第7話 大鰒(前編)
青い海の中を、ウタリは
少年の足がひらひらと海百合のように揺れながら小さくなるのを追って、暮れてゆく空のように光を失ってゆく海中を剛霜達は懸命に泳いでゆく。
「深い‥」
しかも身体はどんどん冷えていく。
水流は深みほど冷たく、肺腑は水圧に容赦なく締め上げられる。
剛霜は、少年が潜水の達人であることを認めないわけにはいかなかった。
実際、男達の何人かは既に息が続かず浮上を余儀なくされていた。
かろうじて剛霜と数人の仲間だけが、苦もなく潜っていく少年の後を必死について行っているのだ。
さらに一人が脱落して、剛霜もいよいよ息が続かなくなった頃になって、やっと少年が振り返りそばの岩礁を指さした。
そこには荒縄が目印のように巻き付けてあった。
そこまでを目で追い、男達は辛うじて手近な海草に新たな縄を結んで、繋ぎ延ばしながらバタバタと浮かんで行った。
「見えたか」
先に浮かんだ袁乗が荒い息をつきながら、漕ぎ着けた船上の仲間が投げた
「いや‥」
延ばした縄をその桶に結わえながら、剛霜も苦しい息の下でやっとそれだけを答える。
綱を結ぶのが精一杯で、誰も大鰒を確認できなかったのだ。
苦しさが先に立って、確認も出来ずに少年の言いなりに目印を延ばしたが、本当にあそこに鰒はいたのだろうか。
目の前で大きな伸びをした少年の不敵な面がちらついた。
からかわれたのだとしたら…そう思うと、カッと頭に血がのぼった。
「野郎、どこに行った」
その時、ひゅーっと息を吐いて、少年がすぐ隣に顔を出した。
平然と息を整えている横顔を剛霜は憎々しげに見つめた。
「お前、わざと息をつがなかったろうっ」
一息であんな深い海底まで潜るとは思わなかった。
「罵られた腹いせのつもりか。馬鹿にしやがって」
少年はきょとんとして言った。
「なんだ、息がつづかなかったのか」
「なにっ俺を嘲る気かっ」
「よく怒る奴だ」少年は軽く笑った。
「岸からまっすぐ泳いだだけだ」
「それを先に言えっ。心備えが出来なかったわ」
だが、言ってしまって剛霜は、その怒りとも言い訳ともつかぬ言葉を口にしたのを悔やんだ。
日頃から力自慢、体自慢をしているくせに、あやうく溺れかかって子供をなじったとあっては恥知らずの謗りは免れない。
「石決明はいるんだろうなっ」
剛霜は口惜しさを見せぬように声を張り上げた。
「そう怒鳴らずについて来い」
少年は迷惑そうに顔をしかめると、今度はしばらく泳ぎ鰒の真上に当たりを付けてから、ちらりと葉祥のいる岩場を振り返って波間に消えた。
剛霜達が綱を頼りに降りて行くと、彼は岩礁の根本を指さした。
指し示された濃紺の闇を透かしてその先に目を凝らす。
「…な!」
言われて初めてそれと気づくほどの巨大さだった。
どう見ても岩棚にしか見えなかったそれは、少年の指した噴気孔によって初めて生きた大鰒 ―― 石決明であると知れた。
「あんなものが揚がるのか」
巨大な円殻を目の前にして、男達は呆然とした。
毎年石決明を見てきた剛霜達だったが、人の背丈を越えるほどの巨貝を見るのは初めてだった。
まず岩床に貼り付いた身を引き剥がすことが容易ではない。
通常は岩床と身の間に、先を平たく削った櫂をこじ入れて梃子の要領で引き剥がすのだが、巨大石決明の殻はその重みでぴたりと岩床に密着して、櫂を入れる隙間もなかった。
男達は波間に浮かぶと落胆した顔を寄せた。
「あれほど大きくては櫂が通らん」
何かと剛霜を諫める袁乗も浮子樽の上で溜息を吐いた。
せっかく見つけた石決明も引き上げられなければ意味もない。
「あれは…諦めるしかないか」
ぼそりと呟いた剛霜のそばに、ひょこりと少年の顔が浮かんだ。
「どうした、獲らんのか」
その暢気な顔に苛ついた。
「あんな大物をどうやって引き剥がせと言うんだ。櫂も通らんわいっ」
「スルクは使わんのか?」彼は不思議そうに尋ねた。
「スルク?」
少年は頷いた。
「痺れ草や苦い木の根を混ぜて作る薬だ。少し暴れるが、効けばすぐに引き剥がせる」
「此奴、そんなものを使って漁をしてやがったのかっ」
道理で浜の漁獲が減るはずだと怒る剛霜を、待て待てと制して袁乗が尋ねた。
「そいつを使った獲物は食えるのか?」
「毒ではない。効き目はすぐに消える」
男達の間から、「おおっ」と声が湧いた。
「俺達はスルクを知らんのだ。教えてくれぬか」
その方が合理的には違いない、と剛霜は思う。
あの大鹿狩りの時にも、少年は毒の鏃を使用した。
効率よく獲物を狩りたいとは、誰もが考えることだ。
だが、そのせいで近年獲物は減っているのではないか。
こうして海が温み始めた頃から、石決明を探して大騒ぎをしているのは、彼等が毒の漁法を用いた結果なのではないか。
それを今、危急の折りだと云って真似たのでは、古潭を非難する訳にはいかないではないか。
しかし、剛霜に対案が有る訳ではない。
あの大鰒を引き上げるには、恐らくそれしか方法は無いのだ。
仲間が少年に教えを請うのを、彼は唇を噛んで黙って見ている他はなかった。
少年はまだ何か言いたそうな剛霜を見やって、少し考えて返答した。
「…では、明日」
潜りかけたその背に、剛霜はぶっきらぼうに声をかけた。
「お前、名は」
「‥ウタリ」
水音のようにそう告げると、少年は彼の視界から姿を消した。
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