第8話 大鰒(中編)

 翌朝、入り江には幾艘かの小舟と数十人の男達が夜明けを待っていた。

やがて曙光が朝靄を切り裂いて辺りを紅に染め上げたとき、入江に続く外崖の縁から人影が現れた。

 細く引き締まった黒い人影は赤光を背に、折からの海風にその髪を金色に靡かせた。

「あの子かね」

 男達の背後に座した年嵩の男が隣の少女に尋ねた。

葉祥の父で、静織しどり里長さとおさを務める劉孔りゅうこうである。

娘はこくりと頷いた。

 少年の視線が男達を薙ぎ、葉祥達に向けられると黒い影の中に金の瞳が見えるような気がした。

「良い気を放つ‥」

「古潭の者だそうです」脇に控えた密筑の里長がひそりと告げた。

劉孔は眩しげに目を細めて頷いた。

「ウタリっ」

剛霜は立ち上がると、近づいてくる影に呼びかけた。

「持ってきたか」

影は頷くと背負った荷を剛霜の足下に投げ降ろした。

 革袋に入った包みが九つ。

草の葉に包まれた乾いた泥玉が入っていた。

革袋を覗き込んだ剛霜は、鼻をつく刺激臭に顔をしかめた。

「草の根を揉んで拳大に丸めた玉を泥で包んで乾かしたものだ。これをを鰒の穴に詰め、弱ったら櫂で引き起こして運ぶ」

ウタリは革袋の一つを取り出すと、頭に乗せた。

「使うまでは濡らすな」

 先頭の小舟に草玉隊が乗り、かいと縄を積んだ小舟を曳いた。引き剥がし役の男達がその後に続く。

 幸い海は凪いで浮子桶は無事に岩根の住処に繋がっていた。

ウタリは九つの穴を確認すると浮上した。

「よし、手早くやるぞっ」

 両手に玉を掴んだ男達がウタリに続いた。

端の穴からぎっちりと草玉を押し込んでいく。

ものの数分の作業で円殻に開いた九穴は草玉で塞がった。

 ウタリは浮上を指示し、浮子樽の縄を手繰った。

呼吸孔から海水に解れた泥が、狼煙のろしのように海中を漂ってゆく。

「本当に効くのか」

誰ともなく呟いた不安が凪いだ波間を漂う。

 その時、ぐりんと海底の石決明が動いた。

円殻が側の岩礁に当たり、衝撃が海面を突き抜ける。

ずずんと海底から重い音が響き、男達は慌てて小舟に飛び乗った。

 ウタリは海中で石決明の動きを見つめていた。

巨大な円殻は呼吸孔を塞がれて苦しげにぐりん、ぐりんと左右に振られ、その度に周りの岩根が削られて崩れ落ちる。

 石決明の作った渦に、海底の砂が巻き上がって辺りを靄のように覆い、珊瑚の欠片かけらが速い水流に乗ってウタリの体を叩く。

鋭い欠片に皮膚を切り裂かれると、血の臭いが海中に流れる。

ほんの小さな傷でもわに共を呼び寄せることがあるのだ。

彼は渦から逃れ、岩根の陰に身を伏せた。

 やがて、白い砂がさらさらと海底に降り始め視界が戻ってくると、石決明はその生涯の住処と定めた岩床を動いて、柔らかな砂中に深く潜り込もうとしているところだった。

「拙いな…」一度潜られると、薬草の効き目が切れる前に掘り出すことは困難だ。

これを一旦見逃して、それで元の岩床に戻ればいいが、姿を隠したまま移動されてしまえば、新たな捜索にどれ程の時を費やすことになるか。

「今、やるしかない」ウタリは浮上して男達に告げた。

「奴が動いている。砂に潜る前に引き起こす」小舟から櫂を手に取ると、すぐさま海底に反転した。

「おおっ」

剛霜も素早く櫂を手にするとウタリの後を追った。

 崩れた岩塊と噴きあがった砂や珊瑚で荒れた海底で、今や石決明は岩床から斜めにずり落ちるように、円殻の一部を砂中に没しているところだった。

 ウタリは岩棚からはみ出た腹身の隙間から、岩の縁に向かって櫂を突き入れた。

円殻の一方から反対へ櫂をこじると、重い腹身がぐねりと動いて密着していた岩床との間に海水が侵入する。

 追いついた男達が、ウタリの開けた隙間から次々に櫂を差し込んで間隙を拡げていく。

石決明は白濁した粘液を出して岩床との密着を強め、腹身の筋を硬くして櫂の侵入を防いだが、男達の執拗な攻撃にじわりじわりとその身を剥がされていく。

 巨大な腹身の三分の一が剥がされ、海面で息を整えた男達が交代して、円殻の側に寄った時だった。

 石決明が反撃に転じたのだ。

ぐりっと殻を回転させる。

それまでの左右の振りでは届かなかった円殻の、楕円の頂点が不用意に近づいた男達をなぎ倒した。

櫂が折れ、先端が弾け飛んだ。

半数の男達が衝撃で岩壁に叩き付けられ、折れた櫂と砕けた岩塊が彼等を襲う。

 石決明は、ぐるりと殻を戻すと腹身の下に残った櫂の先を吐き出した。

失地を回復して白濁した粘液が岩棚を包み始める。

「させるかっ」

 剛霜は急いで、岩床から斜めに落ちた石決明の下に潜り込み、素早く櫂を突き入れた。

ぐねり。

重く滑らかな感触が彼を襲った。

ごぽっと柔肉がたわみ、彼を覆うと猛烈な力で岩棚の壁に打ち付ける。

石決明はその身に剛霜を抱いたまま、彼を肉塊と岩壁の間に挟み込んでしまったのだ。

 もがこうとも四肢がぴくりとも動かせない。恐ろしいほどの圧力が全身を締め付けてくる。

 剛霜は渾身の力を込めて抗ったが、彼を取り巻く重く厚い筋肉の壁はますますその圧力を強めていく。

ぐねぐねと蠢く感触が背中を這い回っていた。

苦しい。息がもう続かない。

 肺腑に詰めた空気は澱み、鼓動は爆発しそうに鼓膜を打った。

死にものぐるいの抵抗も空しく、柔肉は彼の力をぐんなりと受け止めるだけで、のし掛かる圧力を弱めることはなかった。

四肢が萎えると、次には頭の奥がじんと痺れて、すぐに闇が迫ってきた。


 何度目かの息継ぎを終えて、ウタリは海底を目指していた。

急に泡だった海中に、見る間に砂が巻き上がると、全身に振動が伝わってきた。

「なんだ‥」

急に不安がふくらんで、ウタリは掻く手に力を込めた。

見ると、岩棚から斜めに下がった大鰒の腹身がぐねりと下に伸びて、その下にいる剛霜を包み込んでいるところだった。

周りには気を失った男達が、だらりと浮かび上がってくる。

 ウタリは一掻きで石決明の脇に降り立つと、岩床に足を踏ん張り、円殻の縁に手を掛けた。

一気に渾身の力を込める。

ぐんっといったん伸びきった石決明の腹身が、次の瞬間収縮を開始する。

すぐに締め付けるような力がウタリの両手にかかってきた。

じりじりと円殻が下がり、両手が岩床に近づいていく。

「…無理だ」

 ウタリの奮戦を横目で見ながら、懸命に櫂を振るう男達から絶望が広がってゆく。子供一人の力で、どうなるものでもない。

新手の男達もなんとか救出を試みたが、堅く締まった大貝の筋繊維は、ようとして崩れる気配がない。

 ぐりん。

またも石決明は殻を振った。

右へ、左へ。しがみついたウタリを振り回す。

それだけではない。岩棚を這いずり上がって、まだ余地のあった岩床をじりじりと塞ぎ始めていた。

後ろには黒い岩壁が迫っている。

 ウタリはその岩壁に足をかけ、負けじと殻を引き上げた。

だが、石決明の円殻は動かない。

「まずいな‥」

剛霜が飲み込まれてから、かなりの時間が経っていた。

もう息は続かないだろう。

今の振り回しで、また何人かの男達が倒れた。ウタリの息も、もう持ちそうもない。

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