたことがある。
「自分で作るための獲物? 肉以外にこの大鹿で何か作るのか」
「ああ、角は削って針や鏃を作る。毛皮は鞣して、寒さの備えに使う」
「成る程…だったら、俺たちの弓矢と交換せぬか」
どうせ作るなら同じ事だろうと、剛霜は持っていた弓矢を差し出した。
「なっ、待て、剛霜っ」
事態を見守っていた男達の一団から制止の声が上がった。見れば剛霜に応援を求めてきた里の者達である。
「夷狄に武器を与えてなんとするっ」
「いや、しかし…」
「そもそも大鹿は吾等が追い込んだもの。先に矢傷を付けたの、とどめを刺したのと小賢しい。こんな小童など恐るるに足らん。腕ずくで分からせてくれるわっ」
言うが早いか四、五人の男達が少年を取り囲んだ。
「ま、待てっ」
剛霜の制止も聞かず、男達は一斉に少年に襲いかかった。
あっという間に少年に向かって輪を狭め、押し潰すように殺到した肉体が、連続して重く鈍い音を響かせた瞬間、その中心が爆ぜた。
「ぐわっ」
「がはっ」
くの字に折れ曲がった男達が放射状に這い蹲った中央で、少年は息の乱れも見せずにスイと立ち上がった。
「は…えっ」
何が起きたのか、剛霜には追えなかった一瞬に、少年は天雷の動きを見せたのだ。
四方から飛んで来る拳を掻い潜り、繰り出した腕の隙を縫って、瞬く間に男達全員の鳩尾に打撃を与えたのだ。
幸いなことは、男達は武器を抜かずに素手で殴りかかったことである。
これが剣の刃先であったなら、少年は迷わず己が武器を手にしたであろう。
その結果、流血は回避出来ない対立を生み、剛霜といえども場を収めるのは難しかったに違いない。
たかが小童と侮り、少々痛めつけてやろうと拳を振りかざしただけだったために、決定的な反撃を受けずに済んだのだ。
「で、何だっけ」
少年は転がって呻き声を上げる男達に見向きもせずに、剛霜に先ほどの続きを促した。
「あ、ああ…」
剛霜はたった今起きた奇跡のような出来事を無理矢理に呑み込んで、こちらも何食わぬ顔で再び弓矢を差し出した。
「吾等が普段使いしている弓だ。少々おまえには大きいかも知れんが、その膂力なら問題は無さそうだ。弓は二人張りで少々剛(かた)いがよく飛ぶ。鏃は銅(あかがね)を鋭く研いだものだ。振れがなく、勢いを殺がず獲物を深く貫く」
「アカガネ?」
「ああ、光る石や青い石を高温で焼くと溶け出してくるのが銅だ。それを集めて型に流し入れ、冷えたらこのように研ぎ澄ます」
「ほう、これはそんな風に作る物なのか」
少年は初めて興味を持ったようだ。差し出された矢の赤金色に輝く先端をじっと見つめた。
「石を溶かして固めると、こんなに光る物なのか」
「うむ。だが、磨かずにおれば再びゴツゴツとした青い石になってしまうぞ」
「ほう、そうなのか…面白いな」
少年は鋭角に整えられた矢先をしみじみと眺めながら、しばし考えに耽っていたようだが、やがて「うんっ」と頷いた。
「よかろう。これと鹿を交換だ」
「おお、そうか」
これで借りを作らずに済むと剛霜はほっとした。
と、いうのも少年の「困った者に先に与えられる」という言葉が引っ掛かっていたからだ。
相手が困っていれば譲歩しなければならないという前例を作れば、この先きっと古潭とのいざこざが起こった場合の障害になるだろうと考えた。
そうなれば主に迷惑が掛かる。自分がその原因になるわけにはいかないのだ。
そんな剛霜の思いを余所に、少年は漆塗りの弓一張と銅の矢十数本を収めた矢筒を受け取ると、もう大鹿を顧みることも無く瞬く間に姿を消してしまった。
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