第9話 大鰒(後編)
沖の一点が白く泡立っている。
小舟の寄り集まった場所の、つい先に…。
嫌な予感がした。
葉祥は、その泡の正体を見極めようと、父の側を離れ二歩、三歩と歩み寄る。
「葉祥‥?」
父の呼びかけにも答えず、彼女はさらに海辺に近づく。
等間隔にたゆたう青い波間に、破れたような白い波が沸き上がり、濁った海水が染みのように広がった。
何かが起きている。そう思った時、水面にぷかりと浮いたものがある。
「なに‥」
白く丸い背中‥葉祥の目が大きく開いた。口唇が叫びの形を作る。
浜が揺れた。立ち騒ぐ人々の怒号が飛びかい、小舟が漕ぎ出されてゆく。
沖には次々に男達が浮かび上がって来て、海底での出来事の凄絶さが知れた。
ぐったりと頭を浮かせる者、舳先に片手を絡める者。這い上がった小舟で動かぬ者、浜に向かって力無く手を振る者…。
葉祥は漕ぎ出す小舟に駆け寄った。乗り込むところを背後から抱き留められる。
「離してっ」
砂浜を引きずるように戻されながら、四肢を乱して抗い続けた。
「私のせいで‥ウタリが沈むっ」
石決明に、これほど頑強な抵抗を受けるとは考えていなかった。
カムィは獲物を贈る相手を試す。ウタリにはそれだけの力がなかったのか。
彼は天を‥海面を仰いだ。
その時、目の端を黒い影が過ぎった。
大鰒とウタリの間を、一匹の巨大な鰐が悠々と横切ったのだ。
「まずいな…」
おそらく先ほどの大暴れで巻き起こった渦の、水流に乗った珊瑚の欠片や、岩礁の欠片で傷ついた何人かが流した血の臭いに引き寄せられて来たのだろう。
ほどなく暗い海底の闇の中に、さらに何匹かの鰐が泳ぎ始めているのが見えた。
いつにない海中の振動と、血の臭いに敏感に反応した一群は、大鰒を中心に、円を描きながらその元を探ろうとしているのだろう。
ウタリは、手の動きで周囲の者達に海面に上がるように指示を出し、自らも一旦息継ぎのために浮上した。
「鰐だっ、どうするっ」
袁乗がウタリに怒鳴ると、他の者も一斉にウタリに視線を送った。
「俺がカシラじゃないんだがな」
ウタリは苦笑いを浮かべると、里の者達に舟で待つように告げ独りで海底に戻った。
血の臭いが無くなれば、鰐は散ってゆくだろう。
岩根の影に隠れるようにして様子を窺うと、鰐の群れはいよいよ大鰒に接近し、その半径を狭めている。
中でもひときわ大きな白鰐が、円の中心へとゆっくり移動しているのを見て、ウタリはその影を負った。
背びれに一つ、白い斑点を持った鰐は先ほどウタリの視界を横切った奴に違いない。
悠々と身体を揺らしながら、大鰒からはみ出た剛霜の身体の方へと向きを変えている。
「仕方が無いか…」
ウタリは一掻きで大鰐に接近すると、後ろからその鼻面に片手を添えた。
大鰐はビクリと反応し、その手を振りほどくべく身体を捩らせようとしたが、ウタリの巧みな誘導はそれを許さず、大鰐は鼻面を引き回されるように水中に円を描いた。
その間も、鰐は光の無い虚ろのような眼をウタリに向けて、その隙を窺いながら脇腹の筋肉をぐっと引き締めて、刹那ウタリを襲う素振りをみせる。
その大きな顎に食い付かれれば、少年の半身など一瞬で綺麗に持って行かれてしまうが、ウタリは自分で水を蹴ることなく、大鰐の挙動で流れの変わる水流を上手く利用して、その攻撃をひらりひらりと躱していく。
やがて鼻面を塞がれた鰐の動作が緩慢になると、ウタリは機を見て背びれを掴み、大鰐をくるりと上下に反転させた。
すると、不思議なことに大鰐は大人しく腹を上にして水中に停止したのだ。
鰐が鼻先を触られることで身体の自由が利かなくなることを、ウタリはたびたび鰐との遭遇の中でそんな習性のあることを経験していた。
「ばかな…」
水上で息を整え、なんらかの助けになればと戻ってきた袁乗達は、その様子に驚愕した。
「水中で大鰐を寝かしつけるとは…」
だが、袁乗達の驚愕を余所に、ウタリは困っていた。
なぜなら、このまま鰐を石剣で刺し殺せば、その血の臭いに惹かれて他の鰐が寄ってきてしまうからだ。
このまま潮の流れで血の臭いが薄まるまで、待つほかに手はあるまいと思われた。
「俺の息が続くかな」
日頃から潜水に馴れているとはいえ限界はある。
なるだけ息を続かせるために水流を利用した動きをしていたので、鰐との格闘の後でもまだ幾分かの余裕はある。
白鰐の鼻面に手を添えたまま、大鰒の真上に慎重に位置取って、他の鰐が近づくのを牽制する。
大鰐を抱えているせいなのか、今のところ他の鰐が近づいてくる様子はない。
幸い、岩礁で複雑な入り江の潮流は速く、もう先ほどの騒乱で舞い上がった砂やちぎれた海草の乱舞は収まり掛けていた。
もう間もなく海底はいつもの静謐を取り戻すだろう。
ウタリの掌で制御された鰐の鰓から吐き出される水流も弱まって、大鰐が大分落ち着いてきたことを思わせた。
ウタリは鰐を再び反転させると、潮流の流れに沿わせてそっと手放した。
大鰐はゆっくりと尾びれを振ってそのまま泳ぎ去り、他の鰐もその後を追って去って行った。
「やれやれ…」
危険が去ったのを確認するために、ウタリは辺りを見回した。
群青の薄暮が漂う海底からも、その濃い闇の先に陽光に照らされた水面が感じられる。
今頃海面に浮かぶ小舟からは、負傷した男達が岸に向かって助けを求めていることだろう。
葉祥は泣いていないだろうか。
波間に浮かぶ度に見えた心配そうな黒い瞳を思い出す。
この格闘を、なんとか早く終わらせなければ。
そして、ふと気づいた。
海中に狼煙のように上がっていた白緑色の痺れ液が、今はすっかり消えている。
ウタリは再び円殻に取り付くと、岩礁に脚を踏ん張り渾身の力を込めて引き上げた。
すると、腹身は思いの外伸びてゆるゆると緩慢に戻ろうとする。
「んっ、効いてきたのか…」
ウタリは円殻を離すと、急いで水面に顔を出した。
荒く息をついで、辺りを見回す。
散らばった小舟にぐったりと凭れる男達の間に、折れずに漂っていた櫂を見つけた。
彼は櫂を掴むと再び海底を目指した。
石決明に開いた九つの穴に向かって、何度も櫂の尖端を突き入れる。
その度に白緑色の液体が、じわじわと石決明の周りに浸みだしてきた。
何度目かの息継ぎから戻ると、石決明の腹身はようやくその動きを止めたようだった。
ウタリは再び石決明の縁に手を掛けた。
ぐっぐっぐぐぐ‥。
大きな円殻が上がってゆく。
すかさず肘をいれ、一気に肩の高さまでせり上げた。
ウタリの両腕が上に伸び、弓のように反った背に筋が浮き上がる。
石決明の殻は引き起こされて、今やかなりの角度で斜めに傾いていた。
まるで巨大な笠を被った蛸のように、腹身は伸びきりぶるぶるとその身を震わせた。
岩床を離れまいとして、巨貝はその筋を垂直に張り伸ばして抵抗を続ける。
だが、その抵抗する力は既に弱まっていた。
ウタリは両腕をいっぱいに上げて渾身の力を振り絞った。
その身体がぴんと伸びきったところで、彼は左手を引き絞り、つま先立って右手をさらに突き上げた。
ごぽっ
張り切った綱が突然切れるように、石決明の右半分がついに岩床を失った。
息継ぎをして戻ってきた男達が仰天の眼を剥く。
少年が、たった一人で巨大な石決明を引っぺがしたのだ。
すぐさま全員で浮いた右側の殻を掴み力を合わせると、もはや石決明はその腹身を空しく揺れ動かすだけで、呆気なく砂地に仰向いた。
まだ蠢く肉襞の中には、捉えられた剛霜の青白い姿があった。
闇が揺れていた。冷たく、重く蠢く感触が蘇る。
四肢は深い闇に捕らわれていた。
突然、どんっという衝撃に、剛霜は目を開いた。
瞬間、爆発的な吐き気に襲われて激しく嘔吐する。
その間にも鼻道から咽の隙間から、強烈に呼気を求めた。
血を振り絞るように汗がながれ、四肢は痙攣を繰り返した。
じんじんと耳が鳴り、頭の芯が痺れている。
雑音に混じって歓声が聞こえた。
「助かったぞ」
「よかった」
その声を遠くに聞きながら、剛霜はぼやけた視線を彷徨わせたが、すぐに視界は暗くなりまた闇に沈んだ。
誰かの手が額に当てられた。
闇が白む。
熱が‥光が射し込んでくる。
金色の光…。
頭から入った金色の光は咽を通り、肺に溢れ、熱塊となって腹に満ちた。
光はそこから熱の奔流となって硬直した四肢にすみやかに広がってゆく。
浅く激しい息づかいがおさまり、やがて緊張が緩んだ。
次に目を開けたとき、彼は自分が暖かい砂浜に寝かされているのを知った。
半身を起こすと海が見えた。
波打ち際に舟が集まっている。
両側を四艘の舟にくくりつけられた石決明が、浜に引き上げられているところだった。
仰向けに返された石決明の腹身は、だらりと弛緩して今はぴくりとも動かない。
「どうにか草玉が効いて良かった」
傍らに片膝をついたウタリがぽつりと言った。
「今頃おとなしくなりやがって…」
引き上げられてゆく巨大な石決明をみつめながら剛霜は苦く笑った。
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